歴歩

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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

2011年05月27日 | 瑞泉山祥雲寺
 再度、渋谷区広尾の祥雲寺に行ってきました。 いつもは、朝早いうちに行くのですが、今回は夕方近くからでした。
 カラスに襲われました。 といっても威嚇ですが、頭上すれすれをめがけて5、6回飛んできて威嚇されました。
 祥雲寺の墓地は、北側3分の1くらいが丘のようになっていて、多少木が生えており、もしかしたらそこに巣を作っているのかもしれません。 夕方に行かれる方は是非気をつけてください。

 さて、祥雲寺および京都・大徳寺と金森家の関係について、少々調べました。

 まず、大徳寺との関係は、資料「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行)によると、
■ 金森兵部卿法印素玄五郎八長近(1524-1608) 飛州(飛騨)高山城、三万八千石、織田信長の冥福を薦るために、大徳寺に金龍院を剏(創)る。(法名:金龍院素玄要仲玄英)
 曾孫長門守頼直(1621-1665) 飛州に大隆寺を建てる。禅海俊公を開祖とする。
 長近の孫・飛騨守重近(1584-1657)は病と称して辞職する。 卜居し、京都にて剃髪し入道となる。 名を宗和といい、茶会を能くし、世に名声あり。
■ 金龍院 慶長年中、金森五郎八長近が松嶽紹長を請じて造立する。 松嶽紹長は故あって山門を擯出したため、傳叟を請じて住持とした。天瑞の西にあり。
■ 妙高山大隆寺 某年、飛州金森長門守頼直は、傳叟を嗣ぐ禅海(宗俊)禾上を開祖として高山城に建立する。 2世は大陰禾上。金龍院に属する。(注2)
のようになります。
(注1) 金龍院は、文禄元年(1592)に建立されましたが、明治22年に廃寺となり、同じ大徳寺の龍源院に統合されました。
(注2) 元禄5年(1692)、6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封となると衰退し、安永7年(1778)に大而宗龍が曹洞宗の寺院として再興。 境内には金森頼直夫妻とその子の墓碑がある。

 金森家は江戸においては、広尾にある大徳寺派・瑞泉山祥雲寺を菩提寺としました。
 先日、ブログ・「飛騨の歴史再発見!」で金森氏の戒名がたくさん書かれていたので、それを書かれた徳積善太さんにリンクさせていただくことをお許しいただいて、それを元に今回、祥雲寺を再訪問したしだいです。
 金森氏と祥雲寺の関係

 もとは、いくつかのあるいはたくさんの墓が並んでいたと思われますが、どうやら今は少なくとも2つに集約されてしまっているようです。 わかっている2つの墓石(塔)には下記のように刻まれています。
 

左: 源姓金森累世之塔
右:(表)源姓土岐金森累世父母霊
  (裏)延享二乙丑年(1745)八月十二日兵部侍部源頼錦建
  (表下部基礎石)覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士

 金森頼錦(1713-1763)は1736年に家督を継いでいますので、その9年後にこの墓塔を建てました。 藩内の騒動により、1758年改易され盛岡藩の南部利雄に預けられた後、宝暦13年(1763年)6月6日に死去しました。 墓の下部基礎石に小さく刻まれた戒名は、恐らく死去後に刻まれたと思いますが、「茅山清監」の部分は、「茅」は「芳」あるいは「第」、「清」は「青」と書かれているものがあります。 先の「金森氏と祥雲寺の関係」では「第山清藍」としています。 「飛騨遺乗合符」(桐山力所編纂)の「金森家大系図」では「芳山清藍」としています。ちなみにWikipediaでは「芳山青藍」としています。

追記2011.6.17 「金森氏雑考」(大正十年十一月 陸軍中将・押上森蔵著)によれば、金森頼錦が亡くなった盛岡の地での墓臺石には、「『樹覚院殿兵部侍郎茅山清藍大居士宝暦十三年六月六日』と彫し」と記しています。樹と覚が反対になっていますが、「茅山清藍」としています。

追記2011.1017 前述の記載内容は、文面の流れから盛岡の地での墓石のものかと判断したが、実際に盛岡の地・法泉寺に赴いてみるとまったく違った内容であった。それについては、改めて記すことにする。

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