戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 2

2023年01月15日 | 歴史を尋ねる

『一般的には盧溝橋事件が日中戦争の始まりとされている。しかし事件そのものは小さな紛争であり、本格的な戦争の始まりといえないものだった。従って、盧溝橋事件が上海に飛び火した、という表現は不正確だ』と、茂木弘道氏は言う。『日本軍は、事件のあと停戦協定を結んだが、停戦協定を破り続ける中国軍の不法行為を抑えるために内地三個師団、関東軍の一部を北支に派遣し、平津地区(北平、天津など)を制圧したが、進出の限界を保定に置いていた。しかも8月5日に中国側に画期的とも言える内容の和平提案をすることにし、9日には最初の日支の会談が行われることになっていた。だから8月13日に起こった上海の中国軍の攻撃は、盧溝橋事件の延長のような形で飛び火したという性格のものではない。これは蒋介石が日本との本格戦争を決断したことによる攻撃で、新たな大事件というべきものであった』と茂木氏は主張する。出先の部隊による武力行使でなく、国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、と。宣戦布告があったかどうかは決定的な要因ではない。1937年8月13日、上海において蒋介石政権の正規軍三万が総動員体制の方針の下、居留民保護のために駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃を開始した。これが日中戦争の始まりと正式には考えるべきだ、ライシャワーもそう言っていると茂木氏は言う。
 国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、確かに当時日本では日中戦争と言ってなかった。事変と言っていた。しかし、東京裁判の冒頭陳述で清瀬一郎は『日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した』と述べている。清瀬は暗に戦争を開始したのは蒋介石政権、中国側だよと指摘していたのだ。この清瀬の深い指摘に、日本の史家も気づいていなかったのではないか。

 ここのところを、蒋介石秘録はどう伝えているのか。「戦火はさらに上海に飛び火した。主役を演じたのは日本海軍である。海軍は、まず盧溝橋と「同じ手口で、開戦の口実を作ろうとした。7月24日、上海駐屯の日本海軍陸戦隊は突然、隊員の宮崎貞夫が中国人に連れ去られたと称し、上海市政府や共同租界工部局に調査を求め、閘北一帯で厳戒態勢に入った。中国の保安隊も警備を強化し、双方のにらみ合いは三日に及んだ。一触即発の緊張の中で、27日長江で溺れかかった日本人を中国船が助け上げた。この男が連れ去られたと言われた兵であった。宮崎はこう供述した。「軍規に違反して遊びに出たが、後で処罰が怖くなり、密かに長江を遡り投身自殺を図ったが死にきれなかった」と。日本はみずからの軍の恥をさらす事件でさえ、開戦に結び付けようとした。北平方面で、日本軍が一斉攻撃にはいった翌日の7月28日、日本政府は漢口から上流の日本人居留民に対し、引き揚げ命令を出した。あきらかに全面戦争を予期しての措置であった。日本の艦艇に警護された最後の引き揚げ船が上海に到着したのは8月9日であったが、この日、いわゆる大山中尉事件が発生した。午後五時、大山中尉は斉藤一等水兵に運転させ、警戒線を強行突破して飛行場に向かった。軍事施設をスパイしようとしたのである。保安隊が停車を命じたが、彼らは命令を無視して発砲、保安隊一人を射殺、このため保安隊は反撃し、二人を射殺した。事件は上海市長を通じて上海総領事に通告され、外交交渉によって処理するという約束の下、日中の話し合いが始まった。だが第三艦隊司令官は事態の悪化を理由に臨戦態勢を敷いた。長江から黄浦江にかけて三十隻を超える艦艇が展開し、陸戦隊三千人を上陸させた。すでに日本軍は陸戦隊本部を中心に約八十か所に陣地を構築中であった。兵員は在来の陸戦隊三千二百人、新たに上陸した陸戦隊三千人に加えて在郷軍人三千六百人、その他艦上の動員可能なものを含め約一万二千人と推定された。一方、中国軍は1932年第一次上海事変の停戦協定によって、市内には保安隊・警察隊などが治安維持に当り、正規の戦闘部隊は駐留していなかった。時々刻々と増強される日本軍に対抗するため、8月11日、中国軍は京滬警備総司令・張治中指揮下の第八十七師、第八十八師の両師を上海郊外に配置した。この二個師はいずれも第一次上海事変で日本軍と激戦をかわした筋金入りの部隊である。すでに上海周辺では、日本の再侵略に備えた防禦工事が1935年から始まっていた。一帯を縦横に走る無数のクリークを利用して、上海市を遠巻きにするような形で、陣地が構築されていた。13日、ついに日中両軍は衝突した。午前9時15分、陸戦隊の一小隊が中国軍に向けて発砲した。この時は二十分で収まったが、午後四時ごろ、ついに全面的な戦闘に入った。黄浦江上に待機していた日本の軍艦も一斉に砲火をひらき、上海市街を艦砲射撃した。ここに約百日に及ぶ上海防衛戦が始まった」と。ふーむ、蒋介石に当時上がってきた情報はこうだったのか、蒋介石が今のこの段階で正当性を敢えて主張するのか、行間から読み取ることは出来ないが、重要なことを語っていない。

 1937年8月31日付けのニューヨークタイムズは次のように報じている、と。上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々な会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後の数日間、兵営の中から一歩も外に出さなかった。8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこう見ている。「七月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては、意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれた。中国軍は外国人の居住地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるように思えた」(ハレット・アベンド上海特派員)
 茂木弘道氏は言う。ニューヨーク・タイムスの記事の通り、戦争を仕掛けたのは明らかに中国側だった。上海の共同租界には日本人が三万人余り居住し、製造業、商業などに携わっていた。海軍陸戦隊二千二百が租界の居住民保護に当っていた。中国軍が停戦協定を破って、租界の外側の非武装地帯に大量に潜入してきたことが察知されたので、急遽約二千の増援部隊を集めた。上記記事の増援部隊はこの二千の陸戦部隊を指している。8月9日、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊、大山中尉と斉藤一等水兵を惨殺した。攻撃されたので反撃したと自軍の保安隊員の死体を持ち出したが、弾痕から、中国側のものであることが明らかになった。上海にいた記者も確認している。租界を包囲する中国正規軍はドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭部隊八八師を主体に三万を超えていたが、13日から攻撃を始め、14日には航空機を含む一斉攻撃をかけてきた。この攻撃が本格戦争に展開していった。いずれにしても、戦争を仕掛けてきたのは、明らかに中国側であり、日本は望まない戦争に引きずり込まれたというのが歴然たる史実だ、と。   

 東アジア史を語るうえで、ユン・チアンの書いた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を外すことは出来ないだろう。石平著『浸透工作こそ中国共産党のすべて』でユンについてちょっと触れたが、『マオ』は十余年にわたる調査と数百人に及ぶ関係者へのインタビューに基づいて書かれたもので、日本も含む世界各国に及んでいる。日本に触れる部分はかなり正確なので、上海における日中の確執について、マオの調査結果に耳を傾けよう。
 「1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。日本軍は7月末には華北の二大都市、北京と天津を占領した。蒋介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んでいなかった。この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。にもかかわらず、それから数週間のうちに、1000キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。日本は1932年の休戦合意に従って、上海周辺には海軍陸戦隊をわずか3000人配置していただけだった。八月中旬までの日本の方針は、進駐は華北のみとするというものであり、上海出兵には及ばないと明確に付け足すことまでしていた。ニューヨークタイムズの特派員で消息通のH・アーベンドはのちに回想する。『一般には日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は非常に少ない兵力しか配置しておらず、18日、19日には長江のほとりまで追い詰められて河に転落しかねない状況だった』 アーベンドは、交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画の存在に気づいた。アーベンドの読みは当っていたが、読み切れなかったのは、計画の首謀者が蒋介石ではなく、ほぼ間違いなくスターリンだった、という点である。7月、日本が瞬く間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにも及ぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起して日本を広大な中国の中心部に引きずり込む、ソ連から遠ざける、手を打ったものと思われる。
 冬眠から目覚めたスパイは張治中という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。張治中は1925年当時、黄浦軍官学校で教官をしていた。学校はソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校で、モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという意図を持っていた。張治中は回顧録の中で、中国共産党に入党したいと周恩来に申し出たが、国民党の中にとどまって密かに中国共産党と合作してほしいと要請された。盧溝橋事件の発生当時、京滬警備司令官という要職にあった張治中は、日本に対する先制攻撃に踏み切るよう蒋介石に進言した、それも上海における先制攻撃だった。上海には日本の海軍陸戦隊が少数駐屯しているだけだった。蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心で、ここを戦場にしたくなかった。しかも上海は蒋介石政権の首都南京に近く、日本に攻撃の口実を与えないために、上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。
 七月末、日本軍が北京と天津を占領した直後、張治中は蒋介石に重ねて電報を打ち、開戦に先手を取るよう強く主張した。張治中が執拗に主張を繰り返し、日本軍が上海攻撃の明白な動きを見せた場合にしか攻撃しないと言うので、蒋介石はその条件付きで承諾を与え、攻撃開始については命令を待つように釘を刺した。しかし、8月9日、上海飛行場で張治中は精選した部隊によって日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵が射殺された。さらに、一人の中国人死刑囚が中国人の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。攻撃許可を求める張治中に対し蒋介石はこれを却下し、13日朝、張治中に対して一時の衝動に駆られて戦争の口火を切ってはならない、今一度検討したうえで計画を提出するように命じた。翌日、張治中は「本軍は本日午後5時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り」と蒋介石に迫った。14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張治中は総攻撃を命じた。しかし蒋介石は今夜は攻撃を行ってはならない、命令を待てと張を制した。持てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本艦船が上海を砲撃し日本軍が中国人に攻撃を始めた、と虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。翌8月16日、蒋介石はようやく翌朝払暁を期して総攻撃を行うと命令を出した」「蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争遂行を支援する動きに出た。8月21日、スターリンは南京政府と不可侵条約を結び、蒋介石に武器の提供を始めた。中国はライフル以外の武器を自国で製造することが出来なかった。スターリンはソ連からの武器購入代金として蒋介石に2億5千万ドルを融通し、航空機1000機、戦車、大砲を売却し、加えて相当規模のソ連空軍を派遣した。さらに数百人の軍事顧問団を中国に派遣した。この後4年に亙って、ソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった」「モスクワは戦局の展開に喜んだ、とソ連外相はフランス副首相に認めている。また、張治中と接触したソ連大使館付き武官とソ連大使は直後に本国に召還され処刑された。蒋介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを持ち、9月に司令官の職を解いた。しかしその後も蒋介石は張治中を使い続け、1949年に国民党政府が台湾に逃れたあと、張治中はもう一人の大物スパイと同じく、共産党政権下にとどまった」  マオの記述は詳細に亙るが、いくら取材でもそこまで分からないだろうと云う部分もあり、全面的にその通りという事も出来ないし、南京虐殺にしても巷で言われる内容をそのまま書き込んでいるので、その信憑性を慎重に判断する必要があるが、大局的な見方は取材に基づいた記述だろう。ただ、『スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ』という文言はやはり書き過ぎだろう。スターリンはさすがにそこまで目が届かない。むしろ考えられるのは、周恩来だろう。毛沢東の伝記であるので、周恩来の実像はあまり出てこない。そして蒋介石の役割も史実を振り返ると、過小評価しているので、蒋介石の実像が出ていない。むしろ、清瀬一郎や茂木弘道氏の見方が実像に近いと思われる。そうは言っても、日中戦争にソ連が演じた役割は、過小評価すべきでない。むしろこの視点はもう少し掘り下げられるべきだろう。ユン・チアンはもう一つ貴重なコメントを残している。『張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという』  

 

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