明治14年政変と三菱批判

2012年06月03日 | 歴史を尋ねる

 初期三菱の経営多角化は、公業としての郵便汽船三菱会社やそのための兼業禁止規定と事業実態とのズレが目立つようになって、この組織をどう動かしていくかの問題が生じてきた。明治10年代前半、岩崎弥太郎の最後の8年間は、この問題への対処が課題となった。そしてその最大のものは会計方式の整備と兼業事業の分離独立などの組織改革であった。そしてそれは、財閥が持株会社を頂点とする子会社を統括する、階層的な本社・子会社関係の原型、萌芽と呼ぶことが出来るものであったと、武田晴人氏はいう。具体的には大きな資産となっている船舶について減価償却の導入、諸投資先の部門別の経営状態の把握、奥帳場の成立。さらに弥太郎の経営のあり方を特徴付けたのは人材の登用であった。福沢との関係では慶応義塾出身者、また東京帝国大学から技術者や実務者らの登用、さらに特徴的だったのは外国人の多さであったという。これは船員を中心とした熟練技術者並びに海上保険契約などで外国人船長・機関長が必要とされた。

 こうして岩崎弥太郎の事業は拡大を続けたが、明治14年の政変を期に足元が揺さぶられることとなった。批判の最初は明治11年「三菱会社岩崎兄弟の経営法に関する非難」であったが、背景は政府が外国と競争させるために三菱一社に保護政策の力を注いだことでもあった。そういう事業経営のあり方そのものに対する批判が、政治抗争と結びついてしまった。明治14年、民権運動が高まるなかで、政府内部では大隈重信のイギリス型立憲君主制構想と伊藤博文など薩長派のプロシア型君主制的政体構想とが対立していた。大久保利通暗殺後の政府は、大久保の下で実務を担当していた大隈重信に委ねざるを得なかった。薩長閥からすると、肥前藩出身の大隈が政権を握っているのは面白くない。その最中に、薩長派に属していた北海道開拓使長官黒田清隆が彼の息のかかった政商五代友厚らに北海道の財産を安く払い下げようとした。この情報が漏れて自由民権運動の人々が徹底的に政府を追及し始めた。諸説紛々だが、在野の勢力を利用して政権内部で主導権を確立させようとしたと大隈が疑われ、薩長派がクーデターを敢行、御前会議が開かれ大隈重信が罷免された。大隈はこれまで一貫して三菱の海運業を保護する立場に立って政策を推進してきたと考えられていた。黒田らが「大隈を排撃するのは、まず三菱をきるべし。具体的な措置として三菱にあたえられた保護命令を撤回すべきである」と主張した。こうして伝聞情報では、岩崎弥太郎は大隈や反政府運動家の資金源であり、開拓使官有物払下を妨害していると警視庁内偵書でも書かれたという。

明治15年明治政府は三菱に対し第三命令書を交付して改善を求めることになった。①商品売買の兼業禁止、②払下代金の皆済まで船舶の所有権に制限、③2万2000トン以上の海運隊を維持、④大修繕の準備金として公債を政府に預ける、⑤経営監督の強化などであった。さらに政府は三菱に対抗して共同運輸を設立。三菱攻撃の急先鋒であった品川弥二郎は、「国家的事業を個人に任せておくから悪い。海上権を三菱から奪わねばならぬ」と、井上馨らを動かして共同運輸設立にこぎつけたという。設立発起人は当時の有力企業家の出資・協力を糾合した。時はデフレ政策のため荷動きが減少気味のところ、両社は厳しい価格競争を強いられ、両社とも赤字を計上する事態に至った。明治18年両社が死闘を繰り返している時に岩崎弥太郎はこの世を去った。さらに弔い合戦の様相を帯び、競争状態の先行きを心配して、打開策を模索する動きもでてきた。政府に対して不屈の抵抗を続けようとした弥太郎とは違って、弟の弥之助は政府との協議にも応じ、共同運輸との話し合いも柔軟な対応を示し始めた。共同運輸の社長交代を期に両社が話し合い合同交渉を開始、明治18年9月日本郵船株式会社の設立が許可された。