蒋介石の分身宋美齢と毛沢東の謀略

2018年08月25日 | 歴史を尋ねる
 また時代は遡るが、蒋介石はどんな動きをしていたのか、長谷川氏の著書では余り触れられていないので、ちょっと整理して置きたい。例によって、蒋介石秘録から。
 真珠湾攻撃以降日本軍は破竹の進撃を続け、1月マニラ占領、ボルネオ、セレベス上陸、グァム、ウェーキ、ラバウル占領。2月シンガポール陥落、スマトラ、バリ島、チモール島侵略、3月ジャワ、ニューギニア、ブーゲンビル島、5月ガダルカナル、6月アリューシャンのキスカ、アッツに上陸。この間日本の海軍機動部隊はインド洋に進出、セイロンのコロンボ、トリンコマリーを空襲、英空母、巡洋艦を撃沈。日本の侵略を免れたのはオーストラリア、ニュージーランドのみで、オーストラリアのダーウィンも爆撃にされされた。しかし米空母から飛び立ったB25爆撃機16機による日本本土初空襲に狼狽した日本軍部は、大陸における浙贛打通作戦と太平洋のミッドウェー作戦を発動した。打通作戦は日本を空襲した米軍機の受け皿となった飛行場をつぶすことであり、ミッドウェー海戦は米海軍機動部隊の重要な前哨基地であった。このミッドウェー作戦(6月5日)に日本海軍は総力を集中したが、却って大敗し、以後の日本の敗勢を決定的にする転換点であった。
 日本の敗勢と反比例するように四強国の一つとしての中国の国際的な地位は高まった。その最大のものは、列国との不平等条約の撤廃であった。しかし英国が租借地などの放棄を渋り、米英と新条約が調印されたのは1943年1月であった。一方太平洋地域では、年が明けると日本軍はますます劣勢となった。ガダルカナルでは2万5千人の戦死者、餓死者を残して撤退、そのあと、連合軍の反攻によってソロモン方面及びニューギニア東部に日本軍は、補給を絶たれ、生死をさまよう状態に陥った。4月山本五十六司令長官機が撃墜され、5月アリューシャン列島、アッツ島の日本軍守備隊が玉砕した。連合軍は太平洋一帯で制海、制空権を回復、日本軍が占領した島々を次々と奪い返し、日本に対する包囲網を縮めていった。

 蒋介石の妻・宋美齢が米国に旅立ったのは1942年11月であった。米国の大統領ルーズベルトは9月と10月、米国への招請状を送った。時局柄、蒋介石・ルーズベルト会談の設定は難しいため、宋美齢との間で米中関係について直接意見を交わしたかった。1943年2月、宋美齢は招請に応じて、ルーズベルト夫人と共に米国議会を訪問、上下院で演説を行った。宋美齢は、中国の4年半に及ぶ孤独な抗日戦争が、ミッドウェー、ガダルカナルの勝利として結実したことを強調し、連合国がヨーロッパ戦線偏重の考え方を改めるよう説き、最後に日本の武力を徹底的に破壊し、二度と作戦出来ないようにしてこそ、はじめて文明に対する日本の脅威を取り除くことができると結んだ。演説が終わると、議場内の議員、傍聴人は全員起立して、数分間に渡り、歓呼と拍手を送った。この情景は一部始終が、四つの主要な放送局の同時中継を通じて全米に伝えられ、新聞も草稿の全文を掲載、ニューヨークタイムズは中国のファーストレディーが無数の人々を感化し、その心を中国に傾けさせたことを証明していると論評した。
 ふーむ、この成功した宋美齢の演説を引き出したのは、ルーズベルトだった。ルーズベルトにしてみれば、アメリカの青年が中国のために血を流している。確かに真珠湾攻撃に依り米国が攻撃された。しかしその報復以上の攻撃を太平洋上で米国は繰り広げている。そして多くの米国人の人命を犠牲にしてきた。それでも尚戦争を継続する意義を議会をはじめアメリカ国民に理解をして貰わなければならない。その大義を訴え国民の支援を取り付ける、こうした効果を狙ったのではないか。アメリカ民主主義の機微を心得ていた、といえるだろう。
 宋美齢の演説は英国でも放送され、大きな感動を呼んだ。この結果、英国国王の命を受けて、駐米大使が訪英を打診、英国外相は議会で訪英を正式に表明した。宋美齢はワシントンを離れると、ニューヨーク、マジソン・スクエア・カーネギーホールで満員の聴衆を集めて演説し、さらにボストン、シカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコの各都市を遊説、ヨーロッパ戦線のみを重視しがちな米国民に、アジア、太平洋、とくに中国大陸に目を向けてほしいと訴えた。これらの演説は、すべて、ラジオで全国に放送された。滞米中、宋美齢はルーズベルトをはじめ閣僚と何回も会談し、中米協力、戦後の世界秩序、国際的防衛協力などについて意見を交わした。戦後処理問題については、ルーズベルトは、①琉球(沖縄)列島、東北(満州)、台湾は将来中国に返還されるべき。②香港問題については、主権は中国に属すべきであるが、自由港としてはどうか。③朝鮮の独立は中国と米国両国で保証する、などのプランを明らかにした。この方針は、のちに連合国の戦後処理案の骨格となった。
 宋美齢は米政府差し回しの飛行機で無事帰着した。その日ルーズベルトは蒋介石に一通の電報が届いた。「われわれが相まみえて話し合うことは、非常に重要。重慶とワシントンの中間のある地点で会談することを建議する。御返事を待つ。ルーズベルト」 そしてその年の11月、ルーズベルトは蒋介石・チャーチルと共に大戦後の基本方針を定めた歴史的なカイロ会談につながった。

 国民政府転覆を狙う中国共産党は、太平洋戦争を舞台に反乱工作を強化した、蒋介石は振り返る。共産党はあるときは日本軍と通じ、ソ連と手を結び、さらには米国の左傾主義者を籠絡した。彼らはお得意の虚偽の宣伝を繰り返して、もっぱら国民政府の内外の威信を傷つけることに専念した。その結果、友邦の米国政府でさえ、共産党に惑わされて対処を誤るという、決定的な失策を演じた、と。
 共産党は日本軍と共に四川、貴州の抗戦根拠地を挟撃しようとさえした。戦後、国民政府国防部の調査で、1943年8月、北支那方面軍司令官・岡村寧次は毛沢東との間に協定を結び、①八路軍と日本軍は共同で政府軍に打撃を与える。②日本軍は共産軍に対して小型の兵器工場10工場を贈る。③共産側は、政府軍の作戦計画を日本側に通報する。日本軍の侵略が、共産党にどのような利益をもたらしたかは、毛沢東が1964年7月、日本社会党の佐々木更三らに会見した時、佐々木が過去に於て日本軍国主義が中国を侵略し大きな損害をもたらした。心からお詫びしたいと言うと、毛沢東は、なにも謝罪することはない。日本の軍国主義は中国にたいへん大きい利益をもたらし、中国人民に政権を奪取させた。あなた方の皇軍がなかったらわれわれは政権を奪取することが出来なかった、と。1943年の蒋介石の日記には、『共匪が身勝手に振舞う目的は、内乱を引き起こし、抗戦局勢を破壊することにある。もしわれわれが共産軍に連戦連勝しても、彼らは場所を移すだけで、根本的には共産党を消滅させることは出来ない。国内に内戦が起き、それを根本的に解決できないとなれば、国家の威信は失われる。我々が兵を動かして掃共戦を行えば、彼らの目的は達せられる。正面切っての方法で解決をすることは控えなくてはならない』(1943年9月11日)

 1943年5月、各国共産党の総本山コミンテルンが解散された。中国をはじめ各国の共産党が、コミンテルンの指導ぼ下に反乱工作を行っていることに注目した米国は、ソ連への軍事的援助と引き換えに、スターリンに解散を迫った。コミンテルン解散は形式的にモスクワの指導を弱めた。しかし、中国共産党は「整風運動」を発動中で、コミンテルンでも手に負えない存在となりつつあった。整風運動とは1942年2月に始まった粛清事件であった。毛沢東が延安で「学風、党風、文風の整頓」と題する講演が、その皮切りで、最終的な狙いは、毛沢東一人の手に権力を集中すること、王明ら国際派を追い落とすことであった。毛沢東に不満を持つ党員たちに「外国特務」「国民党特務」「トロッキスト」など様々なレッテルを貼って粛清した。その数は数万人にのぼった。この事実はひた隠しにされたが、図らずも毛沢東の口から洩れ、世界に明らかにされた。1969年インドネシア共産党書記長に対して反対派の粛清を勧め、自分は陝北で、二万人の幹部を粛清したと豪語したという。
 毛沢東が整風学習で徹底をはかったのは、彼自身の思想の注入、彼自身の絶対化、神格化であった。その結果、共産党七全大会で、劉少奇の提案で党章を改正、毛沢東を天才的、創造的なマルクス主義者にまつりあげ、毛沢東思想を自己の全活動の指針とするとの一句を、党章に織り込むことに成功した。整風運動はその後、1954年、1957年に繰り返され、1965年の文化大革命も同じ整風、つまり権力闘争の一つであった。その都度、多くの反毛沢東派が失脚し、粛清された。
 共産党が大きな財源としたのは、アヘンの密売だった。国民政府は禁止していたが、共産党は各根拠地内に「アヘン税収管理暫定弁法」を施行、密売本部を作ってケシ栽培を奨励した。栽培地は奥地が選ばれ、ケシの植え付けから販売まで、共産党の直営であった。これらのアヘンは華北の日本軍占領地に運び込まれ、それによって得た金は共産党の歳入を支え、共産党の発行する紙幣を維持し、共産党が日本軍占領地域で物品を購入するために使われた。
 共産党が対外宣伝の謀略の対象に選んだのは米国だった。共産党の陰謀はすでに太平洋戦争開始前から着手された。その対象は、米国の太平洋学界(1925年成立)とその関係団体であった。のちに米国上院司法委員会の調査報告で、学会の本質は国際共産党の宣伝機関となった。そのメンバーには、たびたび重慶にも来たルーズベルトの補佐官キューリーや国務省から中国に派遣されていたビンセントやサービスら外交官が名を連ねていた。政治顧問として米国から派遣されたオーエン・ラティモアも会員だった。1941年はじめにはルーズベルトも知らず知らずのうちに彼らの宣伝の影響を受けていた。米国の大使が帰国の挨拶に来た時、共産党の実情を説明して、ルーズベルトへの忠告とした。「共産党は抗日戦以来、抗日の名を借りて、一方でその組織を発展させ、他方でわが政府の力をそぐと同時に、わが政府の抗戦が失敗するよう頻りに策している。共産党の目前の策略は、もっぱら中米間の感情を離間させることにある。中国共産党は、コミンテルンが中国の中に持つ第五列(スパイ)であり、完全な売国集団である」 しかし、このようなアドバイスは、結局は聞き届けられなかった。米国があらためて共産党の本質を思い知らされたのは、戦後になってからであった、と。

 当時、ホワイトハウスではキューリーが中国通をもって自認し、影響力を発揮できる立場にあった。政治顧問の推薦を蒋介石が依頼した時も、駐ソ米国大使ブリットを要望したが、キューリーはこれを退け、太平洋学界のラティモアを推薦した。共産党はまた中国に駐在しておる米国大使館員にも働きかけ、重慶の米国大使館は抗戦期間中、反国民政府外交官の牙城となった。のちに1944年、駐華大使になったハーレイは、共産党の手先になった11人の米人大使館員を、米国に送還した。
 中国戦区参謀長として、米国から派遣されたジョセフ・スチルウェルも共産党の宣伝に乗せられた一人であった。連合国内で大きな権限を持つ彼が、共産党の本質を見抜けなかったことは、戦後、大陸を共産党に奪われる下地を作ったといっても過言ではない、と蒋介石。スチルウェルと中国との結びつきは古い。彼は1911年辛亥革命の年に、中国に滞在、辛亥革命を目にして、中国に関心を持った。以来、駐華大使や天津駐在米軍に勤務し、中国語も堪能な中国通となった。共産党との接触は、ゾルゲ機関の一員アグネス・スメドレーや米陸軍少佐エバンス・カールソンらであった。スメドレーは朱徳に傾倒して、伝記「偉大なる道」を書いた女性で、カールソンは毛沢東の大陸占拠に手を貸した男であった。1943年6月の日記には、このように綴られていた。「スチルウェルのような愚劣で頑固で、卑しい男は、世界中でも珍しい。米国にこのような将校が居ようとは・・・。しかも彼の上司のマーシャルの目には、第一級の人材として映っているのだから驚きである」 ふーむ、蒋介石は一方でアメリカとも戦っていたのか。
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