クーデタ計画(宮城事件)と阿南惟幾

2019年08月30日 | 歴史を尋ねる
 8月14日の夜、畑中健二少佐(軍務局課員)と椎崎二郎中佐(軍務局課員)の主導する反乱軍が皇居を占拠、東部軍(12方面軍司令部兼東部軍管区司令部)を動員して、阿南惟幾陸軍大臣を首班とする軍事独裁政権の樹立をめざして行動を起した。クーデタが成功するためには陸軍の支持が必要であり、そのためには阿南陸軍大臣と梅津参謀総長の承認が絶対条件であった。さらにクーデタを実行するには東部軍司令官の田中静壱大将、近衛師団長の森赳中将の支持が必要であった。反乱首謀者たちはクーデタの指導者である荒尾興功大佐(軍務局軍事課長)を伴って参謀総長の梅津を訪れ、クーデタの計画について意見を聞いた。いつもは優柔不断で、腹の中では何を考えているか分からないという評判のあった梅津は、この時は断固としてクーデタに反対した。梅津の反対はクーデタの失敗を意味した。さらに梅津は、陸軍上層部を「承詔必謹」のもとにすばやくまとめて、阿南からクーデタを支持する組織的な基盤を奪い取ることに成功した。

 阿南のクーデタに対する態度は曖昧だった。阿南は東部軍の田中司令官を招き、クーデタが始まったら東部軍はこれを支持するかと尋ねた。田中に同伴した東部軍参謀長の高嶋竜彦少将は「それには貴官によって著名された合法的な文書が必要である」と答えた。田中は首都の治安を維持する任務のみに言及し、クーデタについては沈黙を保った。高嶋は阿南の支持があればこれを支持する意思をほのめかし、阿南の態度如何で東部軍を巻き込んだクーデタが拡がる可能性もあった。
 この間、竹下正彦軍務課内政班長は「兵力使用第二案」を起案した。これによると、近衛師団を動員して宮城を占拠、外部との交通、通信を遮断する。東部軍を動員して要所に兵力を配置し、要人を保護し、放送局を押さえる、たとえ聖断が下るも、右態勢を堅持して、謹みて、聖慮の変更を待ち奉る、と。しかし、この計画の実現のためには、大臣、総長、軍司令官、近衛師団長の意見の一致を前提としていた。首謀者は躍起になっていたが、その首尾は拙劣だった。御前会議が午後に開催されると信じていたが、和平派は先手を打って御前会議を十時半に開いた。天皇が第二の聖断を下した時、大勢はすでに決していた。首相官邸で阿南を待ち構えていた竹下は、御前会議の結果を聞いて愕然とした。阿南が陸軍省に帰ると、大臣室に青年将校二十人余りが殺到した。井田正孝中佐は大臣の決心変更の理由をお伺いしたいと詰め寄ると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちは良く判る。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてはもはやこれ以上反対を申上げることは出来ない」と説明した。さらに阿南は言った。「聖断は下ったのである。今はそれに従うばかりである。不服者は自分の屍を越えて行け」。畑中少佐が泣き伏した。井田と竹下はこれで計画は終わりになったとあきらめた。

 阿南は首相官邸での閣議に赴いた。天皇が終戦の詔書を録音機に吹き込み、これを国民に放送することがこの閣議で決まった。これまで天皇は現人神であり、国民にその肉声を聞かせることはタブーであったが、国民に終戦を納得させるためには、このタブーを棄てなければならなかった。日本放送協会の録音班は、皇居に三時に出頭せよという命令を受け取った。梅津はすばやく陸軍の上層部を「承詔必謹」でまとめることに成功した。河辺参謀次長は若松陸軍次官を誘い、陸軍首脳が「皇軍は飽くまでご聖断に従い行動す」ることを誓った誓約書を取り付けた。これには陸軍大臣、参謀総長、教育総監、第一総軍司令官、第二総軍司令官、航空総軍司令官が署名した。この誓約書の最大の目的は阿南からの署名を取り付けて、クーデタが陸軍大臣の支持を得ることを阻止することにあった。この方針で陸軍首脳部が一致したからには、その後クーデタを試みるものは天皇に弓を射る逆賊として取り扱われることになった、と長谷川毅氏は解説する。ふーむ、これまで最高戦争指導会議、閣議で多数決でことを進めず、焼夷弾が降り注ぐ空襲下にあって、全員一致を目指す進行方法に違和感を覚えていたが、犠牲を払ってもここまで念を入れて全会一致を求めた慎重さが少し理解できた。長谷川は言う。米内がバーンズ回答を受け入れて終戦する理由を国内事情に求めた、と。「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦はある意味では天祐だ。国内情勢で戦いを止めるということを出さなくても済む。私はかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である」。米内のこの言葉は、もう一つ分かりずらいが、過激分子が跋扈して国を誤らせることをさしているのだろう。そのために阿南らを取り込むことが重要であった、ということか。
 午後二時半、梅津は参謀本部将校全員に対して大御心の伝達を行い、これを遵守する告示を行った。阿南は閣議から帰ると陸軍省課員を集めて、聖断を履行する命令を下した。大臣の訓令ののち、吉積軍務局長が御前会議での天皇の言葉を告げ、若松次官が上層部全員の署名になる誓約書を読み上げ、大臣の訓示を厳守すべき旨を述べた。陸軍は速やかに天皇の聖断のもとに終戦に向けて結束を固めた。陸軍省と参謀本部は文書を焼却しはじめた。日本帝国陸軍がガラガラと音を立てて崩壊しつつあった。

 しかし、陸軍省の将校全員が阿南の召集に応じた訳ではなかった。畑中少佐と椎崎中佐は陸軍省の会議室には姿を現さなかった。二人はすでに近衛師団の参謀である石原貞吉、古賀秀正少佐を陰謀に加えることに成功していた。阿南が陸軍省で訓示を与えている頃、畑中は東部軍の司令官田中大将を訪れ、クーデタへの参加を依頼、田中大将はただちに一喝、下がれと命じた。位が違い過ぎた。クーデタはここでも失敗した。
 閣議は四時に再開した。天皇の聖断が枢密院の承認を必要とするか否か長い議論に入り、法制局に問い合わせ、法制局長が承認を必要としないとの結論をもってきて、議事再開。詔書の草案を審議し、天皇の承認を得た後、閣僚の署名を得て正式の文書になった。全員の署名が終わったのは午後十時。
 同じころ、クーデタの首謀者は近衛第二連隊の芳賀大佐を反乱に参加させることに成功した。そのために全陸軍が今では反乱を支持していると告げた。皇居を護衛すべき軍隊が、皇居を占拠する反乱部隊と化した。

 午後十一時十五分、天皇は玉音放送収録のため宮内省の政務室で収録、建物の窓には鎧戸が閉められ内部の光が漏れないようしてあった。録音盤は袋に入れられ、皇后宮事務所の整理戸棚の中にある書類入れ用の金庫に納められた。しかも書類の束の奥であった。後に反乱軍が宮内省をしらみつぶしに探しまわったり、放送局が反乱軍に占拠されることになったことを思えば、この機転は幸運であった。
 天皇の終戦放送を録音している時、クーデタの首謀者たちは、森師団長のクーデタ参加を要請するため、近衛師団の参謀室に集まった。長い議論のすえ、森は射殺され、反乱が始まった。近衛師団長の名前で畑中は近衛師団の七連隊に、天皇を保護し、宮城を占拠し、宮城の出入りを遮断するよう命じた。宮城内では反乱軍がすばやく畑中の命令を実行した。
 15日午前1時30分頃、竹下は大臣に反乱軍を支持してくれるよう依頼するため、阿南を官邸に訪ねた。阿南は静かに酒を飲んでいた。阿南は竹下を招き、今夜切腹するつもりであると言った。竹下はこれを止めないと約束した。阿南は義弟に遺書と辞世の歌を示した。
 「大君の深き恵みに浴びし身は言い遺すべき片言もなし」
 遺書には「一死以て大罪を謝し奉る」とされ、陸軍大臣阿南惟幾と署名されていた。
 阿南が息を引き取った時、帝国陸軍が死に絶えた。
 東部軍の田中司令官は4時に近衛師団参謀本部に乗り込み、秩序を回復することに成功した。畑中は宮城を追放されたあと近衛軍の一部を使って放送局に乗り込み、全国に向けて反乱軍の声明を発表しようとしたが、放送局員の抵抗にあい、これを諦めざるを得なかった。東部軍の田中司令官が反乱軍を鎮圧してから御文庫に赴き、宮城占拠事件の顛末を天皇に報告した。

 8月15日の7時21分、日本放送協会のアナウンサーは、天皇が12時に直接国民に対して声明を読み上げると伝えた。これ以後このメッセージが繰り返し放送された。正午に日本中の国民と外地の日本人と軍隊はラジオの前に集まった。
 「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」
 玉音放送を聴かなかった男が二人いた。放送が始まる前に畑中と椎崎は二重橋と坂下門の芝生に座って自決した。
 この日の午後三時二十分、鈴木内閣は総辞職した。その前に内閣は内閣告諭を発表した。「科学史上未曾有の破壊力を有する新爆弾の用いらるるに至りて戦争の仕法を一変せしめ、ついでソ連邦は去る九日帝国に宣戦布告し帝国は正に未曾有の難に逢着したり」と述べた。
 さらに御前会議で天皇が提案した陸海軍将兵向け特別勅語を用意し、17日発表された。「今は新たに蘇国の参戦を見るに至り内外諸般の情勢上今後に於ける戦争の継続は徒に禍害を累加し遂に帝国存立の根基を失うの虞なきにしもあらざるを察し・・・我国体護持の為朕は爰に米英蘇並びに重慶と和を講ぜんとす」と述べて、軍人が天皇の終戦の決断を遵守することを訴えた。

 ワシントン時間8月14日午後三時、バーンズは東京からベルンに出された日本政府のポツダム宣言受諾の電報の暗号解読を受け取ったと大統領に報告した。四時五分、日本政府の正式の回答が到着すると、バーンズはただちにベヴァン、ハリマン、ハーレイに連絡して、四か国の首都で日本降伏に関する声明を発表することを提案した。午後七時、トルーマンはホワイトハウスの記者会見室で、日本政府がポツダム宣言の無条件降伏を受け入れたこと、太平洋戦争がこれを以て終了したことを告げる声明を読み上げた。
 しかし、戦争はいまだに終わらなかった。天皇のポツダム宣言受諾は、スターリンが日本に対して新しい攻撃を開始するきっかけとなった、長谷川毅氏はこう結ぶ。