作家の向田邦子さんが家族写真の思い出を書いていた。写真屋さんに家族写真を撮ってもらう▼大騒ぎだったそうだ。小学五年の向田さん、かわいそうに数日前に鼻の頭におできができてしまった。泣いているとお父さんが「お前の鼻を写すんじゃない」とどなる。お母さんが修整を頼んであげるととりなしたが、いよいよ撮影という時に笑い上戸の弟が笑いだし、お父さんにしかられる▼大騒ぎだった写真。だが、大人になって見返すと当時の様子や匂いまでよみがえってくると書いている。「大雨の日に雨戸を叩(たた)いて落ちてきた夏みかんや枇杷(びわ)の匂いがしてくるのである」▼その家にも家族の写真があったはずである。そして包丁を手にする前にもう一度、その写真を見ていたら別の展開もあったのではないかと想像したくなる。農林水産省の元事務次官が四十代の長男を包丁で刺し、殺害した事件である▼長男は自分や妻に暴力を振るっていた。川崎市で子どもを殺傷したような事件をやがて長男も起こすのではないか。そんな不安があったという▼世間に迷惑をかけるぐらいなら。思い詰めた心が理解できぬわけではない。が、その包丁を首肯することはできぬ。関係機関への相談など手はまだ残っていたと信じる。命を奪い、すべての道を閉ざしてしまった。七十六歳の元次官の結論を哀れとうめく。それでも間違っている。