京都手入れ

2009年10月11日 | 歴史を尋ねる

  引き続き、井上勲著「王政復古」より。ペリーの黒船来航以来、朝廷の政治化が始まった。文化的な伝統と威信の象徴から政治的な権威の保持者へと、期待される役割の変化があった。こうした朝廷に、天皇の権威を自己の側に動員しようと接近を図る。これを京都手入れとい云うらしい。

 幕末の朝廷は外廷と内廷の複合で、外廷は古代律令制に準拠した官の序列。朝廷の運営をする組織は内廷で、摂政・関白、議奏(定員5名)、武家伝奏(定員2名)の職にある者が朝廷の意思決定に参与する。だから毎日定刻に出仕して業務に当たる。摂政・関白は五摂家、議奏と武家伝奏は大納言・中納言・参議の官にある廷臣より任命される。重要事項が生じて摂政・関白が決定を下しえない場合、天皇は摂家の当主に諮問して答申を求めることがある。また、門流という制度もあった。五摂家がそれぞれ門流をなし、廷臣はこの門流のいずれかに属している。岩倉家の門流は一条、しかし氏は村上源氏であるから、久我家に期待することが多かったという。

 京都手入れは、安政五(1858)年の一橋派にはじまった。ここで一橋派は、島津・水戸徳川・山内家の姻戚関係をたよって、近衛・鷹司・三条を入説(事情説明)の対象とした。三職の廷臣にまでその対象を及ぼさなかったのは、中立的な存在として、あえて近づかなかった。中立的ということは幕府との協調を意味していた。例えば関白九条尚忠は朝廷の運営に当たる廷臣の当然の行為が、親幕派とみなされ南紀派とみなされた。しかし次第に、入説の対象が三職の廷臣におかれはじめる。一方で自己の意見に同調する廷臣を三職につけようとし、他方、反対の廷臣の追放を図るための工作が始まった。

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