江戸の昔は女性が「藪(やぶ)入り」の休暇を取れるのは三月で、女性客を当て込んで芝居小屋はこの時期、女性に人気の演目で興行を打ったそうだ(『川柳江戸の四季』下山弘)▼古い川柳の<三芝居見たでとりまく長局(ながつぼね)>。藪入りを利用して江戸三座(中村座、市村座、森田座)の芝居をすべて見て回った「つわもの」がいたか。この女性から、ひいき役者の出来を教えてもらおうとお屋敷勤めの同僚が集まっている様子がおもしろい。今も同じだろう▼江戸の歌舞伎役者、明治期なら男性をとりこにした娘義太夫。その後の時代なら俳優にレコード歌手。いつの時代も、暮らしに彩りを添えてくれる、アイドルがいた。アイドルにつらい生活の張りを見いだす人もいる▼一九六〇年代から数々の人気者を育て、日本のアイドル文化の基礎を築いたジャニーズ事務所の不祥事はファンにはショックだろう。かつての所属タレントが創業者ジャニー喜多川前社長から性被害を受けたとの訴えに対し、同社の社長が被害者に謝罪した▼問題は事実の解明と今後である。密室的で異常な運営もあったという。健全な運営に向けた立て直しを願う。悲しい顔をしたアイドルではファンの胸は躍るまい▼英語の【IDOL】は偶像の意味だが、十六世紀ごろは「邪神」という含みもあったそうだ。ファンのため悪(あ)しき運営という「邪神」を追い払いたい。
天然痘(疱瘡(ほうそう))は紀元前から死にも至る病として恐れられ、長く予防法もなかった。人は神に祈った▼インドでは、ヒンズー教の天然痘の女神シタラ・マタ。ロバにまたがり、宝石、ほうき、不死の水を満たしたつぼを持つ。拝むと、発疹の痛みから逃れられるとされた▼日本でも疱瘡神が病をもたらすと信じられ、神社にまつられた。鹿児島県薩摩川内市では、流行時にそれがひどくならぬようにと舞った疱瘡踊が伝わる。病の神を踊りで歓待して機嫌をとり、早く他へ行ってもらおうとしたという▼予防法の発見は十八世紀末。世界保健機関(WHO)は一九六〇年代、予防接種などによる天然痘根絶作戦を本格的に始め、八〇年に根絶を宣言した。WHOで対策本部長などを務めたのが医師、蟻田(ありた)功さん。訃報に接した▼先のインドの女神の話も、根絶のため世界を歩いた蟻田さんの著書に教わった。バングラデシュでは戦乱で根絶作戦中断を強いられた。状況が落ち着き、周辺に逃れた人々が戻ると再流行した。アフリカでは同僚がゲリラ兵に捕まったり、マラリアに苦しんだり。七十三カ国から集まった六百八十人のWHOの仲間と苦楽を共にしたという▼世界には憎しみ、差別、宗教や政治の違いなどあるが、目的があればそれらを超え協力しあえると著書にある。神ならぬ人間も捨てたものじゃない、ということだろう。
ウォルト・ディズニーが一九五五年、子ども向けのテレビ番組「ミッキーマウス・クラブ」を制作するに当たってスタッフにこう指導したそうだ。「子ども向けだからといって子どもをばかにしたようなものは作らんよ」▼子どもの人気者になるコツは子どもに真剣に向き合うことなのだろう。この方も、同じことを語っていた。「子どもだから、これくらいでいいだろうなんてたかをくくるとすぐに見破られます」。NHKの子ども番組「できるかな」の「ノッポさん」を演じた、高見のっぽさんが亡くなった。八十八歳▼前身の「なにしてあそぼう」を含めると放送期間は一九六六年から九〇年。高度成長期からバブル期の子どもの良き遊び仲間となり、何かを作ることの楽しさを教えてくれた。幼なじみを失った気分になる人もいるだろう▼子どもと同じ立場になれる人だったようだ。ある日のハンバーガーショップ。大声で泣く二歳ぐらいの女の子に手を焼くお父さんがいた。子どもを連れて出て行こうとするお父さんにのっぽさんが声を掛ける▼「泣き声は気にしないでいいよ。外に出るほどのことじゃない」。それよりもこうやってと、泣く子に話しかける。「あなたは何をお求めでしたか。ああ、お飲み物でしたか、失礼!」▼同じことをお父さんにやってもらった。ご著書によると女の子はぴたりと泣きやんだそうだ。
米国のある映画監督が女性俳優の演技に腹を立て、大声で怒鳴ったそうだ。俳優は泣きだしてしまった。泣きやませないと撮影が続けられない▼監督はどうしたか。俳優に向かってさらに大声で「泣くな!」。もちろん、泣き声はさらに大きくなり、収拾がつかなくなった。元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟問題に対する日本政府のこれまでのやり方はこの監督と似たところがあるか▼戦時中、朝鮮半島から日本に動員された元徴用工の賠償金を求める声に対し、日本政府はその問題は日韓請求権協定によって解決済みだと突っぱねてきた。泣いている人に「泣くな」と言っているようなものだろう。七日の日韓首脳会談。岸田首相の発言には「泣くな!」から一歩踏み込んだ印象がある。元徴用工について「心が痛む思いだ」と述べた▼あまり踏み込めば自民党保守派の反発を招く可能性がある中、慎重に選んだ言葉なのだろう。おわびではないが、「心が痛む」には元徴用工に寄り添う姿勢と「申し訳ない」というニュアンスもある▼元徴用工訴訟は賠償金を日本企業に代わって韓国財団が支払うことになっている。これによって日韓関係は改善に向かいつつあるが、首相としてはこの流れを大切にしたかったのだろう▼現在の両国間の良好な雰囲気をこのまま、長く維持したい。険悪な隣人関係なんてそれこそ、心が痛む。