『高野聖』などの作家、泉鏡花は胃腸が弱く、食べ物の好き嫌いが激しかった。生ものはほとんど口にしなかったと聞けば少しかわいそうな気がする▼ある日のこと。宴席で酔っぱらい、食べられないはずの嫌いなタコを平らげてしまったそうだ。次の日、タコを自分が食べていたことを同席者から聞いたとたん、青い顔になり、腹が痛いと言い出した。聞くまでは何ともなかったのだから胃腸の問題というより気持ちの方が受け付けなかったのだろう▼権威ある国際機関のお墨付きがあろうとも鏡花さんがその海で取れた魚を食べてくれるかどうか。東京電力福島第一原子力発電所の「処理水」を海洋放出する問題である▼国際原子力機関（ＩＡＥＡ）は処理水を放出しても、人や環境への放射線の影響は「無視できるレベル」と評価した。一応の太鼓判を押したことになる▼「国際的な安全基準に合致している」。政府には心強い言葉だろうが、国民の方には科学的データ上の問題はないと言われても気持ちや心の方が追いつかぬ現状もある。地元漁協が放出に反対しているのもそこだろう▼ＩＡＥＡの評価は心配を弱めても消し去ることはできない。政府は夏に放出する腹らしいが、その前に国民の心の方を納得させる新たな対策が必要だろう。日程優先で放出を急げば心配は警戒へと変わり、そこから根拠なき風評も生まれる。