歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鳥取県南部町・境矢石遺跡 弥生時代前期~中期の木棺墓を発掘、県内2番目の数

2011年06月16日 | Weblog
 米子市教育文化事業団が15日、南部町境にある境矢石(さかいやいし)遺跡で弥生時代前期~中期(約2000~2200年前)に作られた木棺墓73基(最大のもので長さ2.9m、幅1.7m、深さ0.7m、昨年度40基、今回33基)が発掘されたと発表した。 墓以外の土地利用跡は見つからず、集団墓地だったとみられる。 県内では、長瀬高浜遺跡の96基に次いで2番目の木棺墓の数となる。
 現地説明会が、18日午後1時から開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.20境矢石遺跡 弥生時代前~中期の区画溝に囲まれた埋葬施設跡が見つかる

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金海市・望徳里古墳群 伽耶時代の鴨形土器と碧玉製石杖が出土

2011年06月15日 | Weblog
 金海市は15日、東西文物研究院の慶南金海市酒村面望徳里古墳群(김해 망덕리 고분군)一帯の発掘調査で、青銅器時代埋葬遺構と三韓・三国時代木棺墓、木槨墓、土壙墓、甕棺墓、石槨墓、石室墓など計560基の遺構と多数の遺物を確認したと発表した。
 特に、宝物級の4~5世紀伽耶時代鴨形土器(오리모양토기)と碧玉製石杖(벽옥제석장)が出土して学界の関心を引いている。
 伽耶時代の鴨形土器は、初めての出土で、鴨の頭上に人とみられる土偶が乗っていて、肩の部分に別の穴を明けて角杯に水を注げるようにしてある。釜山・福泉洞古墳群で発掘されて宝物に指定された「馬頭角杯(宝物598号)」と同じ価値を持つだろうとしている。
 また、韓国内では唯一大成洞古墳群だけに出土した日本の古墳時代の王の遺物である碧玉製石杖が古墳群の小型墓から出土した。 日本と伽耶との密接な交流があったことをしめすものとしている。
[参考:聨合ニュース]

備考) 碧玉製石杖(벽옥제석장)としているが、ニュースに掲載の写真は真横から撮ったもので、孔が開いているかどうかもわからないし、大きさも明らかでない。 大成洞古墳46号墳から出土したもの(碧玉製玉杖、벽옥제 옥장)と似たような形状をしており、すなわち、これだけの出土であれば奈良県広陵町・新山古墳(全長126m前方後円墳、4世紀前半)出土の筒形石製品と同じようなものである。大成洞古墳46号墳、新山古墳と今回の出土品とも共通して、『2000年度春季特別展「権威の象徴」-古墳時代の威儀具―(発行・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館』の表現を借りれば、石製品には稜線がなく、上部が円筒形で下部は裾広がりになる形である。

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発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)

2011年06月15日 | 「発掘された日本列島」展

隠岐殿遺跡出土品(韮崎市)。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 6月11日から標題の最新発掘速報展が始まりました。
 このブログの中で採り上げた遺跡ニュース・情報と合致する遺物の写真を撮影したので、遡って追加しました。

 2009.6.14 韮崎市・隠岐殿遺跡 杭列の跡、勝頼の重臣が塀設置か
 2009.2.11 韮崎市・隠岐殿遺跡
 2010.5.29 東近江市・相谷熊原遺跡 縄文時代草創期の竪穴住居5棟と国内最古級の土偶が出土
 2010.7.1 稲沢市・一色青海遺跡 着色されたシカが描かれた弥生時代の土器が出土
 2009.7.23 氷見市・稲積川口遺跡 7世紀の柄つきの馬鍬が出土
 2009.11.14 茅ケ崎市・下寺尾七堂伽藍跡 第15次調査 大型掘立柱建物跡を確認 11/14現地説明会
 2008.10.25 茅ケ崎市・下寺尾七堂伽藍跡 伽藍跡遺構見つかる
 2009.6.17 徳島市・川西遺跡 川跡の川岸から鎌倉時代初期の国内最古の護岸遺構
 2009.3.13 徳島市・川西遺跡 13世紀の将棋の駒「本横」(奔王)が出土
 
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明日香村・キトラ古墳 石室内の考古学調査を開始

2011年06月13日 | Weblog

壁画の精密な複製を陶板で製作、左に朱雀、右に玄武。 発掘速報展「発掘された日本列島2010」(江戸東京博物館)で撮影。

 文化庁は13日、明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室内で、漆喰とともに剥ぎ取り作業を完了した後の、その下から露わになった石材の組み方や、棺台の床面痕跡などを詳細に確認する考古学調査を開始した。 24日までの予定。
[参考:読売新聞、産経新聞]
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桜井市・桜井茶臼山古墳 主室の東側と北側に副室

2011年06月13日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が13日、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長約200mの前方後円墳)で、平成21年に竪穴式石室(主室)の周辺から見つかっていた天井石を伴う2つの施設が「副室」と分かったと発表した。 地中レーダ、電気探査も行い、参考にした。
 南西約1・5kmにあるメスリ山古墳(4世紀初め、全長約220mの前方後円墳)では、未盗掘の副室から武器など大量の副葬品が出土しており、関連が注目される。
 2つの副室は、丸太垣に囲まれた主室の東約6mと北約4mでそれぞれ見つかり、いずれも全長2m以上、幅1・5m、長さ70cm前後の天井石を並べていた。 天井石の上には「板石」が敷かれていた。
 今回は約60年前の調査範囲を踏襲した再調査で、新たに見つかった副室は調査対象に認められないため埋め戻された。 史跡のため副室内の調査は予定されていない。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.22 桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開
 2009.6.12桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 
 桜井茶臼山古墳
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村上市・山元遺跡 埋設土器の中から弥生時代後期の鉄器出土

2011年06月11日 | Weblog
 村上市教委は10日、2005年に試掘調査で発見された弥生時代の高地性環濠集落「山元遺跡」(同市下助渕)から鉄器が出土したと発表した。
 同遺跡は弥生時代の青銅器が出土した最北地点で、当時西日本を中心として発展した文化圏の北端であることが再確認されたとしている。
 4月中旬に始まった今年度の発掘調査で、複数の墓坑や埋設土器が見つかり、鉄器は埋設土器の中から出土した。 長さ8・5cm、幅2・4cmで、片側に木質の柄と目釘があり、刃物とみられる。
 現地説明会が12日午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞、村上市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.25 山元遺跡 県内最古の「筒形銅製品」が出土

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津堂城山古墳の斜縁二神四獣鏡 本山コレクションの破片3個が宮内庁所蔵の2枚と一致

2011年06月11日 | Weblog
 宮内庁の徳田誠志首席研究官の調査で10日、関西大学博物館(大阪府吹田市)が所蔵する「本山コレクション」(注1)の鏡の破片3個が、明治末に大阪府藤井寺市の陵墓参考地・津堂城山古墳(4世紀末、全長208mの前方後円墳)で出土した宮内庁所蔵の斜縁二神四獣鏡2枚のそれぞれ一部だったことがわかった。
 明治45年(1912)、地元の人たちが津堂城山古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに石棺が現れ、急遽発掘調査が行われた。 当時の宮内省は、後円部頂を皇族の墓の可能性がある「陵墓参考地」に追加指定し、副葬品を買い上げたが、一部が民間の手に渡った。
 「本山コレクション」の鏡の破片3枚は目録に「漢鏡破片 3個 河内国南河内郡津堂村小山古墳」と記されている。
 奈良県立橿原考古学研究所の奥山誠義・主任研究員(保存科学)が本山コレクションの破片を10~20μの精度の装置で三次元形状計測した。 計測データをもとにCGを作成し、既にデータベース化されている宮内庁の鏡と重ね合わせたところ、2枚の鏡の欠けている部分と、それぞれ破片1個と2個の形が平面、断面とも一致した。
 調査結果は、6月11、12日、筑波大学で開かれる日本文化財科学会で発表される。

(注1) 本山コレクション
 毎日新聞社々主で、関西大学評議員だった本山彦一(1853-1932)が収集した考古資料約2万点。

[参考:共同通信、毎日新聞、産経新聞、NHK、関西大学図書館HP]
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和歌山県岩出市・根来寺遺跡 安土桃山時代の階段で下りる地下式倉庫が出土

2011年06月11日 | Weblog
 県文化財センターは、根来寺西側の丘陵部の根来寺遺跡(岩出市根来2347ほか)で行っている発掘調査で、安土桃山時代の地下式の倉庫などの遺構を発見したと発表した。 同寺の子院の敷地だったとみられるとしている。
 地下式倉庫や、石積みの井戸や排水溝、斜面を登るための石造りの大型の階段跡(横幅約3m)など。出土した階段は2段分で、全体では10段ほどあったとみられる。 倉庫からは、備前焼の甕や中国製の白磁の皿、瓦などの破片が多数出土した。
 焼けた瓦なども出土し、1585年に羽柴(豊臣)秀吉によって一帯が焼き打ちに遭うまで存在したとみられる。
 11日午後1時半から現地説明会が行われる。
[参考:読売新聞、朝日新聞、和歌山放送]

過去の関連ニュース・情報
 2008.12.13 河内長野市・烏帽子形城跡 空堀から「堀内障壁」が見つかる

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蒲郡市・上ノ郷城跡 戦国時代の空堀を発見

2011年06月10日 | Weblog
 蒲郡市教委は、上ノ郷城跡(同市神ノ郷町)で15世紀半ば築城当時の岩盤を削って造った堅固な空堀(幅7m、深さ2.5m)を見つけた。60度の急斜度で築かれていた。 本丸周辺をぐるりと取り囲んでいたとみられる。 徳川家康(当時・松平元康)が攻めあぐねたほど難攻な城だったことを裏付けた。 堀は戦国時代初期、鵜殿長善が設けたとみられる。
 堀の外側の斜面で、土を盛った堤と、柵を立てるための穴(直径30cm)4個が見つかった。本丸と堀までの落差は約10mあり、急斜面の上に城を建て、堀と柵をめぐらせていたとみられる。
 鵜殿長善の子・長将氏の時に今川氏に仕え、長将の子・長持は今川義元の妹を室に迎えたことで、今川氏の有力武将となった。 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで義元は織田信長に敗れた。 長持と今川義元の妹との間にできた子・長照は今川方に残り、織田方についた徳川家康(当時は松平元康)と戦った。家康は永禄5年(1562)、上ノ郷城を攻めようやくの末落城し、長照は討ち死にした。 落城後、家康の命で久松俊勝が城の拡張のため、堀は埋められたという。
 6月4日に現地説明会が開かれた。
[参考:2011.5.25朝日新聞、2011.6.4読売新聞、2011.6.9毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 上ノ郷城跡

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京都市上京区・相国寺 応仁の乱時の焼瓦が多数出土

2011年06月09日 | Weblog
 同志社大と市埋蔵文化財研究所が9日、1月から行っている相国寺(京都市上京区)西側の発掘調査で、応仁の乱(1467~77年)から戦国時代にかけて造ったとみられる堀の跡や、焼瓦が多数見つかったと発表した。
 相国寺は足利義満が1382年に創建したが、応仁の乱では一帯が焼け野原になった。 現地は、同志社大学大烏丸キャンパスの予定地(建設中)で、相国寺の旧境内にあたる。
 15世紀の溝跡で、瓦片が多数出土。 応仁の乱(1467-77)で焼けた瓦葺き建物仏堂のものだった可能性が高いという。
 16世紀の堀跡が計6本見つかった。 最大のものは南北方向に長さ約70m、幅4m、深さ2m。掘った土を盛り土とし、高さ4mの土塁を築いた。旧境内の塔頭を囲む防御用と考えられるという。
 堀跡の東側で、15世紀以前の創建時に近い礫敷(れきじき)道路を長さ16m、幅5mにわたり確認。 これまでの調査と合わせ、総延長は400m以上と推定。
 現地説明会が6月11日(土)午後2時から4時まで開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、同志社大学キャンパス整備事業埋蔵文化財発掘調査HP]

過去の関連ニュース・情報
 相国寺関連

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橿原市・五井遺跡 古墳時代前期~中期の集落跡が出土

2011年06月09日 | Weblog
 橿原市教委の調査で同市五井(ごい)町の五井遺跡から、半世紀以上にわたって人々が定住していたことがうかがえる古墳時代前期~中期(4世紀)の集落跡が見つかった。
 川跡のほとりで、竪穴住居跡8棟(4.5~5.5m四方)、井戸跡3基を確認し、川跡からは甕、壺、鉢などの土器が数千点見つかった。
[参考:読売新聞]

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福井県越前町・真言宗法楽寺 織田信長の祖先にあたる津田親真?を示す「親眞」の銘が入った石造が見つかる

2011年06月08日 | Weblog
 福井県丹生郡越前町織田(おた)の真言宗醍醐派・法楽寺の境内から、織田(おだ)信長の十数代前の祖先にあたるという伝承が残る「親眞(ちかざね)」の銘が入った石造が見つかり、5月から町教委により調査が進められている。 石造には、「親眞阿聖霊 正應三(1290)年二月十九日」と彫られており、宝篋印塔の一部だったと考えられるという。
 同寺には、鎌倉から室町時代に墓とされていた五輪塔や宝篋印塔の石造が多数保管されている。 昨年10月、同寺澤嵜住職から『親眞』の銘が入った石造があるので調査してほしいとの依頼があった。

 「織田系図」(『続群書類従』)などによると、近江国出身の津田親眞(平親真)は13世紀前半ごろ、同町織田の劔神社神官を務めていた忌部(いんべ)家に養子に入った。その2代後?の常昌は、越前国守護の斯波義重の頃、家臣として登用され、尾張(現・愛知県)に出向き守護代を務めた。その際、織田常昌を名乗り、織田家初代といわれる。
 劔神社からいただいた「劔神社由緒略記」をみると、幕末に函館奉行として活躍した津田近江守正路は、織田信長の祖父・信定の兄弟・津田玄蕃頭秀敏を祖としている。
[参考:福井新聞、「劔神社由緒略記」]

追記:2011.8.6
 越前町織田の織田文化歴史館で8月6日から、「織田一族のルーツをさぐる」をテーマにした特別展が開かれる。9月4日まで。

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.15劔神社 神宮寺遺構の発掘調査を開始
 2010.9.4劔神社 神仏習合の源流か 境内を分割する水路と神宮寺が770年に存在したことを裏付け

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平等院 本尊「阿弥陀如来坐像」胎内の銅片、鳳凰像の尾羽と判明 創建時に境内に鋳造場の可能性も

2011年06月07日 | Weblog
 平等院(京都府宇治市)は6日、本尊・阿弥陀如来像(国宝)の胎内にあった銅の塊(最大長約5cm)と、銅の板片(同約10.6cm)の金属組成の分析結果を発表した。
 蛍光X線分析装置を使って分析したところ、塊と板片は組成は別であるが、ともにヒ素を含んでおり、銅とヒ素の分離精錬が始まる慶長年間(1596~1615)以前の鋳造という。
 銅の破片は、細長い銅板3枚を錨留めしたもので、1954年代に坐像修理時に胎内から見つかり、包んであった紙の記述から、江戸時代前期、寛文年間(1661~73)の修理の際に収められたとされる。 屋根を飾る北側の鳳凰像(国宝、高さ約98cm、幅約34cm)の尾羽の一部で、創建時のものではとみている。 鳳凰像は1053年完成の鳳凰堂の屋根に南北一対で据えられていた。現在のものは複製。
 塊は鋳造時の残留物とみられ、創建時に境内に鋳造場を置いた可能性があるとしている。
 銅の塊と板片は8日~7月24日、サントリー美術館(東京都港区)で始まる「不滅のシンボル 鳳凰と獅子」展で展示される。
[参考:共同通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.26平等院 本尊・阿弥陀如来坐像の台座から金文字の写経を発見
 2011.2.25平等院鳳凰堂 明治後期に流出した天井板が見つかり、菩薩像が描かれているのを確認
 2010.12.26 平等院鳳凰堂 本尊の台座から見つかったガラス玉3個が正倉院宝物と同じ成分組成
 2010.10.6 平等院 幻の本堂の本尊「大日如来像」の一部か
 2010.5.25 平等院鳳凰堂 平安時代中期頃の地層からサルスベリの花粉を発見 通説を遡る時代に植栽?
 2010.3.25 平等院鳳凰堂 国宝壁画「仏後壁」に描かれた舞楽は延喜楽と判明
 2009.1.24 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝) 極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
 2008.12.29 平等院 浄土院地蔵菩薩半跏像 南北朝期の作と判明

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臨済宗大徳寺所蔵・織田信長像(伝・狩野永徳作) 当初の絵を秀吉が修正命じる?

2011年06月06日 | Weblog
臨済宗大徳寺派塔頭 総見院 (そうけんいん) (京都市北区紫野大徳寺町59)
天正十年(1582)十月、織田信長(法名「総見院」)の菩提を弔うため羽柴秀吉が建立。 開山は大徳寺117世古渓宗陳

 読売新聞の今朝の朝刊で、京都国立博物館の調査で、大徳寺所蔵の「織田信長像」(絹本著色 縦115cm、横52cm、軸装)が当初の絵を大幅に書き直したものだったことがわかったと報じていた。
 この「織田信長像」は狩野永徳筆と伝わる。 絵の裏側に最初の絵が残っており、衣装がより華やかで、桐紋も大きく描かれている。 脇に差す刀も一本多い。(裏の絵には大刀と小刀が描かれているのに、表の絵は脇差1本のみである。) また、掛け軸には、天正十二年(1584)5月の墨書がある。 翌月には第3回忌の法要が営まれた。
[参考:読売新聞、産経新聞]

備考) 「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 毎日新聞社発行)には、信長1回忌の時に、秀吉が「新造の総見院の建物が気に入らず、取り壊しを命ずる」とあり、同様に、信長像についても書き直させた可能性もある。(注1)

(注1) 天正十一年(1583)六月二日、大徳寺において織田信長一周忌の法会が営まれ、羽柴秀吉、早々に焼香する。 同日、秀吉、信長位牌所(十二間四方)として新造の総見院の建物が気に入らず、取り壊しを命ずる内容が記されている。
[参考:「大徳寺の歴史」 山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行、兼見卿記、多門院日記を参考]

派手だった信長像、秀吉が地味に?調査で判明(読売新聞) - goo ニュース
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市原市・稲荷台遺跡 古墳をつなぐと北斗七星に、妙見信仰のルーツか

2011年06月04日 | Weblog
 千葉県教育振興財団文化財センター上席研究員・西野雅人氏により、古墳時代に築かれ平安時代には祭祀の場として再利用されていた市原市の稲荷台遺跡の古墳群が、その時に使われた古墳をつなぐと北斗星の配列に見えるという研究結果をまとめ、5月にあった千葉歴史学会の大会で発表した。
 市原台地に広がる稲荷台遺跡は1970年代から調査され、5~6世紀の円墳13基が確認され、1号墳から「王賜」銘鉄剣が出土している。
 大量に出土した陶器や土器の分析を進めた結果、平安時代の9~10世紀に墳丘上で祭祀が行われていたことがわり、平安時代の遺物がある古墳を結ぶと、北斗七星を裏返しにした配列になるという。
 千葉神社(千葉市)は妙見本宮とも呼称されるように、北極星と北斗七星を神霊とする妙見信仰が房総には根強いが、そのような文化のルーツなのではと推測している。
[参考:朝日新聞]


(左写真)千葉神社(千葉市)、 右上は、楼門型の分霊社「尊星殿」掛かる額   (右写真)説明板

追記
 2011.7.27読売新聞朝刊に「北斗七星に見立て祭祀 稲荷台古墳群に新説」と題して記事が掲載された。
 新たに書かれた注目される部分(既に西野雅人さんが主張しているとしている)は、「王賜」銘鉄剣が出土した1号墳を輔星として捉えていることである。
 稲荷台遺跡から、「貞観十七年(875)十一月廿四日」と書かれた墨書土器が出土しており、この年(875年)は、房総では俘囚の乱がおこった年でもあり、貞観11(869)年5月26日には貞観大地震が発生している。 また、貞観10年(868)には播磨国地震も発生している。
 前述の2011.6.4の朝日新聞記事には、稲荷台遺跡の祭祀が、「貞観11年(869)の大津波をはじめ、天変地異が連続し社会が動揺した。『その対策として祭祀が必要だったのでは』と考える。」との、国学院大・岡田荘司教授(宗教史)の話を紹介している。
 また、2011.6.8の読売新聞朝刊に、「平安大震災 東北の安寧 関東でも祈る」と題した記事中、埼玉県の慈光寺に残る「安倍小水麿願経」として知られる大般若経は、貞観地震(869年)の災害を弔うために奉写したものではないかと指摘している。 その願文には、「誠を至して大般若経600巻を奉写す。貞観13年(871)3月、前上野国大目従六位下、安倍小水麿」と記され、現在でも150巻ほど残っているそうである。
 さらに、京都・八坂神社の祭礼・祇園祭も貞観年間に始まっている。貞観5年(863)、疫病の流行により朝廷が神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。その後も疫病の流行が続いたために、貞観11年(869)、矛を立て神輿を送り、牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったという。 貞観年間は、このようにいろいろ不安な出来事が起こった。

過去の関連ニュース・情報
 20110.5.19 兵庫県たつの市・布勢駅家 868年の播磨国地震の痕跡


2012.5.2 井上誠さんのコメントに対して追記
 七ツ塚古墳群(日野市新町)は、7基にとどまらない数の古墳があったようですね。 遺跡地図で見ても何となく北斗七星の配列が描かれそうな感じです。 古墳の数が7基以上あれば、その中で北斗七星が描くことができる古墳を選択すればよいわけです。 時期的には7~8世紀頃。 上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳(府中市西府町)が7世紀半ば~後半の築造とされていますから、勢力関係で何らかの関係があるかもしれません。
 七ツ塚古墳は西党日奉(ひまつり)氏の墳墓であるといわれていたこともあるようですが、西党の祖・日奉宗頼は承平元年(931)、京より武蔵国司として下向していますから、古墳の築造時期とは合致しません。
 日奉宗頼の子孫が祖神を祀って日野官権現と称したという言い伝えがある日野宮神社(日野市栄町2丁目)の主祭神は天御中主尊(ほかに、高魂尊、日奉宗頼 、日奉宗忠)を祀っています。 すなわち、妙見本宮とも呼称される千葉神社の主祭神と同じです。日奉氏は大伴氏と同じく高魂尊(たかむすびのみこと)、別名高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祖とすることから、天御中主尊は、妙見信仰に伴って後に追祀したことも考えられます。
 ただし、日奉氏が祖神を祀ったという日野宮神社、そして、日奉宗頼が居館の鬼門よけに建立したという東光寺(注)、ともに妙見信仰の痕跡がみられないようである。
(注)現在は、萬照山東光寺 成就院(日野市栄町)として、子院が中興建立されている。

 先に記した、「日野市・仁王塚遺跡 真慈悲寺の関連建物か 柱穴105基出土」の中で、
 後白河法皇の四十九日の法要を、南御堂勝長寿院で行った記述があります、すなわち、
[吾妻鏡より]
 文治二年(1186)二月大三日辛亥。武藏國眞慈悲寺者。御祈祷靈塲也。然而未依無寄附庄園。佛無供具之備。僧失衣鉢之貯。爰僧有尋今日參上。安置一切經於當寺。可修理破壞之由。申請之間。則所被補院主職也。
 建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。
 僧衆。 鶴岡廿口 勝長壽院十三口 伊豆山十八口 筥根山十八口 大山寺三口 觀音寺三口 高麗寺三口
 六所宮三口 岩殿寺二口 大倉觀音堂一口 窟堂一口 慈光寺十口 淺草寺三口 眞慈悲寺三口
 弓削寺二口 國分寺三口也

 ここで、注目するのは二つ。 一つは所在不明の眞慈悲寺で、日野市百草にあったと考えられています。 もう一つは、埼玉県比企郡ときがわ町の都幾山慈光寺で、法要に10人もの僧侶を派遣しています。 また、安倍小水麿が貞観地震(869年)の災害を弔うために大般若経を奉写したとみられているところでもあります。
 一方、平安中期に日奉氏は日野台地の一角に館を設け、 その鬼門の方向に東光寺を建立したと伝わっているようです。 今の萬照山東光寺成就院(日野市栄町5丁目)は天正8年(1580)に再興されたといわれています。

関連情報
 秩父神社(埼玉県秩父市番場町1-1)
 日野宮神社(日野市栄町2-27-19)
 天台宗萬照山東光寺成就院(日野市栄町5-5-1)
 天台宗神王山観音院妙見寺(神王山北辰妙見尊)(稲城市百村1588)
 曹洞宗妙見山東光院(西多摩郡日の出町平井3963) 境内の山上に妙見宮を祀る

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