トシコロのありのままの暮らし


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改めて、子供扱いの事を考える

2016-06-01 11:32:30 | 日記



  相手をよく見ないで関わる。恐らく、その場合、介護という労働行為に意識を集中させるわけだから、相手が身障者であろうが、高齢者であろうが、乳幼児を扱う感覚になるのだろうね。手話通訳の時の聴覚障碍者への対応も同じで。外国人とのやりとりにしても、「言葉のやり取り」という一種の労働行為に集中して。

  もちろん、僕は労働行為を否定しているわけではない。その点は誤解のないようにしてもらいたい。一番大切な事は、「相手をよく見る」事である。聖書にも、仏典にもいくらでも書かれている事だと。他の古典の教えにも。相手を見ないでは、何もできないわけである。

  相撲でも、立ち合いの時に相手を見ないと、相撲にはならないが、それにも通じる事である。

日本における障碍者などへの子供扱いの事の続き

2016-06-01 11:17:40 | 日記
  日本における障碍者などへの子供扱いの事の続き

  そのように障碍者などを扱う人たちは、愛と甘やかしの区別が付いていないわけである。日本社会に深く見られる現象。

  愛とは相手の事を客観的に思い、かつ、相手を深く大切に扱うこと。

  甘やかしとは、自己本位で相手の事を見て、自己満足的に施すこと。相手が見えていないのが特徴。相手が見えなければ、相手の事を大切に扱えるわけもない。

  実際、僕が挙げた子供扱いの全部の例は、全て相手の事が見えておらず、それゆえに相手を大切に扱っていない。「私は相手を優しくした」という自己満足感だけが残り、そのような人たちは傲慢にもなっていくわけである。そうする人たちのためにも良くない事だと。

  愛は新約聖書に説かれてあるが、実際には旧約聖書やコーラン、仏教関係、儒教など、古典の教えの全てに説かれているものである。元々日本人は古典をよく学ぶ国民だったが、いつの間にか、学ばない人が多くなった。ならば、愛についても知らないわけである。その結果の一つが僕の挙げた問題にもなっている。困った事だと思う。高校などの教育でも、大学受験目的で、古典文学は古い文法ばかりやる例も多いし。文法研究は大学でやるものだと思う。古典文学の勉強の目的は、昔の賢人の教えを知り、考える事だから。

  とにかく、古典を学ばないと何もできないと書いて、締めくくるわけです。