座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆私は眠っていましたが、

2014年09月24日 18時10分01秒 | 聖書

心はさめていました。(雅歌五・二)

クリスチャンの経験の中に逆説は無数にある。花嫁は眠っていたが、心は覚めていたとあるのは、その一つである。深い経験をもつ人にして、初めてこの信者のなぞを解くことができる。今夜の聖句の二つの要点は、悲しみに沈む眠りと、希望に満ちた目覚めである。
「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
 お立ちになっておられる愛の御姿
 私のたましいはこの客をお迎えする
 すべてのまといつく罪を振り捨て
 開いた心と苦しむ手を伸ばして

 


「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、

2014年09月24日 18時08分49秒 | 聖書

その美しい飾りのしぼんでゆく花。
これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある」(イザヤ28:1)

エフライムは、「肥えた谷」肥沃な地を持っていて「誇りとする冠」非常に高慢になっていた。
酒に酔いつぶれながら、自分を誇り自慢していた。
神はその酔いどれの誇りとする冠を踏みにじられるために、アッシリヤを送られた。
私達も同様だ。神の恵みを忘れ、自分の力で得たかのように高慢になる。
神に栄光を帰すのでなく、自分が奪い「誇りとする冠」にしてしまう。
そんな時、神は私達にもアッシリヤを、砕きの御手を送られる。
今、痛い事、辛い事態が来ていたら、へりくだって自らを探ろう。
自分を誇っていなかったか、神の恵みを横取りして、自分の手柄にしていないか。
神はしばしば、様々な事態を送り高慢を砕いて下さる。
それは神の愛だ。
放っておかれたら、弱い私達はすぐに天狗になって、あたかも自分の功績のように思い、神から離れてしまう。
思うようにならない状況、事態は感謝な事だ。
不平不満はお門違いだ。へりくだって神のお心を悟ろう。
過去を振り返るなら、思い通りにならない事態が、どんなに感謝で恵みであったか、それによって高慢から守られた事を誰しも知るだろう。
---------------
神は真実に愛して下さっているので、高慢なまま進ませられない。
危険だからだ。アッシリヤを送って阻まれる。
放っておかれない神の愛だ。
高ぶりに気づき、御手の下にへりくだろう。


今日の聖人の記念日

2014年09月24日 07時18分08秒 | キリスト教

聖ノエル・シャバネル司祭殉教者

1613年-1649年

 ノエルは、フランスのメンデに生まれ、17歳のときにツールーズのイエズス会に入った。1641年に司祭となって、カナダへ派遣された。当時のカナダは、ヒューロン、アルゴンキン、イロクワなどの遊牧民が勢力争いをしていた。ノエルは、1644年にヒューロン地方の遊牧民のところに行き、先にそこで宣教活動をしていたガルニエ司祭とともに働いた。風土・習慣になじめず、言葉のハンデもあって宣教が難しかったが、決してあきらめず、生涯をヒューロン人のために尽くそうと決心した。このころから、イロクワ人による迫害が激しくなり、ガルニエ司祭をはじめ、仲間の宣教師たちが次々に虐殺された。ノエルは森に避難したが、キリスト教に反感をいだいてたヒューロン人から殺されて殉教した。彼は、失敗をした人の保護者といわれる。


第2サムエル記18章19-23節

2014年09月24日 07時16分40秒 | 聖書

18:19 ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。」



 この戦いに参加していた祭司ツァドクの子のアヒマアツは、自分たちは戦いに勝利をしたので、この喜びをダビデに伝えたいと申し出ました。

しかし、ヨアブは彼を止めました。

それは戦いに勝ったが、ダビデの子が死んだからでした。

従って、ダビデは決して喜ばないであろうと思いました。

そこで、直接に関係のないクシュ人を、そのために遣わしました。

しかし、アヒマアツが再度要請をするものですから、では行きなさいと告げました。

そこで彼は勇んで出かけ、近道をしてクシュ人を追い越して、ダビデの元へと急ぎました。

彼は、ダビデが戦いに勝利したのを聞いたならば、大いに喜ぶであろうと思っていたのです。

ですから、その喜びを王に伝えたかったのです。

その王の喜びを見たい、また王に喜びをもたらしたいという、そうした王を思う一途な心があったようです。

しかし、熱心さだけでは十分ではない。

人の心を知る、その思いの欠けるところには、喜びは生まれないのです。



◆心 を 与 え よ

2014年09月24日 07時13分48秒 | 聖書

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言二三26)

文語訳では、「わが子よ汝の心を我に与え」となっています。私が、若い時から暗唱し、祈るたびに心に浮かんでくるようになった聖書のことばの一つです。
ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(Ⅰヨハネ三16)と言いました。私たちのためにすべてを与えられたお方が、「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」と言っておられるのです。
私は、その人となりや人生から、平和とか喜びとか思いやりとかの圧倒的な力がにじみ出てくる人におめにかかったことがあります。そういうものは、教養とか財力とか権力ではなく、人生のほんものの力です。そんな人は、心を神に与えている人だと、私は感じています。旧約聖書に「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴代一六9)ということばがあります。神に心を与えきった人には、力が与えられるのです。
その心を神に与え、その心が神と一つになっている人とは、どんな人なのでしょう。ヘブル語の原語から見て三つの意味があります。
第一に、神に対して全く平和になった心です。くだけきって、神に逆らう石の心の部分がありません。悔い改めて罪ゆるされたからです。
第二に、まるごと神に明け渡した心です。一部分でも私するところがありません。
第三に、ささげられた心です。神のみ声がかかったら、すぐに従って実行する心です。
神は全世界を見まわして、捜しておられます。そんな心を! そしてその人に、愛や喜びや平和の力を与えてくださいます。

 


◆私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。

2014年09月24日 07時12分52秒 | 聖書

私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。(エズラ八・二二)

護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。

 


テモテへの手紙 第一 1章13-15節、イザヤ書37章32,35節

2014年09月24日 07時11分26秒 | 聖書

 ★1テモ1:13-15  私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

私たちの主の、この恵みは、キリスト ・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

★イザ37:32、35  エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。

わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

■O:今日のコラム

9月23日の朝です。今日1日もイエス様の救いの中を歩んでいきましょう。イエス様が信仰の中心だからです。

主の願いは、全ての人が救われることです。ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためにイエス様が十字架と復活を味わわれました。一番マイナスのマイナスまで下られ、そして、一番プラスのプラスまで上られました。主は、僕らをとことん愛してくださっています。それは、ただ、万軍の主の熱心によりました。そして、その鍵は、主を愛し続けたダビデさんでした。ダビデさんの祈りの家でした。

僕らが、今までどんな道を歩いていたとしても、イエス様に、あわれみがあります。イエス様に、恵みが満ち溢れています。この恵みは、キリスト・イエス様にある信仰と愛とともにあるものです。

イエス様が救い主『キリスト』だという信仰。イエス様が『キリスト』としてこの世に来られたことを認める信仰。十字架と復活が私のためだったという信仰。イエス様の十字架と復活によって、神様の子供としての権威を与えられているという信仰です。

また、いのちをかけて愛してくださった主を愛すること。こちらからも、全てをかけて主を愛することです。
主に信頼し、主を愛する時、恵みは、ますます満ち溢れます。そうすると、僕らは、ますます主を信頼し、主を愛することができます。そうすると、恵みは、ますます増す増す益々満ち溢れていきます。

その時、自分の罪に気付いていけます。細かな今まで気付けなかったことに気付けるようになるのです。すると、悔い改めに導かれていきます。すると、また主の恵みが満ち溢れていきます。

主は、僕らを祝福したくてたまらない熱心なお方です。だから、今日1日も、小さな細かなことにも、イエス様を求めていきましょう。

■A:考えてみよう

主キリスト・イエス様にある信仰と愛を求めていきましょう。ますます増す増す益々満ち溢れることを求めていきましょう。祈っていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月23日(火)のつぶやき

2014年09月24日 01時33分27秒 | キリスト教