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臨済宗大徳寺所蔵・織田信長像(伝・狩野永徳作) 当初の絵を秀吉が修正命じる?

2011年06月06日 | Weblog
臨済宗大徳寺派塔頭 総見院 (そうけんいん) (京都市北区紫野大徳寺町59)
天正十年(1582)十月、織田信長(法名「総見院」)の菩提を弔うため羽柴秀吉が建立。 開山は大徳寺117世古渓宗陳

 読売新聞の今朝の朝刊で、京都国立博物館の調査で、大徳寺所蔵の「織田信長像」(絹本著色 縦115cm、横52cm、軸装)が当初の絵を大幅に書き直したものだったことがわかったと報じていた。
 この「織田信長像」は狩野永徳筆と伝わる。 絵の裏側に最初の絵が残っており、衣装がより華やかで、桐紋も大きく描かれている。 脇に差す刀も一本多い。(裏の絵には大刀と小刀が描かれているのに、表の絵は脇差1本のみである。) また、掛け軸には、天正十二年(1584)5月の墨書がある。 翌月には第3回忌の法要が営まれた。
[参考:読売新聞、産経新聞]

備考) 「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 毎日新聞社発行)には、信長1回忌の時に、秀吉が「新造の総見院の建物が気に入らず、取り壊しを命ずる」とあり、同様に、信長像についても書き直させた可能性もある。(注1)

(注1) 天正十一年(1583)六月二日、大徳寺において織田信長一周忌の法会が営まれ、羽柴秀吉、早々に焼香する。 同日、秀吉、信長位牌所(十二間四方)として新造の総見院の建物が気に入らず、取り壊しを命ずる内容が記されている。
[参考:「大徳寺の歴史」 山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行、兼見卿記、多門院日記を参考]

派手だった信長像、秀吉が地味に?調査で判明(読売新聞) - goo ニュース
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