「おおきな木」という絵本がある。作者は米国の作家でイラストレーターのシェル・シルヴァスタインさん。日本版は村上春樹さんが訳している▼こんな話だ。おおきなリンゴの木と少年は大の仲良し。ところが大きくなるにしたがって少年は木と遊ばなくなる▼青年になった少年はお金が必要になる。木は少年に自分のリンゴを売れという。少年はありったけのリンゴを持っていく。大人になった少年は今度は自分の家がほしくなる。木は自分の枝を切って家を造ればという。少年はたくさんの枝を切る。次の願いは船。リンゴの木は自分の幹を切って造れという。少年はリンゴの木を切り倒す▼憲法記念日である。絵本が描くのは子どもへの親の無償の愛か。この日は日本国憲法に重ねたくなる。立憲主義、戦争の否定。平和の実のなる憲法という木は少年が戦争に巻き込まれぬようにと長い間、守り続けてきたのだろう▼だが、日本という少年はそのありがたさに気づかない。自分の都合と勝手な解釈によって、その木をたびたび傷つけてきた▼新しいところでいえば、殺傷能力を持つ武器の海外輸出を可能にしようという議論である。家や船を求めた少年と同じ。防衛産業の強化という欲のため、憲法の「平和主義」という幹に鋭利な斧(おの)を打ち込むように見えてならない。取り返しのつかぬ一撃となるまいか。心底、おそれる。
<羽子(はご)の子の干物を拾ふあやめふき>。江戸期の川柳で、かつての五月の光景だろう。端午の節句にショウブを屋根に飾る風習を詠んでいる。ショウブを飾るとき、お正月に誰かが打ち上げた羽根つきの羽根を屋根の上に見つけたらしい▼羽根からショウブ。句に込められているのは季節の移り変わりの早さかもしれぬ。同じ気分となる。この間、サクラを見たかと思えばもう五月である▼一年を一日にたとえると冬至(十二月二十二日ごろ)は真夜中の午前零時、春分(三月二十一日ごろ)は午前六時。夏至(六月二十二日ごろ)は正午で、秋分(九月二十三日ごろ)は午後六時と気象学者の倉嶋厚さんが書いていた。したがって五月は「午前十時の季節」▼「日はすでに高く、人々の活動は始まっているが、まだ昼食前、期待に満ちた長い午後も残されている」−。あわて者はもう五月かとうろたえるが、そうか、まだ「昼食前」なんだ▼「もう五月」「まだ五月」ではなく今年の五月は「やっと」や「ようやく」の気分だろう。新型コロナウイルスの災厄も落ち着き、八日には感染症法上の分類が季節性インフルエンザと同じ「五類」に引き下げられる。普通のゴールデンウイークが帰ってきた▼観光地などの人出もコロナ前の水準に戻ったという。渋滞や混雑には閉口するものの、「ようやく」の五月。ありがたくかみしめる。