貨幣の散歩道

2012年06月11日 | 歴史を尋ねる

 明治4年の新貨条例は金銀貨による幣制の統一を目標としていたが、貨幣素材不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造高は計画を大幅に下回った。その代わり政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣が大量に発行された。一方で藩札や古金銀貨の整理回収なども計られ、明治9年後のまでインフレが発生することもなかった。ところが、明治10年の西南戦争は、事態を一変させた。政府は戦費調達のため紙幣・国立銀行券を増発した。その結果大インフレが発生し東京では米価が4年で倍増し、一方で貿易赤字が増大し正貨準備の減少を招いて、為替相場の下落でさらに物価を高騰させるというインフレスパイラルに陥り、社会不安が増大した。財政運営を担当していた大隈大蔵卿は、生産基盤の充実を通じて通貨の安定を図るべきとの立場で、紙幣収縮提案を退けた。そして外債発行で調達した正貨を元に紙幣交換を提案したが一蹴され、明治14年10月に失脚した。新たに大蔵卿に就任した松方正義は、インフレ収束を狙いとして、増税、歳出削減という緊縮財政措置を果断に実施し、余剰紙幣の回収を図った。その結果、インフレは鎮静化したが、こんどは深刻なデフレに見舞われることとなった。この紙幣整理の過程で、明治15年10月ヨーロッパ先進国の中央銀行制度に倣って日本銀行が設立されたと、日本銀行金融研究所貨幣博物館「貨幣の散歩道」で概説している。この設立の狙いは、紙幣の濫発を防止すると共に通貨価値の安定を図るためには、紙幣の発行権限を政府から独立させるとともに、兌換銀行券の一元的な発行制度を整備することが重要だという認識であったそうだ。日本銀行の創設は貨幣制度の統一、兌換制度の確立を図る上での制度的基礎を形成し、その後の日本経済の近代化を金融取引面から支えることになったと、高らかに謳っている。この創設の散歩道はいかなる道であったか、もう少し掘り下げてみたい。

 この散歩道はどうしても渋沢栄一、大隈重信、松方正義と辿りたい。大分道草を食うこととなるが、もう一度さかのぼって、当時の雰囲気を確かめておきたい。尊王攘夷の志士であった渋沢栄一は幕末徳川昭武の随員としてフランスに滞在し、徳川幕府が瓦解して帰国した後、蟄居恭順の意を表して静岡に引きこもった敗軍の将徳川慶喜の下で商法会所を立ち上げ、静岡藩の財政を立直しつつあったとき、明治政府への仕官の話が舞い込んだ。断固断るべく上京して大隈重信邸を訪問した時の有名な問答が残されている。大蔵大輔大隈は渋沢の断りの話を聞いておもむろに「今日の状態を例えて云えば、神代の時代に八百万の神々が集まって相談しているのと同じで、衆知を集めて新しい政治を行なおうとする時である。君はフランスにも洋行し、財政上の知識にも長じているから、政府に加わって創成の建直しに尽力して貰わねばならぬ。小さな藩に尽くすよりも、この方が国家の為どんなに意義あるか知れぬではないか。静岡藩から役に立つ人間が中央政府に入ったとなれば慶喜公も肩身が広い訳だし、慶喜公としても君を政府に推挙する事は誠意を披瀝することにもなるから、取りも直さず慶喜公に対しても忠義の道を果すことが出来る」「君は実業を以って身を立て、殖産興業の為に一身を捧げるということであるが、その根本が定まらなければ、到底殖産興業の成果を期す事が出来ない。今は創業の時代であって、先ず第一に理財なり、法律なり、軍備なり其の他教育、工業、商業とか、拓殖等の制を定める必要があり、大蔵省の仕事について云えば、貨幣制度、租税の改正、公債の方法、合本法の制定、駅逓の事、度量衡の制度を初めとして、是非とも確立しなければならぬ諸制度が頗る多い。これ等の根本が確立しなければ、到底実業の発達を期することは出来ない。従って先ず政府に入って、これ等を確立することが、君の主張する実業の進歩を計る上からもむしろ急務ではないか。」 これに対して渋沢は「本当に諸制の改正を計ろうとするには、先ず第一に省内に改正事務を専務とする局を設けて、有為の人材を集め、調査研究せしめて、これを実施するという事にしなければならぬと考えられます。」 大隈「幸い君の意見もある事だから、速やかにこれを設ける様に取り計らうこととしよう。」