戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 1

2023年01月08日 | 歴史を尋ねる

 中華人民共和国は事ある毎に日本との抗争を侵略戦争と非難し、台湾領有を植民地支配として論難する。しかし、中華人民共和国は1949年に誕生したのであり、支那事変当時の抗争相手国名は中華民国であり、実質的な統治政権は蒋介石政権であった。中華ソビエト共和国は1932年4月26日、中央政府の名により日本に宣戦布告し、1935年8月コミンテルンの「反ファッショ人民統一戦線」の指令に従い抗日救国宣言を発しているから、日本軍の行為は戦闘行為であり侵略とは言えない。日本を占領した米軍を侵略とは言わない所以と同じである。ただ蒋介石政権は終始日本軍の行為を侵略行為として、国際連盟や米国などにその非をアピールしていた。それは蒋介石政権の周到な戦略だったが、その主張はどこまで正当性があるのか。まずは蒋介石秘録から、蒋介石の主張に耳を傾けたい。

「盧溝橋事件の発生・経過は、7月8日、廬山で秦徳純らから報告を受けた。『日本軍は盧溝橋で挑発に出た。準備が未完成の時に乗じて屈服させようというのか。それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのか。日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時だろう』 9日、現地で協定が結ばれたが、国民政府は南京の日本大使館に覚書を送り、『如何なる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効である』と通告。さらに14日、協定細目が調印された。 18日蒋介石は『最後の関頭演説』を行い、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。日本軍の作戦遂行は極度の秘密が保たれていたが、中国側が得た情報によれば、すでに八個師団、約十六万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であった。譲歩に譲歩を重ねた中国軍現地軍も、それまでの現地交渉がまったく無益であったことを思い知らされた。宋哲元も、日本軍の言う地方的解決のむさしさを悟らざるを得なかった」と。
 蒋介石はここで盧溝橋事件を日本の挑発と決めつけている。さらに現地解決協定を無視している。さらに十六万人の集結も誤認識であった。前回も触れたが、蒋介石のところに上がってくる情報はどこまで正確だったのか。清瀬一郎は東京裁判冒頭陳述で「1937年7月7日の盧溝橋における事件発生の責任はわが方にはない。日本は他の列強と1901年の団匪議定書(義和団事件の北京議定書)によって兵を駐屯せしめ、また演習を実行する権利を持っていた。またこの地方には日本の重要なる正常権益を有し、相当多数の在留者(1901年当時日本人の北京周辺の居留民は3万3千人)を持っていた。もしこの事件が当時日本側で希望したように局地的に解決されていれば、事態はかくも拡大せず、したがって侵略戦争ありや否やの問題には進まなかった。それゆえに本件においては中国はこの突発事件拡大について責任を有すること、また日本は終始不拡大方針を守持し、問題を局地的に解決することに努力したことを証明する。近衛内閣は同年7月13日『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。これがため第二十九軍代表の提出せし11日午後八時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視する』と発表している。しかるにその後中国軍の挑戦は止みません。郎防における襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇等が引き続き発生した。中国側は組織的な戦争態勢を具えて、7月12日には蒋介石氏は広範なる動員を下令したことが分かった。一方中国軍の北支集中はいよいよ強化された。豊台にあるわが軍は中国軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けた。そこで支那駐屯軍は7月27日、やむを得ず自衛上武力を行使することに決した。書証及び人証によってこの間の消息を証明する。
 それでも日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した」
 清瀬一郎は公式の場でここまで言及しているが、日本史の専門家で清瀬氏の主張を取り上げた事例にお目にかかれない。不思議な事だ。

 「史実を世界に発信する会」主宰の茂木弘道氏はそのブックレット「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!」で次のように解説する。盧溝橋発砲事件の四日後の7月11日に中国第二十九軍副軍長秦徳純と日本軍北京特務機関長松井久太郎との間で締結された現地停戦協定に明確に書かれている。『一、第二十九軍代表は日本に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任をもってかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。二、中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ、事件を惹起し易きをもって、盧溝橋付近永定河東岸には軍を駐屯せしめず、保安隊をもってその治安を維持す。三、本事件は、いわゆる藍衣社(蒋介石直属の情報工作、テロ組織)、共産党その他抗日各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。』  協定だから、一方だけの言い分ではない。この協定を日本の圧力で結ばせた、などという論は現実を無視した暴論だ。二十九軍は宋哲元率いる北支を支配する十五万の軍で、対する日本の支那駐屯軍は5600人と極少数。圧倒的な力にものを言わせる理不尽な停戦協定などと押し付けることなどできない。しかし、その後中国側はこれは無かったと強弁しているが、秘録から押すと、蒋介石の指示によると言える。協定文書が厳然と存在している。さらに細目協定作りの作業も行われた。19日成立している。
 茂木氏はさらに続ける。そもそも日本が攻撃を行う理由がない。たった5600の駐屯軍が十五万の二十九軍に攻撃をかけるなどあり得ない。(さらに事件当時、支那駐屯軍司令官田代皖一郎は病床にあり、7月12日新たに香月清司中将が司令官に任命された事実もある。司令官の不在状況で意図した戦闘などするわけもない) 日本軍の国内、満州、朝鮮、中国に駐屯する全勢力はおよそ二十五万。これに対し中国軍は二百十万。内50万はドイツ軍事顧問団の指導で装備・訓練とも近代化を進めていた。さらに日本の最大の仮想敵国は当時のソ連で160万の大戦力を有し、内およそ40万が極東に配備されていた。このような状況で、日本が北支で戦端を開くなどという愚かなことを行う筈もないし、そのような理由も計画も皆無だった。しかし、当時の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で、都市の住民は日本との戦争を熱望し、勝利を確信していた。当時の中国で発行されていた新聞各紙を見ればその様子は一目瞭然だという。そして茂木氏は北村稔・林思雲著『日中戦争:戦争を望んだ中国、望まなかった日本』を紹介している。当時の主戦派には、一つは過激な知識人・学生・都市市民。二つ目は中国共産党。三つ目は地方軍閥。共産党と軍閥は過激な世論を味方として、蒋介石政権に対する立場を有利にしようという狙いもあり、主戦論を唱えていた。特に共産党は抗日を最大の政治的武器として使っていた。
 停戦協定第三項には二十九軍も誰が発砲したか具体的につかんでいなかったが共産党が怪しいと云う事を察知した文章になっている。徹底抗戦を叫び続けた共産党が衝突事件を起こそうとするのは当然だが、その他に深刻な事情があった。実は共産党は当時窮地に追い込まれていた。たしかに、西安事件により蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力関係を作ることを約束した。しかしその後、蒋介石は次々に厳しい条件を共産党に突き付け、半年後の37年6月頃には国共決裂寸前となっていた。エドガー・スノーは「1937年6月には蒋介石は、再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた」と。この窮地打開のために共産党は謀略大作戦を決行した、と茂木氏。共産党は、第二十九軍の中に副参謀長の張克俠を筆頭に参謀に四人、宣伝副処長、情報処長、大隊長他大量に党員を潜り込ませていたことは、今では中国で出版されている書籍によって明らかになっている、と。『浸透工作こそ中国共産党の全て』という石平氏の著作を紹介した。これは表に出ている共産党の謀略の数々を具体的に挙げているが、これらの事例から、同様な事件が盧溝橋に起こってもおかしくない、といえる。
 さらにこれを起こしたのは100%明らかな証拠があると、茂木氏。「発砲事件の翌日八日に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体などに発信した。共産党の公式史で「七八通電」として特筆されている。さらに同日に同種の電報を毛沢東ら軍事指導者七名の名前で蒋介石、宋哲元等に送っている。日本軍は、八日午前五時三十分に初めて反撃を開始した。それまでは盧溝橋域などで交渉していたのであり、相次ぐ発砲に対して、対抗する体制を整えつつあったが、この時までは全く反撃の発砲をしていない。当時の通信事情から八日に初めて発砲による反撃があったのに、八日にこの情報を手に入れて、経過を含む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、中央委員会の承認を得て、全国に発信するなどという作業は絶対不可能。唯一可能なのは、事前に準備していて、筋書きを作り、その通りにことが運んだことを確認して、正式文に仕上げた場合だ。実は、実際に準備していた、その証拠がある。支那派遣軍情報部北平支部長、 秋富重次郎大佐は『事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)で述べている。その時は分からなかったが、その後盧溝橋での謀略成功を延安に報告する電報だった。早速延安では電文つくりが行われ、八日の朝、日本軍が反撃を開始したのを確認してこの長文の電報を各地に大量に発信した。盧溝橋の銃撃事件を引き起こした犯人は中国共産党に他ならない」と。11日に結ばれた停戦協定は中国側、中国軍自体、あるいは不明者により再三にわたり協定破りを行った。郎防事件、広安門事件といった大規模な中国軍による停戦違反攻撃が起きるに至って、一貫して不拡大方針を取ってきた日本政府は、7月27日内地三個師団派遣を決定し、28日、二十九軍に開戦通告を発した。エドガー・スノーは6月の共産党の大苦境は、日本軍が引き起こした盧溝橋事件によって救われたと述べている。日本軍が一斉侵攻を行った事実はないが、共産党はそれを望んでいたと云う事をスノーの文章は図らずも暴露している、と茂木氏。蒋介石が剿滅作戦を放棄せざるを得なくなったことを喜んでいるが、さらに進んで日本軍を戦わせることが彼らの本当の狙いだった。 
  盧溝橋事件後に出されたコミンテルン指令は、1,あくまでも局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない。2,右目的貫徹の為あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の開放を裏切る要人は抹殺してもよい。3,下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府をして戦争開始の已む無きに立ち至らせねばならない。4,党は対日ボイコットを全中国に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。5,党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。この指令は1937年7月に出されたもので、後に興亜院政務部「コミンテルンに関する基本資料」から茂木氏が引用している。ここから読み取れることは、共産党の苦境打開という直接的な狙いのほかに、日本軍と蒋介石軍との間の本格的戦争を引き起こすことが真の狙いだった。これにより日本軍の力が削がれ、ソ連の安全確保という目的が達成できると同時に、日中両国の疲弊・共倒れをもたらすことによって、共産党の勝利を実現しようという長期的な戦略だった。コミンテルンの世界戦略とそれを推進した中国共産党のこの最終目標は、その後1949年に実現した。

 世界を、歴史を、巨視的に見ていくと、意外な筋書きが見えてくる。日本軍も蒋介石軍も手玉に取られていたと見るのは情けないが、「成功了」の電文を見ると、両軍が筋書き通り行動したことになる。日本の真珠湾攻撃も筋書き通りとすると、二度にわたって、日本は操られたことになる。日本国内でのゾルゲ事件もこうした筋書きに比べると、かわいいものである。日本では謀略をあまり大きく取り上げないが、その怖さは石平氏の著書で十分読み取れる。

 

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