座間コミニティー

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◆海の上に悲しみがある。

2014年09月07日 19時02分21秒 | 聖書

それは静められない。(エレミヤ四九・二三英訳)

私たちは今この時間に海の上にどのような悲しみがあるか知らない。静かな自分の部屋で安全である。しかし、はるか遠くの海上では、ハリケーンが残酷にも人の命を奪おうとしているかもしれない。聞け。死の波風が船の綱を引きちぎるばかりに怒号しているのを。波が破壊のつちのように打ちかかると、船の骨組みははずれそうになる。神が、あわれな、ずぶぬれのあなたを助けてくださいますように! 私は、海陸を統べ治める大いなる主に向かって祈る。主があらしをなぎとし、あなたを目指す港に着かせてくださるように。
私は祈りをささげるだけであってはならない。絶えずいのちの危険にさらされている人たちのため、益をもたらすことを努めなければならない。私は彼らのために何をしたであろうか。何をすることができようか。
どれほどしばしば、荒れ狂う海が水夫たちを飲み込んだことだろう。海底には幾千という死体が横たわり、海の上には死の悲しみが漂っている。それはやもめや孤児の泣き叫ぶ声のこだまである。多くの母親や妻は海を思いつつ泣く。無情の大波よ。おまえは女たちの愛と家庭の支柱を飲み去った。海がその死者を吐き出す時、大海の深い洞窟にはなんという復活があることだろう。その時まで海の上には悲しみが漂っている。
さながら陸上の悲しみに同情するように、海はとこしえに無数の海岸に打ち寄せ、海鳥のような悲しみの叫びをあげ、不安なうつろな波の音をとどろかせ、騒然たる不満の叫び声を上げ、怒りのざわめきを発し、あるいはまた、無数の小石のつぶやく声でわき立っている。海のとどろきは、喜びの声をもつ人には楽しいものだろうが、悲しみの子にとって、果てしなく広がるこの世界より、さらにわびしい。これは私たちの安息の所ではない。休みなく寄せる波がそう告げている。
かなたには、海がもはやないという国がある。私たちは主が語られたその国へ行こうとしている。顔を堅く向けて。しかし時が来るまで、昔海の上を歩み、海底を通って民を無事に導かれた主に、自らの悲しみをお任せしよう。

 


「願い事を神に知っていただきなさい…

2014年09月07日 19時01分33秒 | 聖書

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを…守ってくれます」(ピリピ4:6)

私達には、思いが山と湧いて来るだろうか。
ああなったら、こうなったらどうしよう。
あの事は、この事はどうすればよいのか。
あれは出来ない、これも出来ない、あれもこれも足らない…もし、ああなったら、こうなったら、大変な事になる…このようにどんどん思い煩いに陥って行く。
ネガティブなシナリオを自分で描いて行く。
先の、まだ見えない事への恐れと不安だ。
又、願望もある。あの事はああなって、この事はこうなって欲しい。
どうしてもあれが欲しい、これが欲しい。
強い願望がある。いつもこれらの思いにほんろうされる。
そして、私達には、まだ見えない
先の事に対処するすべがない。
又、すべてを自分の願い通りになど不可能だ。
そんな力は無い。それで常に、ただただ、くよくよと不毛の心配をし、思い煩い、心は疲れ果ててしまう。
神は「その心配を私に任せよ」と繰り返し言い続けておられる。
「私に渡して、私を信じていなさい」と。
あなたも今、くよくよと、ああでもない、と思い煩っているか。
神に知って頂くのだ。そして、きっぱり明け渡すのだ。
御心なら成るし、御心でないなら成らない。
それで感謝だ。そして、そうすれば、「状況が変わる、すぐに解決が来る」のでなく、「心と思い」が平安に守られる。
状況に全く関係なく、心は平安に守られる。
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いくら思い煩い、思い巡らしても御心だけがなるのだ。
そこを受け入れなければ平安は一生ない。
絶え間なく襲って来る不安をつ一つ天に上げよう。
心に主の平安がやってくる。


今日の聖人の記念日

2014年09月07日 08時46分20秒 | キリスト教

 聖ソゾン殉教者

4世紀ごろ

 ソゾンは、シチリアに生まれで、名前をタラシオといった。羊飼いをして暮らし、キリスト教の迫害下にあっても洗礼を受け、名前を洗礼名のソゾンと変えるほど熱心であった。ある日、ソゾンはキリストの夢を見、羊を敵から守るための武器を捨て、羊飼いの杖だけを使うように命じられた。彼は、町の神殿にある金の偶像を羊飼いの杖で砕き、貧しい人びとに与えた。ところが、あるキリスト信者から偶像を壊したとの訴えがあったので、ソゾンは名乗り出て捕えられた。彼は役人からのどんな責め苦にも屈せず、その勇気は役人たちを感動させ、ソゾンを赦そうという思いに至らせた。群衆のために笛を吹くことを条件に釈放すると言われたが、彼は神のためにしか笛を吹かないと拒否したため、処刑された。


◆真理のことばの確かさ

2014年09月07日 08時45分18秒 | 聖書

これはあなたに真理のことばの確かさを教え、
あなたを遣わした者に
真理のことばを持ち帰らせるためである。(箴言二二21)

このことばは、きのうの箇所の続きですが、「真理のことばの確かさ」ということばが心を強く打ちます。イエス・キリストは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ八32)と言われました。ほんものの真理は、私たちを自由にする確かさを持っているというのです。
私たちは自由だ。一己の人間として自由を持っていると、近代の人間は豪語します。しかし、実際はどうでしょう。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ八34)とイエス・キリストは言われました。人間は、原子力を利用し、ロケットを月に打ちあげ、コンピューター時代を築きあげてきました。しかしいまだに、人を愛し、人をゆるし、人のために与え、人のために祈る自由を持ちません。互いに、憎み、うらやみ、奪い、ねたんでいます。人間は、このままではけっして自由ではないのです。
魚は水の中にいて初めて自由です。魚自身が自由なのではありません。何百馬力の機関車も、砂浜に置かれてはにっちもさっちもいきません。二本のレールの上にのせられて、初めて自由に力を発揮できます。
このことは、私たちにも同じなのです。私たちを、造り支配し愛し、私たち一人一人にかけがえのない使命を与えておられる神がいらっしゃいます。私たちは、神という真理の中にあって初めて自由になるのです。イエス・キリストはご自身が真理であることを示し、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ八36)と言われました。
私は、この真理の確かさを年を経るごとに感じています。この真理のことばを、神から遣わされた者としてあなたにお伝えしたいと思います。

 


◆群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、

2014年09月07日 08時44分32秒 | 聖書

その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。(マルコ二・四)

信仰は創意に富む。家には人がいっぱいで、入口から入ることができなかった。しかし、信仰は中風の者を主の御前に運んでいく方法を見いだした。ルカの福音書第五章一九節によれば、瓦をはがさなければならなかった。とすれば、ほこりが立ち、下にいる者にはある程度の危険があったことだろう。しかし、危急の際には、少しばかりの危険や無作法を気にしていてはならない。医者であるイエスがそこにおられる。そのために、どんなことが起ころうとも、あわれな中風の者の罪が赦されるため、信仰はあえて危険を冒した。
ああ、私たちももっと大胆な信仰をもちたい。愛する読者よ。自分自身のために、また同労者のために、今朝この信仰を求めることができないだろうか。そして今日、たましいを愛し、主の栄光を現すために、何らかの思いきった仕事をしようではないか。世界は常に趣向をこらし、天才は人間のすべての要求に応じようと案をねる。信仰も発明をすることができないであろうか。新しい方法によって、捨てられた滅びゆくたましいに達することはできないであろうか。
中風の者をかついだ四人が、これほどの勇気を示したのは、イエスがそこにおられたからであった。主は今も私たちのうちにおられないであろうか。私たちは今朝主の御顔を拝したであろうか。主のいやしの力をたましいのうちに感じたであろうか。もしそうであるなら、戸口からでも窓からでも屋根からでも、すべての障害を排して、たましいを主のみもとに連れて来よう。信仰と愛が真にたましいを救おうとする時、どんな方法でもよい。飢えた者がパンのために石の壁でも突き破っていくとすれば、まして救霊のために飢えている者はどのようなものによっても妨げられない。
主よ。罪の中にいるたましいに達する適切な方法を、ただちに見いだすことができ、あらゆる危険を冒しても前進することができるようにしてください。

 


第2サムエル記15章24-29節

2014年09月07日 08時43分11秒 | 聖書

15:25 王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。
15:26 もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」



 祭司のツァドクは、ダビデと一緒に自分が守る勤めである神の箱を担いで、ダビデについて行き、民が全部町を出てしまうまで、町の外に待機していました。

ダビデはそのような彼に向かって、神の箱を持って町に帰りなさいと告げました。

逃亡するのに、神の箱を運ぶことなどは出来ないことを知っていたからです。

また、神の箱が置かれている所は、神様が目に見える形で共にいてくださる印でもありました。

そこで、もし神様が自分のことを憐れんでくださるなら、再びこの地に戻してくださるであろうと告げ、もしそのようにならなかったとしても、それは主の御心であるから、自分はその御心に従うと告げました。

ダビデにとっては、自分のことよりも、神の箱があるべき所に置かれることを求めたのでした。



ルカによる福音書21章34-36節(イザヤ書21章)

2014年09月07日 08時38分57秒 | 聖書

 ★  あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
   
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。

■O:今日のコラム

今日のみことばの箇所にある「煩い」という単語を原語でみてみたところ、「分ける、配る」という意味があることを知りました。

調べている途中で、自分の心がまるでお菓子のパイのように切られ、幾つかのピースはイエス様に、幾つかのピースはこの世に、私が切り分けて配っているようなイメージがありました。

その中で、小さなことから大きなこと、様々なことに関して、自分はどれだけ主に心を配らない時があるかわかり、胸が痛くなる思いでした。

なにをするときもなにをしないときも、自分の心がどこに向いているか、主に心を配る者へと変えられることを切に願います。

■A:考えてみよう

「心配する」は、「心を配る」と日本語では書きます。
   
心をこの世に配るとそれは心配となりますが、仕事をしているときでも、家事、子育て、勉強をしているときでも、心を主に配るとき、それは主への賛美となり、祈りのために良い土壌を整えることとなることを信じます。

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(ペテロの手紙 第一 4章7節)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月6日(土)のつぶやき

2014年09月07日 01時38分20秒 | キリスト教