斯くの如くして、敗戦の憲法案は生れる。今に見てろという気持ち抑えきれず

2020年01月10日 | 歴史を尋ねる

 2月22日、可能な限りの抵抗を試みるため、閣議後、松本国務相、吉田外相、白州次長が民政局に出かけた。草案の7項目について質問し、条文のうち絶対に必要な条文の明示を要請したが、ラウエル法規課長は、どの章、どの条文も一体をなすもので削れない、と。結局、議会の一院制を二院制にする以外はすべて拒否された。吉田外相が草案に沿った憲法案を作成し、26日の定例閣議で作業の目途をつける、と述べ、会談は終わった。首相官邸に戻り、幣原首相に報告して、松本は自身が草案をもとに憲法改正案を作ると告げた。「一応大なるイガを取り、一部皮を剥ぐ程度に、試案を作り、更に改案の余地を残す」と。

 2月26日、民政局に約束した定例会議の開催日。この日はじめて民政局草案の外務省仮訳文が閣僚に提示された。概要は承知していたが、条文現物を見てショックは格別だった。閣僚たちはこのまま押し付けられては大変だという感想を述べ、松本は「かくなる上は、日本の案をつくることになると思うが・・・」発言すると、閣僚たちは是非そうして貰いたいと賛成、法制局佐藤達夫部長を助手に3月11日に総司令部に提出ことで合意。閣議後松本は佐藤部長を呼んで、基本原則、基本形態を厳格に守って日本案の作成を指示した。すると、3月1日、民政局から強硬な督促を受けた。3月4日午前10時に必ず日本案を持参してほしい。間に合わなければ、日本文でもよい、と。民政局としては、極東委員会が3月7日に設定され、その日に日本憲法問題が討議される可能性があり、前日までに確定した憲法案をワシントンに届けたい、と考えた。

 3月4日午前10時、指定時間に松本国務相、佐藤部長、三辺秘書が民政局を訪れた。民政局側も女性1人、男性6人の翻訳者を用意しており、早速持参した日本案と説明書の英訳が開始された。作業は難航した。民政局側にとって予想外だった、翻訳の渋滞より日本案そのものだった。草案十一章九十二条を九章百九条にまとめていた。大なりイガを取り一部皮を剥いだ成果だが、民政局側は憤然とした。草案の日本語訳にひとしいものと期待していたが、届けられた日本案は随所に骨抜き工作が施されていた。一カ条ごとに相違点を指摘し、苦情を述べた。松本国務相の憤然とした。草案に沿って日本案を作れというから、そうしたのに、これでは一字一句変えるなということにひとしい。それではなぜ日本案を作成させたのか。松本国務相は不快感を抑えきれず、総司令部を退出した。午後四時頃、説明書の英訳が出来上がった。これで日本政府の憲法改正に関する意図を知ることができた。ホイットニー局長とケーディス大佐は協議し、松本が極度の保守主義者で、頑迷な封建思想の持ち主だ、彼にやらせていては、到底、最高司令官の意図を実現する民主的な憲法を完成できない、と。極東委員会の会合日は3月7日に決定、その前に憲法案を届ける計画は不動になっている。徹夜で作業を進める以外にない。午後6時、大佐は白州に告げた。「今夜中に確定案をつくることになった。ホイットニー局長は24時までに出来なければ、明朝6時まで待つ、と言っている」佐藤部長は仰天した。松本を呼びに行ったが、松本は決裂になることを恐れ、然るべくやって欲しい、と佐藤部長に伝えた。

 民政側は、日本案が抜いたイガ、剥いだ皮を出来るだけ元に戻すのが狙いで、佐藤部長と逐条交渉を開始した。民政局側は、佐藤部長の意見にも耳を傾ける様子を示したが、譲れないものは絶対だといって、はねつける姿勢を示した。そのうち、日本案と草案は相違しすぎているとして、草案に戻って作業することを提議、部長は反対した。結局草案を活かすことを趣意にする討議が行われた。佐藤部長は奮闘した。松本国務相が削った土地国有規定を、民政側に同意させた。日本を社会主義国にしたいのか、と佐藤部長がつめ寄ると、削除を承知させた。また草案には「残酷若しくは異常なる刑罰」を科さないという規定があったが、残酷でなく異常な刑罰とは何か、と部長が質問すると、民政局側は黙り込み、削ることに賛成した。民政局側の総動員態勢もあって、作業は急ピッチで進んだ。佐藤部長は日本に相応しくない部分、法律的に不適当な箇所を発見しては、異議を唱え、修正・削除・配列の順序の変更などを要求、翌日午後四時頃作業は終了した。とたんに、ホイットニー局長がニコニコして入室してきた。局長は佐藤部長、白州次長ら日本側の一人一人に握手を求め、最大級の賛辞でその労をねぎらった。

 首相官邸では午前10時閣議が開かれ、佐藤部長が届ける作業成果について、論議が重ねられた。骨抜きにしたはずの日本案が、どんどん修正され草案に近づいていく。午後4時半ごろ、白州次長から作業終了の報告があがり、確定案の成立が祝福されていると、次長が述べた。松本国務相はこのままでは重大な事態になる、といい、首相の即時の総司令官との引き延ばし交渉を提言した。だが、閣僚たちが沈黙する中で、首相の非声がひびいた。「もう一日でも延びたら、大変なことになります。ほんとうに大変なことになりますよ」 首相の両眼に涙が盛り上がり、頬を流れ落ちた、児島襄はその著「講和条約」で記述する。この時期に、佐藤部長が帰還し、作業経緯の概要を報告すると共に、総司令部が「確定案」の速やかな公表を希望している、と伝えた。

 午後5時35分、幣原首相と松本国務相は、宮中に参内した。松本国務相は出来るだけ事務的に内奏をおこなった。しかし敗北報告であるとの自責の念は消えず、時に胸が詰まって声がつかえ、説明が終わって敬礼した国務相の頭は、しばらく上がらなかった。次いで幣原首相が、閣議決定による勅語の下賜を要請した。今示される聖慮が、敗戦時のものと同じ苦渋に満ちたものであろうことも推察できた。予想通りの天皇の言葉が聞えた。「仕方がなければ、それよりほかないだろう」 大日本帝国憲法の改正手続きのうち、天皇の裁可が得られた。

 幣原首相と松本国務相は、首相官邸に戻り、閣議を継続した。閣議で改めて「米国製憲法」を日本の憲法にする当否、対応策の有無、条文の再修正などについて論議が続いた。だが、今となってはすべて愚痴に似た空論で、論議は尻つぼみになった。民政局から確定案をこの日のうちに発表してほしい、との意向が伝えられたが、幣原首相は、字句の整理、勅語の用意などの都合で翌日に延ばす旨を返事し、民政局側も承知した。

 3月6日、10時、民政局ハッシー統治課長が首相官邸を訪ね、閣議に出席中の楢橋内閣書記官長を呼び出し、英文「確定案」が日本政府案の「正式英訳」である旨の確認書に署名を求め、書記官長がサインすると、ハッシー中佐はこれからワシントンに行くといって、立ち去った。午後四時「要綱」の審議が終了し、一時間後、政府は発表した。民政局には歓声がひびき、連絡役の白州次長はその声を聞きつつ、日誌に既述した。「斯くの如くして、この敗戦最露出の憲法案は生る。『今に見て居ろ』という気持抑え切れず。密かに涙す」

 

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