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実録小説・シマハタの光と陰・第5章・シマハタ療育園開園式

2018-08-30 13:44:45 | 日記
  1961年(昭和36年)5月。多摩の丘に風薫る日、開園式を迎えた。名前は「シマハタ療育園」と林田博士自らが付けた。島畑親子を記念しての命名である。林田博士、島畑尚三郎氏はもちろん、看護職員、園児となる多くの障碍児とその父母、後援会の人たちが集まって、神主のおはらいで、開園式。プロテスタント信徒でもある林田博士だが、他の宗教には寛容な考え方である。


  鉄筋コンクリート造りの小さな建物が二つできていた。各種障碍児用の施設と、職員たちの住宅である。障碍児は全国から集まり、百人はすでにいただろうか。多くの祝電も発表された。中には国会議員の激励の声もあった。後援会関係者、父母たち、看護職員と挨拶は続き、島畑尚三郎氏が深い感謝の内容の式辞を述べ、最後は林田博士が「今後の運営決意」を込めた式辞を述べた。

  式の後は職員たちは障碍児を各部屋に連れて行った。身体、知的程度に部屋は分かれていたが、園児たちの雑居状態である。

  

  出席者への挨拶を済ました後、林田博士は園児たちがこれから暮らす各部屋を注意深く見に行った。その障碍児たちを見て、

  「みんな、可愛い」と微笑みながら林田博士は言った。あと、職員たちを前に

   「園児たちを我が子だと思って、愛してほしい。これがシマハタの鉄則だ。 イエスの説いた愛だ。この事はこれから私は繰り返し言う」と訓示を述べた。(著者注釈参照のこと)




  職員たちはうなずいた。中学を出たての若い女性も多かった。8割方は女性だった。キリスト教信仰を持つ女性もかなりいた。NHKなどの放送関係や、教会関係で募集の話を聞き、障碍を持つ子供たちの世話をする決意を持ち、職員に応募したわけである。とは言え、人出不足には違いない。

  「もっと人出を大々的に集めないといけない。資金カンパも」と林田博士は独り言をつぶやいた。

  

   宴は終わり、多摩の光景はいつの間にか、夕暮れになっていた。カラスが鳴きながら、寝ぐらに急いでいた。園児たちは夕食後、テレビを少し見た後、親から離れた第一夜を迎えた。ぐっすり眠る子もいれば、興奮して寝付けない子、母恋しさの余り、泣きだす子もいた。「ママに会いたいよ」と泣く体の不自由な子たちを夜間担当の若い女性職員たちが「私がママですよ。歌をうたいましょう。げんこつ山のタヌキさん、おっぱい飲んで...」となだめる光景が初日から繰り広げられた。こうして、シマハタの日常は始まった。

   (著者注.聖書によれば、イエスは「己の如く、汝の隣人を愛せよ」と説いた。我が子のように愛せよ、とは聖書に書かれていないわけである。新約聖書の土台である旧約聖書・創世記22章には、神がアブラハムに「息子を生贄にさし出せ」と命じる場面がある。新約でも、例えば、マタイ福音書10章37には「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」とあるなど、ユダヤ・キリスト・イスラム教の根底には、親子愛の相対視が流れている。十戒の一つの通り、父母にはただ「敬え」としか述べられていないわけである。確かに、「我が子だと思い、愛せよ」はシマハタにあった伝統であり、林田博士自らがそのように指導したわけだが、聖書の教えからは逸脱しており、どれだけキリスト教を理解していたのかは、疑問である。もっとも、遠藤周作氏などによれば、「日本人クリスチャンは神に母なるものを求める傾向が強い」そうだから、林田博士の信仰心の問題であると共に、日本人クリスチャン、更には、母性傾向の強い日本社会全体の問題であるとも思われる。シマハタの根底にある母子愛絶対思想も、以後は物語展開に深く影響していくわけである。以上、参考文献.聖書.日本聖書協会編)