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ヨーロッパで起きた「命の選別」

2020-05-15 13:24:31 | 日記
3月、コロナで病院崩壊が起きたイタリアやフランスでは、その患者を年齢別に分けて、生きられる可能性の高い元気な若者に治療を優先した事が日本のテレビや新聞でも断片的に伝えられた。フランスの病院に勤務している日本人の女性医師は「泣きながら、選別しました」と報告したのが印象的です。まさに「命の選別」。


  とは言え、報道はいつも断片的で、僕も以上からはコメントはできないと思っています。又、コロナ患者の中には、当然、各種障碍者や難病患者もいますが、彼らが選別されたのか?については、日本では報道されていません。でも、この問題を置いておいても、「命の選別」について、ヨーロッパの身障者たちはどう思ったのか、気になります。日本ならば、例え高齢者だけが切り捨てられても、身障運動家の多くは「命の価値は平等なのに、切り捨てるとはおかしい」と激怒するだろうからです。

  実際、ヨーロッパの事は判りませんね。テレビ、新聞、本と断片的にしか伝えられないから、判らない。旅行しても断片的にしか見れません。そこに何年も住まなければ判らないわけです。

  また、コロナ前はどうだったのでしょうか。極限状態になり、いきなり選別が行われたのか、それとも、もともと選別という発想があったのか。憶測も良くないから、2つの疑問を併記するに留めます。

  それにしても、我々日本人はヨーロッパの事を知らない。それは仕方ないにしろ、判らないのに真似したり、憶測はいけません。「シマハタの光と陰」でも書いたように、1961年には「ヨーロッパは宗教心が篤いから福祉が発達している」と憶測で答えた大臣もいたわけです。おかしいと。また、実際に1900年ごろ、ロンドンに留学した夏目漱石は、その社会の殺伐さに驚き、以後は「日本はヨーロッパ化するな」と警告し続けました。でも、周知の通り、その後も日本社会は、ヨーロッパを知らないのに、真似続けたようです。「知らなければ」いくら真似しても、ヨーロッパにはなれないのに。


  中途半端な書き方になってしまいましたが、ここで終わります。「知らない」事を書く以上は、どうしても中途半端な書き方になるわけです。「前世の親戚かもしれない」と言って虫を殺さなかった、命尊重の文化を日本人は見直し、尊重し、エコや福祉、教育に生かせば良いわけです。又、それは仏教も絡んでいる以上は、同様の共通文化がある東アジア、東南アジア、南アジアの人たちとも連帯して。資本主義もお金中心から、命中心のものに変えていって。それを願います。(ヨーロッパの資本主義はお金中心なのか。命軽視なのか。それも僕は知らないし、日本人のほとんども知らないわけです)





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