A級戦犯起訴

2020年02月05日 | 歴史を尋ねる

 4月29日天長節(後の天皇誕生日)、戦争犯罪人処罰の準備が整い、極東国際軍事裁判の開幕を告げる、被告への起訴状伝達が行われた。A級戦犯被告は次の28人。軍人 陸軍:南次郎、荒木貞夫、松井石根、畑俊六、●小磯国昭、梅津美治郎、土肥原賢二、●東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎以上大将。大島浩、鈴木貞一、武藤章、佐藤賢了以上中将。橋本欣五郎大佐。 海軍:永野修身、嶋田繁太郎大将。岡敬純中将。 文官 閣僚:●平沼騏一郎、●広田弘毅、松岡洋右、東郷茂徳、重光葵、賀屋興宣、星野直樹。 内大臣:木戸幸一。大使:白鳥敏夫。 民間人:大川周明。(●は元首相) 式は簡単で、「極東国際軍事裁判所検察局は、この度貴下等をA級戦争犯罪人として同裁判所に起訴することに決定し、ここに命によって起訴状を各自に手交する。公判は5月3日より始まる」と。

 戦争犯罪とは何か。ナチス・ドイツ指導者を裁く「ニュルンベルク裁判」は、つぎの三つで構成されていた。①平和に対する罪(侵略戦争の開始)、②戦争犯罪(戦争放棄違反)、③人道に対する罪(非戦闘員・一般人の虐殺)。東京裁判もこの定義にならって、第一類 平和に対する罪、第二類 殺人及び殺人共同謀議の罪、第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪とし、起訴状は第一類について36訴因、第二類に16訴因、第三類は3訴因を数えて、各被告に適用した。起訴状は不戦条約が結ばれた昭和3年から敗戦までの17年8カ月間の政治・軍事責任を、痛烈に弾劾していた。28人は、その権力、公職及び個人的声望及び勢力を利用して、ドイツ、イタリアと手を結び、侵略戦争を共同謀議により計画し、準備し、遂行した。その共同謀議の中には捕虜の虐待、非人道的な強制労働、戦争法規の無視のほかに、非占領国民に対する大量虐殺、凌辱、劫掠、拷問その他の野蛮行為も包含した。つまり28人は、悪逆無道な指導者だ、というのであった。新聞で起訴状を読んだ国民は唖然とした。そんな戦争をしてきたのか。裁判は、被害国が検事と判事になって加害国日本の指導者を裁く。結果は容易に予測できた。起訴状は、しきりに共同謀議を主張するが、皆が一堂に会したことはなく、一面識もない者もいる。それなのに、どうして共同謀議ができるのか。

 フィリピンの山下奉文大将の裁判に参加した武藤章中将は、起訴状に何が書いてあろうと気落ちする必要はない、どんと反駁すればよい、それがアメリカの裁判だ、という。しかし山下大将は死刑になった。ただ、唯一のアメリカ裁判の体験者だ。中将の考えでは、太平洋戦争はABCDの対日経済封鎖が起因である。南方に対する小侵略はあったにせよ、日本は生きるために立ち上がったのであり、裁判でも主張ができる。弁護団も大いにやる気を固めた。主任弁護士清瀬一郎は記者会見で「今までの人類の歴史に、戦争をはじめたことを犯罪として裁判にかけたことはなかった。世の怨嗟憎悪の的になっている者にも、適当な弁護は必ず保証されねばならない」 東京裁判の任務は、太平洋戦争の原因を徹底的に究明し、その責任の所在と限度を明確にすることにある、と強調して、日本側には唱えるべき理がある。三つの大罪には七つの灯(「勇気の灯」、「正直の灯」、「熱心の灯」、「奇智の灯」、「雄弁の灯」、「判断の灯」、「友愛の灯」)を掲げて立ち向かう、裁判を単なる処罰の儀式に終らせはせぬ、と言うのであった。

 5月3日、東京裁判公判が始まった。法廷は市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂に設けられた。正面の演壇があった場所が連合国傍聴席、それに向かって左側が判事席、右側が被告席、手前に検事、弁護人席、場内を見下ろす二階が日本人傍聴席であった。傍聴席に座ったアイケルバーガー司令官は、「この裁判は、勝者が見せしめと懲らしめの為に敗者を罰するためのものだけではない。日本側が戦争の正当性を主張して論争を仕掛けてくるだろうが、それを撃破して日本人に戦意を失わせるためのものだ。占領の仕上げだ。あらゆる意味で歴史的機会である」と。十一人の裁判官もインド、フィリピン代表が未着で、判事席の背後に九か国国旗が並んでいた。二十八人の被告は、いずれも痩せていて疲れている感じだった。特に注目されたのは大川周明、松岡洋右だった。大川はパジャマをシャツ替わりに着こみ、松岡は肺結核に悩んでいるといわれたが、その衰弱はひどく、杖にすがって倒れ込むように着席していた。オーストラリア代表判事でもある裁判長ウェッブが開廷を宣言した。大川被告は入廷当初より奇態を発し、5月4日、裁判長は大川被告に精神鑑定の必要を認めて、退席を命じた。大川被告の発狂は偽装説が根強い。松川病院に転院する頃から急速に治療効果が発揮され、毎日違う外国語を話し、回教の聖典「コーラン」のアラビア語から日本語に全訳した。診断にあたった内村教授は、「大川についてのイメージは、実行力ある狂信的な国粋主義者といったところだったが、現実の大川は、その教祖的風貌と身構えは別として、深い教養と見識を備えた立派な学究であった」と。大川被告が健在であれば、東洋の論客として東京裁判でどのような論陣を張っただろうか、と児島襄氏は惜しむ。


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