この週末は母親のお見舞いのために上京しておりました。体調不良で入院したのですが、糖尿病による高血糖のためのようでした。入院してからは、点滴をして寝ているだけですが、年寄りなのでもう歩けなくなっているようです。年寄りでは三日寝ていると歩けなくなると言われています。だから、入院して寝ていなければならないのなら、すぐにリハビリテーションを開始しないといけないのですが、そんなことはやってくれません。また、たとえ点滴が必要でも歩かせればよいのですが、そんなことをして転倒したら管理責任を問われるということで、寝たきりにさせられてしまいます。一応病院にはリハビリテーションをして欲しいと希望して、やってくれることにはなりましたが、事故の可能性その他についての確認書を提出しているようです。病院は家から歩いて三分くらいで、とても近いのが助かります。まあ、普通の病院なのでしょうが、普通の病院に入院すると寝たきり老人になってしまうというのが現状のようです。新幹線はジパング俱楽部なので「のぞみ」には乗れず、「ひかり」で行きましたが二人席は一人掛けかペアがほとんどで、三人掛けは一人しか座っていませんでした。都内では中央線に乗りましたが、こちらはそこそこ混んでいしました。病院も少し前までは面会ができないところが多かったですが、今回は一日二人まで、一時間以内の制限があり、また、面会人の登録が必要のようでした。それでも、面会時間は一時間に延長しましたとのことでした。兄が毎日見舞いに行き、マッサージをしてくれています。食事もほとんど食べていなかったので、食事時間に面会に行き食べさせるようにして、少し食べるようになったようです。血糖が安定したら帰れるはずですが、高齢なので何があるか分かりません。何とか元気になって帰ってきて欲しいものです。ところで、新幹線は無料Wi-Fiが使えるようになっていました。いつも眺めている富士山は行きは少しだけ見ることができましたが、帰りは麓しか見ることができませんでした。コロナ感染の方は第四波になるのではないかと心配しています。中々面会もままなりません。
毎日同じような生活を繰り返していると、どうしても惰性で生きてしまっているようなきがします。今の生活は仕事、音楽、読書が主体になっています。仕事については余り考えることなくやっています。仕事自体は多分好きなのだろうと思います。体が動く間、仕事がある間はやりたいと思っていますし、それが自分にとっては良いことだと思っているのでしょう。でも、音楽や読書に関しては時々、こんなことをしていて良いのだろうかと思うことがあります。昔は音楽は私のライフワークだと思っていたので、それをするのはある意味無条件で良いことだと思ってきました。今も音楽がライフワークであることに変わりはありませんが、どういう形でやってゆくかということで迷い始めています。演奏していれば楽しいのですが、動画をアップしたり、曲を作ったりするようになり少し状況が変わってきました。動画をアップしたり作曲するのは手間がかかり面倒でしんどいことなのですが、やれば満足することができます。その辺のバランスの問題が出てきているのかなという気がします。読書に関しては、これも本を読んでいること自体は楽しいのですが、読むこと自体が目的になってしまっているようにも思えます。でも読書を手段にするのが良いという訳でもないでしょう。仕事に関連した本も読みますが、これは読書が手段になっているので、楽しみながら読めれば満足度が高いような気がします。小説のようなものは手段ではなく、読むことが目的になっているように思うので、単なる時間潰しなのかなとも思ってしまいます。娯楽というものも精神衛生上大切なので別にそれでも良いようには思います。というか、何か理屈っぽくなってきてしまいましたが、単にどういう生き方をしてゆくかが分かっていないということだと思います。四十にして惑わずと言いますが、還暦を過ぎても迷ってばかりいます。
まだまだコロナの感染は続いています。ワクチン接種も始まっていますが、それがいつになるやら、また打ったからといって効くのやら、よく分かりません。そろそろ桜の花が咲き始めましたが、今年の花見は造幣局の通り抜けのように歩いて見てくださいとのことです。もう以前のようなやりたいことができる社会は戻ってこないのではないかと思っています。便利で楽しい経験をしていなければ、別に苦痛は感じないでしょうが、一度経験しているとそれができなくなると苦痛に感じるものです。コロナのような非常事態が発生すると困る人が多いですが、逆にそれをチャンスととらえて活躍する人も出てきます。今、コロナに関連して色々な本が出ています。新しい事態へ素早く対応できている人でしょう。今までマンネリ化していたことでも、コロナという新たな視点からとらえることで、リフレッシュすることができます。商売でも落ち込んでいるところは多いですが、逆に売り上げを増やしたり、新たに起業する人もいます。ピンチはチャンスということでしょう。私の場合、今やっている仕事は健康である間は続けれるものもあるけれど、大体はそろそろ肩たたきに合いそうです。比較的自由ですが、完全な自由業ではありません。最近は仕事がなくなった後どうしてゆくかを考えています。何か仕事は続けてゆきたいと思っています。ただ、ずっと親方日の丸でやってきたので、自営で何かしたことがありません。まあ、今まで余り先のことを考えて生きてこなかったと言えるのでしょう。先のことを考えていた人はそれなりの手を打っていたようです。私は毎日やることを一生懸命やっていればよいという感じで余り先のことは考えていませんでした。まあ、実際にそうなってから考えてもよいかなと思ってきました。今がそろそろ考える時期なのだと思っています。これはこれで楽しいものです。新しいことをするのはワクワクすることではあります。何か起業してみたいなとも思っています。今はネット社会となり、ネットを使えば比較的簡単に企業することができるようです。ただし、アイデアと実行力があればの話ですが。ということで、今はアイデアを探しています。
首都圏は緊急事態宣言が二週間延長されましたが、二週間程度でどの程度良くなるかは分かりません。でもやらないよりは良いことでしょう。関西は緊急事態宣言が解除されてから人出が増えているようです。これから、歓送迎会や花見などの季節になるので、どうなるのでしょうか。すぐに第四波が来るのではないかと心配です。私の方は、五月に予定している舞台に向けて準備が忙しくなってきています。感染対策を取りながら開催する方向で進んでいます。昨年中止しているので、今年は何とか開催したいと思っています。昨年は皆、どうやって良いか分からず、一律に中止されてしまいました。公共施設が閉鎖されたので、どうしようもありませんでし。一年間で少しノウハウができて、活動が徐々に復活してきています。ワクチン接種が進んでも感染対策を取りながらやってゆくしかないのだと思います。そして、リモートでできるものはなるべくリモートでやるようになるでしょう。まだ、集まって人の顔を見ないと会議した気がしない人の方が多いかも知れませんが、段々と慣れてゆくしか仕方ありません。多人数での飲み会というのはこれからは難しくなるのではないかと思います。パーティーなどはどうなるのでしょうか。また新しい形が工夫されると思います。今年の入学式や卒業式も新しい形でやられることでしょう。現在、対人コミュニケーションが苦手な人が増えていますが、このコロナ騒動で一層増えそうな気がします。減少傾向だった自殺者数も昨年は増えてしまったようです。インターネットを使いこなせるかどうかで、情報格差がより拡大しそうです。私も取り残されないようにしないとと思っています。対人接触が減り、外食もしなくなって少し味気ない生活になっています。私はもう高齢者になっているのでまだましですが、若い人にとってはいつまでも自粛生活を続けるというのは難しいでしょう。でも、自粛しないと感染が拡大するということでジレンマに陥ります。感染対策を取りながらなるべくストレスの溜まらない生活様式を作り出してゆくしか仕方ないでしょう。
もう2月になってしまいましたと書いたのは、ほんの少し前のような気がしますが、今日はもう3月になってしまいましたと書くことになりました。大阪は今日から緊急事態宣言が解除されました。とは言っても、まだまだ厳しい状況に変わりはありません。ワクチン接種が始まれば何とかなるような雰囲気が出てきましたが、中々そうはならないでしょう。まず、ワクチンの確保がうまくできていないようです。それを言うと騒がれるので黙っているようですが。例えワクチンが効くとしても、接種が十分にできていない状況でオリンピック開催で海外から人が来たらどうなるのでしょうか。どう考えても予定通りの開催というのは無理があるように思います。今は飲食店にばかり目が向いていますが、実際には他の業種でも厳しいところはたくさんあると思います。特にコロナの感染と関係がなければ無視されてしまうのでしょう。今月は確定申告をしなくてはなりません。コロナの影響で一月提出期限が延びましたが、嫌なことは早く済ませればと思っています。先月は年金の手続きで大変でした。年金事務所の人に質問しても人によって皆違うことを言うので非常に戸惑いました。まだ、手続きは完了していません。確定申告も見よう見まねでやっているだけですので、自信はありません。そういえば、ブログにしてもユーチューブにしても見よう見まねでやっていて、必要最低限の機能しか使えていません。まあ便利な世の中になって、大抵のことはユーチューブを見ればできるようになっています。昔のように、人に聞いたり、図書館で調べたりというような手間が要りません。簡単に手に入れて、簡単に失ってしまいます。所有することに余り意味はなくなってきました。これは知識も同様になっているようです。さとり世代などと言われたり、草食系男子とか言われる人が出てくるようになりました。余りレッテルを貼るのがよいとも思いませんが、人を押しのけてでも生きて行こうとするような人は減ってきたのだと思います。豊かな世の中になったればこそのことだろうと思います。世の中が貧困化してきても生きて行けるのだろうかと心配になってしまいますが、そんな心配をするのは昔の人間だからなのでしょうか。話が段々と取り留めなくなってきましたが、私もこんなことを考えているということは暇なのだと思います。