先週末は、人権に関する催しで知り合いの人が講演するので聞きに行きました。差別の問題を考えていて、インドのカースト制度を調べたり、ネパール、チベットなどのアジアの国を旅したりして、その体験を話、映像、ギターでの弾き語りなどで披露してくれました。差別をする心は人間にとってかなり根源的なもののように思います。ものの価値をあるがままに見ることはできず、比較により判断する心が差別につながるように思います。人を見て、その人そのものを見るのは難しく、顔やスタイル、服装、話し方その他色々なものを自分の価値観に照らし合わせて判断してしまいます。そのような自分が持っている差別の心に気づき、それをなくし、ものの本質を見る目を養ってゆくことが、成長ということなのではないかと思います。そして、自分を成長させてゆくことが生きている意味の一つなのかなと思ったりしています。昨日は、五線譜を何とか三味線の譜に書き変えました。こちらは慣れてきたらかなり速く、機械的にできるようになってきます。でも、まだ実際に弾いて、間違いがないかは確認していません。ところで三味線の譜にも音楽の種類によりかなりの違いがあります。私は宮城系の譜に直しています。基本的には、どの弦のどのツボを押さえるかを書くだけのことなのです。そうすれば五線譜とは違い、音の高さやメロディーラインなどは見れませんが、弾くことは比較的簡単にできます。時々昔聞いた音楽を聞くことがありますが、私にとってはフォークソングの時代の曲が一番しっくりときます。素人上がりのグループが多かったように思いますが、歌詞も曲も心に響くものが多いです。音楽にもその時の時代の流れが感じられます。恋愛、生き方その他が共感されていたように思いますが、それは時代により変わってゆくものです。今は今の若者の心に響くものがあるのでしょうが、余りに商業主義に流されているような気がします。メディアが完全に商業主義に支配されてしまっているように思います。「帰ってきた酔っ払い」などラジオから変な音楽が流れてきて、あっという間に広がったような気がします。今は、音楽事務所などが売れ筋の作詞家、作曲家に作ってもらい、それをメディアに流してもらい、ヒットさせるという、金にまかせたヒット曲作りになっているような気がして味気ないです。
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