歴歩

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坂本竜馬が運用・乗船した蒸気船「いろは丸」の初めての絵が発見される

2010年07月27日 | Weblog
 長崎市歴史民俗資料館は27日、坂本竜馬が海援隊で運用した西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画(注1)を確認したと発表した。同船と推定される絵が見つかったのは初めて。 
 同資料館が現在展示している「白帆注進外国船出入注進(しらほちゅうしんがいこくせんでいりちゅうしん)」((財)鍋島報效会蔵)は江戸末期に長崎港における外国船の出入湊を記録しており、その中で確認した。長崎港にいた時の様子を見ながら描いた可能性が高いという。絵図には、「十月二十四日 深堀亀ヶ崎出船」という添え書きがあり、絵の前ページには「四国船」との記述があり、冊子内の記述から1866年の記録と判断した。
 いろは丸は現在の愛媛県大洲市を中心とする伊予大洲藩が当時所有(注2)しており、同時期に長崎に寄港したとする記述が他の文献にあることなどから、いろは丸の可能性が高いとしている。
 資料では「いろは丸」と明記されていないが、赤地に白の蛇の目の家紋が所有者だった大洲藩(現愛媛県大洲市)(注3)のものであることや、資料に残された3本マストや、スクリュー船といった特徴などがほぼ一致しているという。
 いろは丸は1867年に海援隊が大洲藩から借り受け、長崎から大阪に向けて航海中に紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、広島県・鞆の浦沖で沈没した。(注3)
 絵画は8月31日まで同資料館で展示される。
[参考:共同通信、時事通信、西日本新聞、産経新聞、読売新聞]

いろは丸(goo Wikipediaより)
(注1)1862年にイギリス・バーミンガムで建造、全長 30間、全幅 3間、深さ 2間、トン数 160トン、機関 45馬力、外輪船(蒸気機関)、マスト3本あり、帆走可能。外輪船であるが、絵からは外輪が見え難い。
(注2)1866年6月、大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎においてポルトガル領事から購入し、いろは丸と改名する。
(注3)利仁流加藤氏の末裔と見られる加藤光泰の子・貞泰が大洲藩初代となり泰秋まで13代続く。家紋は蛇の目。ちなみに武将加藤清正も蛇の目の家紋を使用した。
(注4)1867年4月、大洲藩はいろは丸を坂本龍馬の海援隊に貸与、19日(5月22日)に龍馬は大坂に物資を運ぶために長崎を出航。23日(5月26日)、紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。

竜馬の「いろは丸」か=初の絵画発見―長崎資料館(時事通信) - goo ニュース
龍馬率いる海援隊乗船した「いろは丸」の絵図か(読売新聞) - goo ニュース
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