今は、説教節を聴きながら書いています。昔は人気があったのに、今はまったく廃れてしまっており、栄枯盛衰の感があります。ゆっくりと芸能に耳を傾ける余裕を、私たちは失ってしまったのでしょう。音楽でも、クラシック音楽は省略して演奏するということは余りされませんが、邦楽では端折って演奏するのが今では当たり前です。昭和の始めの頃までは、一曲30分くらいの演奏は当たり前だったでしょうが、今は出入りを入れて15分くらいが多いようです。リサイタルならゆっくりできるでしょうが、長くやれば客の方も飽きてしまうようです。客が聴いてくれないから短くなった部分は大きいでしょう。漫才でも、昔は15分はやっていたものが、今では5分くらいでたくさんの人を出しています。話も、ゆっくりと筋を追って聞くというよりも、単発的な爆笑ねらいで終わったあとに余り満足感が残りません。インド音楽は今でも結構長い曲をやりますが、あれはほとんど即興で長さを自在に調節できるからでしょうが、聴いていて心地よいので聴衆も聴いてくれるから出来るのでしょう。
以前、小三弦の音にさわりがつく話を書いたように思いますが、結局、駒を高くすることにより解決しました。昨日は、茨木太鼓ビエンナーレとかいうのを見に行ってきました。一時に比べると、太鼓ブームも終わったようですが、ファンは根強くいるようです。アマチュア13団体とプロの演奏でしたが、アマチュアはそれぞれ特色を持っており、退屈せずに楽しめました。プロは若手の演奏がすごく迫力がありよかったですが、共演者と違いがあり過ぎて舞台としては、不満がありました。バッハのG線上のアリアをピアノ伴奏で、篠笛で演奏していました。演奏は中々情感が籠っていてよかったのですが、音程に難があり、なぜここでピアノ伴奏でやるのかと思いました。そのピアノ伴奏者がその後、篠笛、太鼓をたたいていましたが、ショー的な要素としてはいいのでしょうが、若手プロの太鼓の演奏に比べて差があり過ぎるようでした。もう一人の奏者もうまかったですが、余り伝わってくるものがありませんでした。余りに若手プロの演奏に迫力があったので、流しているような感じを受けてしまいました。いずれにしても、太鼓というのは、やっている人の楽しげな様子が一番よいところだと思います。
先日、ダン・パウをヤフオクで落札。残念ながらまだ演奏はできません。ハーモニックスで演奏するしかないようですが、音程のコントロールができません、というより余り音が出ない状態です。ところで、ネットではベトナムの楽器もかなり入って来ています。インドは業者が本やDVDも輸入しているのでかなり便利なのですが、他の国のは楽器はあっても教則本などは入ってきていません。私のように独学でやる者にとってはつらいです。このところビデオをよく見ていますが、音楽と文化は密接に関係していたのに、今の音楽は商業主義の中で、変化してきているような気がします。また西洋クラシックのみが文化的であるかのごとき日本の風潮を感じますが、まだ生活に根差していない音楽が文化とは成りえないという気がします。やはり、生活と一体になっていてこその文化だと思います。そういうものは段々と失われていっているのでしょう。
昨日、小三弦の事を書いていましたが、その後弾いていると、さわりが変についていることに気がつきました。全体につくのならまだいいのですが、ある範囲の音だけにつくのです。どうも棹が平らではないようです。削らないといけないのですが、塗りのものなので困っています。安物買いの銭失いというところでしょうが、この程度でしたら十分に修復かのうです。そのくらいやらないと民族楽器は買えません。来週末は、音楽仲間と昼間から酒を飲みながら勝手に演奏を即興で繰り広げる予定です。まあ、酒を飲みながら遊んでいるだけですが、楽しみの一つです。何か決まった曲を練習して合奏するのもいいですが、気の向くままに遊ぶのもいいものです。
この前、大三弦の話しを書いていましたが、やってきたのは残念ながら小三弦でした。それでも、千円で落札したのでは文句も言えませんが。今日も、民族音楽のビデオを見ながら、これを書いています。物質的に豊かになることは皆が画一化してくるような気がします。というのも、それまでの生活では物質的に豊かになるといっても、宝石や家や食べ物、家畜といったものでしたが、今では電化製品や車などがどこの国においても富の対象になっているような気がします。それで皆が同じような暮らしをするようになってきてしまうのだと思います。昔の生活は、民俗村とか時代村とかいったようなところに行かないとお目にかかれなくなってしまいます。失われた物の大切さに後で気づいても遅いのですが。