天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

新井白石

2015-10-16 | Weblog
 新井白石は、江戸時代中期に活躍した、旗本・政治家・学者です。
 6代将軍家宣に仕えて、
 後に正徳の治と呼ばれるようになる政治改革を行いました。
 白石の身分は500石取り(のち正徳元年1000石に加増)の本丸寄合、
 すなわち無役の旗本でしたが、幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、
 将軍侍講として幕政の運営に関与したのは、白石以外にいません。
 合理主義、批判精神の権化のような白石は、
 旧来の悪弊を正す理にかなった政策を行いますが、
 「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、
 やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになり、
 旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになります。

 家宣が死ぬと、その子7代将軍徳川家継のもとで、
 引き続き政権を担当しますが、
 8代将軍に徳川吉宗が就くと白石は失脚し、
 朝鮮通信使の応接や武家諸法度などの白石が行った政策は、
 吉宗によってことごとく覆されてしまいます。
 また、白石が家宣の諮問に応じて提出した
 膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、
 幕府に献上した著書なども破棄されたと言われています。

 その白石、引退後に、次女ますの縁談に関して、
 あらゆる占いに縋った姿が残されています。
 1717年(享保2年)2月26日、29日付の、
 親友室鳩巣宛の長文の書簡に残っているとの事です。
 その娘は、何回か縁談に失敗した上での事らしいのですが、
 60歳を越えての失意の身としても、
 鬼と呼ばれた剛腹の白石の姿としては異様な感じです。
 年老いて不遇の身、縁遠くなった娘の幸せを祈る心は分かりますが、
 それにしても江戸時代を代表する知性人の一人である白石にも、
 このような人間的な弱さがあったようです。
 なお、この縁談はまとまり、
 翌年には500石取りの小普請役市岡某に嫁しているとの事です。
 以上、淮陰生の「一月一話」に載っていた話です。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 正一位 | トップ | 五千石の大大名 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
有難うございました (天然居士)
2015-10-30 17:53:24
井頭山人さん コメント有難うございました。

そうですね。
あの合理主義の権化のような新井白石だからこそ、この話が面白いのだと思います。
やはり子を思う親の心とは、そのようなものなのかも知れませんね。

吉宗が、もう少し白石の政策を引き継いでいたら、江戸時代も変わったような気がします。
返信する
Unknown (井頭山人)
2015-10-19 12:47:11
新井白石ですか。合理的で気性の激しいと云われた彼にも、そんな面があったのですね。外と内では異なる心性を示す人も屹度多いと思います。亭主関白・内弁慶でも、外では好人物として通っている人を知っていますし、その逆もあります。新井白石の先祖は、武田氏の遺臣で、塞翁が馬の例えのように、運が好いというか仕官先を遍歴し遂には、一時期、幕府の最大の実力者でした。勿論、白石の才能もあった為でしょう。いつの間にか一介の外野の人物が、幕閣として幕政に関与し「正徳の冶」を言われる、貨幣の吹き替えとか、通信使の経費節減とか、生類哀れみの令の廃止とか、改革を実行しましたね。

学者で政治に関与した人物と謂うと、白石の前には荻生徂徠が居ましたが、徂徠は白石ほどには直接的な関与はしていないし、諮問に答えた程度です。ですから白石は学者として、江戸時代中では、直接指導的関与をした、初めての例かも知れませんね。後世では、むしろ彼を有名にしたのは、白石の著作「西洋紀聞」とか「折たく柴の記」とかの著作です。密入国したイタリア人宣教師シドッチの尋問記録ですね。白石はこの尋問を通じて海外の実情を知ることが出来たと思われます。白石以後、彼の様に直接幕府の政策に関与した人物は余り居ないのではないかと感じます。とっておきのお話を有難う御座いました。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事