原爆とソ連の参戦

2019年08月06日 | 歴史を尋ねる
 再び、長谷川毅氏の「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」に戻った。氏は日本の終戦にいたる政治過程を国際的な文脈から分析した学術的研究を目指して、本著作が出来た。前回までは、ポツダム宣言発表後の日本の政治過程を辿ったときに、最高戦争指導会議での豊田副武軍令部総長の言動に違和感を感じ、そのために大戦における海軍の行動を追いかけて来た。今回は、長谷川氏のいう国際的文脈から原爆投下に至る過程とソ連参戦を整理して置きたい。
 
 スターリンはトルーマンがソ連を出し抜いて日本の降伏を勝ち取ろうと企てていると確信した。スターリンはポツダムで、八月半ばまでに日本に対する戦争に参加するとトルーマンに語ったが、トルーマンがポツダム宣言の作成と発表に際して、完全にスターリンを締め出したことで、スターリンは戦争開始の時刻表を変更した。モスクワに帰国した8月5日、スターリンはソ連指導部高官たちとの会議をこなし、日本との戦争、アメリカの原爆使用の可能性について討議した。ソ連はまっしぐらに対日戦争へと進んでいった。
 7月31日、原爆「リトルボーイ」は実戦に使用する準備が出来た。しかし日本を台風が襲ったので、投下は延期された。七機のB29がこの任務につくことになった。原爆を搭載する一機、気象観測機三機、護衛機二機、原爆の投下とその結果を観察する任務を帯びた科学専門のジャーナリストとカメラマンを載せた飛行機一機。与えられた特別任務とは、広島、小倉、長崎のうちのどれか一つの都市に原爆を投下することだった。8月5日の天候は良好に向かうと予報され、6日テニアン時間午前2時45分、エノラ・ゲイは離陸、午前8時15分、リトル・ボーイは広島に投下された。その威力は12,500トンのTNTの爆発を同等の威力で、爆発点の温度は華氏5,400度、爆心地から半マイル以内に大きな火の玉が発生、この範囲内にいた人々の内臓を蒸発させ、小さな丸焦げの塊になった。爆発の後に発生した爆風は火災を引き起こし、市内全7万6千戸の家屋のうち、7万戸が全焼した。35万人の広島の人口のうち、11万の市民と2万の軍人が即死、1945年末までに14万人が死亡した。

 ワシントンでは大統領声明が発表された。「アメリカの爆撃機が広島に一発の爆弾を投下し、広島が待つ対敵効果を破壊した。この爆弾はTNT2万トン以上の威力がある」この爆弾は日本が真珠湾攻撃によって戦争開始した行為に対する報復である、原爆はさらに製造されており、より強力な爆弾が作られている。「7月26日の最後通告が出されたのは日本の人々を完全なる破壊から救うためであった。しかし、彼らの指導者は直ちにこの最後通牒を拒否した。もし彼らが我々の条件を受け入れないならば、いまだかってこの地球では見られなかったような空からの破壊の雨を予期しなければならない。この空からの攻撃につづいて海と陸からの攻撃がなされるであろう。そしてその数と力は彼らがこれまでに知っている戦闘技術を遥かに上回るこれまで見たことのないものであろう」と。トルーマンは広島への原爆投下の報に歓喜した。それは、日本人を殺戮することに喜びを見出したからではない。むしろ、トルーマンとバーンズが立案した「時刻表」通りに物事が進んでいったことに喜んだ。この後のなすべきことは日本降伏の報を待つことだけだった。

 日本では、最後の本土決戦を準備していた継戦派と、一刻も早く戦争を終結させなければならないと判断した和平派とが熾烈な競争を演じていた。8月7日の午前、鈴木首相は閣議を開いた。この閣議で、東郷は放送で伝えられたトルーマン声明を紹介し、これが原爆であることを報告した。阿南はこれに疑問を提起、現地に調査団を派遣して事実を確かめるべきと主張、結局この意見が通り、閣議がポツダム宣言受諾の方向に一歩を踏み出すことはなかった。
 8月6日夕5時、すでに原爆は投下されたがまだその情報を受け取っていない東郷外相は佐藤駐露大使に、スターリン、モロトフが帰国したと聞いているので、至急モロトフと会見せよと訓令した。続いて原爆投下の形成を踏まえ、7日の電報は同じ訓令を繰り返した。トルーマンの声明の内容を知っていながらも、東郷は依然としてソ連の仲介によって戦争の終結を成し遂げようとした。ふーむ、東郷もこの緊急時に、意固地になっている。理解が出来ない。佐藤は7日午後7時、東郷に返電を打った。モロトフが明8日午後5時に会見する、と。東郷が天皇に拝謁して原爆に関するトルーマン声明を詳細に上奏し、これを転機に戦争終結に決することを述べ、天皇の言葉を東郷は「陛下はその通りである。この種武器が使用せらるる以上戦争継続は不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくないと思う。また条件を相談しても纏まらないのではないかと思うから成るべく早く戦争の終結を見るよう取り運ぶことを希望すると述べられて総理にもその旨を伝えよとの御沙汰であった」と記している。ふーむ、しかし、そのあとの政府内の動向を調べても、戦争終結に政策の舵を切ったという事実はあまりないようである。広島への原爆投下は、日本の指導者に政策の変更を促すだけの効果がなかった。そうするには、広島の原爆よりも大きなショックが必要であった。豊田軍令部総長は戦後の文書で「まだその一発の原子爆弾で戦争継続をどうするかということを論議する程度には、状況が進んでいなかったのである」と述べている。むしろ、原爆投下はいっそうソ連の斡旋への期待に拍車をかけたのである、と長谷川毅氏。東郷の罪は極めて大きい。

 広島へ原爆投下のニュースを受け取ったスターリンはすぐに行動を起した。スターリンはワシレフスキーに攻撃開始の日時を48時間繰り上げて8月9日の零時に設定することを命じた。この命令を受けてバイカル方面軍、第一極東方面軍、第二極東方面軍、太平洋艦隊に宛てて4本の命令を発令した。それは全戦線で同時に攻撃を開始せよという命令だった。スターリンはさらに、この日午後十時に中国代表団との交渉を始めることを通告した。
 スターリン・宋子文交渉は、宋が大連を中国によって管理される自由港とすることを提案したが、スターリンはソ連が大連をコントロールする特別の権益を持つべきであると主張した。これに対し宋は、スターリンの要求は中国の主権を侵害することである、中国はすでに外蒙古、旅順、鉄道で譲歩した、従って今回譲歩するのはスターリンの番である。スターリンはこれに反駁して、将来の日本の脅威に対抗するためにこの譲歩が必要である、日本は降伏するだろうが、その後30年以内にはふたたび力を回復する、ソ連の港は鉄道と結びついていない、ゆえにソ連が大連と旅順をコントロールることが必要である、と言った。両者の意見はすれ違い、この日の交渉は合意に達しなかった。スターリンはイデオロギーではなく、地政学的利益によって行動していた。彼にとって対日参戦最大の目的はヤルタで約束された代償を獲得することであった。そしてスターリンはソ連が満州に進撃しても、アメリカと中国はこの行動をヤルタ違反であると抗議することはないであろうと最終的に判断した。ソ連が満州の奥深く攻め込んでも、アメリカも中国もこれを咎めれば、ソ連が中国における唯一の正統政府として国民党を支持する姿勢を買えるかもしれないことを恐れ、結局、ソ連の軍事行動を認めるであろうと正確に読み切っていた、と長谷川毅氏は解説する。

 佐藤大使は油橋重遠を伴って時間通り五時にモロトフの執務室に到着した。佐藤は特派大使派遣についてモロトフの回答について幻想を抱いていなかった。しかしここで起こったことは冷徹な外交官であった佐藤も、まったく想像もしないことであった。部屋に案内され佐藤が挨拶をしようとすると、モロトフはこれを遮り、声明を読み上げるので座って欲しいと合図した。この声明は、日本がポツダム宣言を拒否したので、「そのため日本政府が極東での戦争についてソ連政府に斡旋を依頼していたことのすべてが根拠を失った」と述べた。また声明は「連合国はソ連政府に対して、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかな平和の確立に貢献するために日本の侵略に対する戦争に参加することを申し入れた」と述べ、連合国に対する義務を忠実に果たすためにソ連政府はポツダム宣言に参加したと説明した。ソ連政府は、ソ連の参戦こそが「平和の到来を早め、今後起こりうる犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、8月9日よりソ連と日本は戦争状態にあるものと見做す」と宣言した。宣戦布告を読み上げてから、モロトフはテキストのコピーを佐藤に手渡した。佐藤は宣戦布告の事実とモロトフとかわした会話の内容を本国政府に暗号電報で伝える許可を求めた。モロトフはこれを承諾した。しかし佐藤の打った電報は日本に到着しなかった。というより、ソ連政府はソ連の奇襲攻撃が抜かりなく遂行できるよう、すべての電報を差し止めた。
 連合国のソ連政府に対するポツダム宣言への参加要請を参戦の理由としてあげているが、これは真っ赤なウソである、と長谷川氏。日本に対するソ連の宣戦布告は、同時にアメリカに対する挑戦であった。これは、いざ戦争が始まれば、連合国はこの大きいウソを暴くことはないであろうと予想したスターリンの掛けであった、と長谷川氏。日本大使館に帰る車の中で佐藤大使は油橋につぶやいた。「来るべきものがついにやってきたね」