二人の神父(ウォルシュ司教、ドラウト神父)の動きは微妙であったと児島襄はいう。さらに山本海軍少将、寺崎外務省亜米利加局長と会見した後、12月5日外相松岡洋右の私邸を訪ねた。神父らが驚いたのは流暢な英語のスピーチではなく、内容そのものだった。「支那事変は、日本にとって明白な間違いだった。大義に背き名分に欠ける戦争だった。支那民衆に対する不幸でもあり、なんとか終結させる方法を見出さねばならぬ」「わしは、アジアに平和を持たらすために、是非米国と平和条約を結びたいと思っている」 その平和条約では、日本は日独伊三国同盟からの脱退、支那大陸からの日本軍撤退と支那の領土保全を約束し、米国は通商協定の締結と石油その他の物資供給を保証することにしたい、と。ドラウト神父が松岡の言葉の切れ目に「閣下、支那の領土保全とおっしゃいましたが、満州も含まれますか」と質問。「ノー、われわれは満州を支那の一部と考えていない」 しかし別問題として満州国問題を討議することに異論はない、といった。二人の神父は帝国ホテルに帰ると、松岡講和を分析した。もし、日本軍が中国大陸から撤退して戦乱が収まるなら、その影響はアジア全域におよび、宗教活動も再び支障なく進めることが出来る。それは神父たちが沢田節蔵に説いた日米勢力範囲分割構想にも一致する。個人的見解にもせよ、日本の有力閣僚が似たようなアイディアを持っているのは好ましい。翌日ドラウト神父は「産業組合中央金庫」理事・井川忠雄と会った。井川理事は大蔵省出身だが、カトリック信者で洗礼名を持っていた。井川の知人であるニューヨークの商会重役から紹介状と会見申込みの手紙を携えていた。この日の会見の結果は、井川理事から首相近衛文麿に手紙で報告され、ドラウト神父は「日米国交調整とくに経済提携」について両国間の話合いを斡旋したい、と井川理事に話した。井川は、はじめは一介の神父がなぜそのような国家の大事に参画しようとするのか、不審の目をひからせたが、そのうちにすっかり興奮してしまった。「じつは昨日、松岡外相にもお目にかかったが、これは儀礼的な訪問に過ぎない。大事な話は、先ず貴下とするようにミスター・シュトラウス(商会重役)からも注意されておりました」 ドラウト神父はそう言い、井川理事がクーン・シープ商会と米国政府との間になにか諒解が出来ているのかと質問すると、神父はその点についてはあまりお訊ねくださるなと口ごもった風情を見せた、と。冷静に判断する限りでは、神父の密使性は疑わしい。だが、米国政府との関係について口ごもったのも意味深長と判断、神父が外相より貴下にと井川を最高の要人扱いしたこととか、クーン・レープ商会は、かつて日露戦争の時に日本の外債募集に努力をしてくれた有力な金融機関でもあった。更にシュトラウスはユダヤ系市民で、当時ナチスドイツがユダヤ人の世界制覇陰謀を宣伝していることもあって、表面に立つことを避け、神父を派遣したしたのだろうか。井川理事は神父が「ワシントンの密使」であることを確信すると共に、自分が日米外交の焦点に位置するかもしれぬ期待に感奮しながら、近衛首相に報告した。「・・・元より悪く解せば、日本の経済力をスパイせんとの底意あるやも知れぬが、・・・アメリカ財界を折半する一大勢力の対日動向を打診するの機を得れば、何らかのご参考にも相成るべしと存じ、敢えて一役買い出て候次第、暫し御静観の程願上げ候・・・」
12月10日、二人の神父は外務次官大橋忠一主催の夕食会に招かれた。寺崎局長、沢田節蔵、山本海軍少将も同席した。日本側がアジアの平和を念願しているなら、ぜひ日米平和交渉を開始すべきであるし、その為にはまずアメリカ国民に対して外相が声明を発表すべきだ、と強調。沢田は年が明けると議会で外相は外交方針演説を行うのでその時と発言すると、ドラウト神父はそれでは遅すぎる。新年まで待つのは、致命的な時間の浪費になる、是非ともクリスマス前に米国民にアピールすべき、と反駁。外交は国家の信頼を与えられた外交官の仕事、公式の信任状も、外交交渉の体験もない無責任な神父が、何を根拠に日米国交交渉などといって動き回るのか。大橋次官は、神父たちがいうのはいかにも単純な平和論だ、松岡外相の談話も米国側の一方的な見方だ、次官は気乗り薄だったが、寺崎局長が野村駐米大使の送別会で、松岡外相の演説が予定されている、その演説の中に米国民向けのアピールを含ませたらどうか、と。二人の神父は喜び、寺崎は外相にどんなことを言わせたいのか、要旨を書くよう要請。二人はこの要請を受けて覚書を作成、内容はアジアに極東モンロー主義を適用して、米国が日本の立場を認めることによってアジアをソ連の赤化政策から守るべきで、それは米国の利益に合致するはずだから、日米両国間に太平洋平和協定を結ぼうというものだった。さらに井川理事は宛ての書簡には、こういうアピールを平和精神が近づくクリスマス前に行い、次に来年の2月か3月頃日米会談を東京で開くのが望ましいと、今後のスケジュールも提案していた。「 身僧籍に在る人に相応しからぬ知識用語前文に溢れている点から推すと、右書面は相当の背景あるに非ずやと想像せられ候」と井川は近衛首相に送っている。
二人の神父は「クーン・レープ」商会から元首相若槻礼次郎あての紹介状ももらい、若槻に会った。若槻はあきれた。途方もない話で、私を愚弄するものとさえ感じた。「あの坊さんたちは、いったい何しに来たのかな」と。
沢田節蔵は何度も大橋次官を訪ねて、覚書の処遇を尋ねた。大橋次官は二人の神父がいきなり外相に演説草稿を押し付ける態度は非礼とも粗野とも感じ、外相に対する斡旋も形式的に留まり、外相自身も一読して机上に放り投げた、という。送別会のパーティーには駐日米国大使グルー夫妻、前駐米大使堀内謙介夫妻その他百数十人が集まり、松岡外相は野村大使は提督だから太平洋を乗り切って日米の橋渡しをするのは最適任者だといえば、野村大使は海になれてはいるが陸上は不得手と応じて和やかな雰囲気に包まれた。松岡外相は日米戦争は人類文化文明の壊滅を意味するから両国の友好が必要だと指摘し、これまでの政府の公式見解を主張、「経済的活動は全世界のわたるべきだが、政治的活動は、各国その死活的利害関係を有する地域に局限して、敢えて他国の領域の及ぼすべきではない。かかる地域的諒解によって地域的平和が確実に樹立されれば、その集約したものが世界平和となる」という一節が極東モンロー主義を強調した二人の神父の提案に沿った内容とも見られるが、神父たちが望んだクリスマス前のアピールは、実現できなかった。
神父たちは尚も沢田、寺崎、山本少将や井川理事と会談を続けた。再び松岡外相にも合い、グルー駐日大使にも挨拶し、堀内前駐米大使夫妻とも懇談した。その後井川理事が同行して陸軍省軍務局長武藤章少将を訪問し、近衛首相私邸を訪ねた後、同日28日、往路と同じく日本郵船「新田丸」で帰米の途についた。神父たちが訪問したこれらの人々のうち、近衛首相は会わず、松岡外相たちはいずれも儀礼に止まる応接をしただけであった。もし二人の神父が日米交渉開始の密命を受けていたとすれば、その使命は完全に失敗したと判定されるが、二人の神父はひどく晴れ晴れとした顔つきだった。理由は、その段階で逆に日本側から密命を受けた、考えていたからである、と児島襄。ウォルシュ司教によれば「ドラウト神父は日本側当局者がわれわれに平和提案に関するメッセージをワシントンに伝達するよう依頼してきた、と告げた。外相および首相双方からの依頼だという。われわれは躊躇した。そのようなメッセージは駐日米国大使館から通ずるのが自然だから。われわれは、松岡外相を含む当局者と再び会見したが、当局者hs、米国大使館に頼めば、ワシントンに届くまでに日本陸軍、あるいは第三国によって暗号が解読されて内容が漏れてしまう、と説明した」
ウォルシュ司教はドラウト神父が誰からワシントンへの橋渡しを頼まれたか記録していない。松岡外相はその事実はなく、近衛首相は会っていない。では、誰が二人の神父に頼んだか、ワシントン宛のメッセージは誰が書き、どのようなものか、二人の神父の滞在中の行動をたどる限り、その正体は掴みようがない。ただ二人の神父は、井川理事と連絡用の電文隠語まで打ち合わせて、日本の密使になったと固く信じて、太平洋を帰っていった。
児島襄がこの書籍を発行したのは、1978年。その後この件について新しいニュースに触れることもないので、特に情報公開もされていないということか。
12月10日、二人の神父は外務次官大橋忠一主催の夕食会に招かれた。寺崎局長、沢田節蔵、山本海軍少将も同席した。日本側がアジアの平和を念願しているなら、ぜひ日米平和交渉を開始すべきであるし、その為にはまずアメリカ国民に対して外相が声明を発表すべきだ、と強調。沢田は年が明けると議会で外相は外交方針演説を行うのでその時と発言すると、ドラウト神父はそれでは遅すぎる。新年まで待つのは、致命的な時間の浪費になる、是非ともクリスマス前に米国民にアピールすべき、と反駁。外交は国家の信頼を与えられた外交官の仕事、公式の信任状も、外交交渉の体験もない無責任な神父が、何を根拠に日米国交交渉などといって動き回るのか。大橋次官は、神父たちがいうのはいかにも単純な平和論だ、松岡外相の談話も米国側の一方的な見方だ、次官は気乗り薄だったが、寺崎局長が野村駐米大使の送別会で、松岡外相の演説が予定されている、その演説の中に米国民向けのアピールを含ませたらどうか、と。二人の神父は喜び、寺崎は外相にどんなことを言わせたいのか、要旨を書くよう要請。二人はこの要請を受けて覚書を作成、内容はアジアに極東モンロー主義を適用して、米国が日本の立場を認めることによってアジアをソ連の赤化政策から守るべきで、それは米国の利益に合致するはずだから、日米両国間に太平洋平和協定を結ぼうというものだった。さらに井川理事は宛ての書簡には、こういうアピールを平和精神が近づくクリスマス前に行い、次に来年の2月か3月頃日米会談を東京で開くのが望ましいと、今後のスケジュールも提案していた。「 身僧籍に在る人に相応しからぬ知識用語前文に溢れている点から推すと、右書面は相当の背景あるに非ずやと想像せられ候」と井川は近衛首相に送っている。
二人の神父は「クーン・レープ」商会から元首相若槻礼次郎あての紹介状ももらい、若槻に会った。若槻はあきれた。途方もない話で、私を愚弄するものとさえ感じた。「あの坊さんたちは、いったい何しに来たのかな」と。
沢田節蔵は何度も大橋次官を訪ねて、覚書の処遇を尋ねた。大橋次官は二人の神父がいきなり外相に演説草稿を押し付ける態度は非礼とも粗野とも感じ、外相に対する斡旋も形式的に留まり、外相自身も一読して机上に放り投げた、という。送別会のパーティーには駐日米国大使グルー夫妻、前駐米大使堀内謙介夫妻その他百数十人が集まり、松岡外相は野村大使は提督だから太平洋を乗り切って日米の橋渡しをするのは最適任者だといえば、野村大使は海になれてはいるが陸上は不得手と応じて和やかな雰囲気に包まれた。松岡外相は日米戦争は人類文化文明の壊滅を意味するから両国の友好が必要だと指摘し、これまでの政府の公式見解を主張、「経済的活動は全世界のわたるべきだが、政治的活動は、各国その死活的利害関係を有する地域に局限して、敢えて他国の領域の及ぼすべきではない。かかる地域的諒解によって地域的平和が確実に樹立されれば、その集約したものが世界平和となる」という一節が極東モンロー主義を強調した二人の神父の提案に沿った内容とも見られるが、神父たちが望んだクリスマス前のアピールは、実現できなかった。
神父たちは尚も沢田、寺崎、山本少将や井川理事と会談を続けた。再び松岡外相にも合い、グルー駐日大使にも挨拶し、堀内前駐米大使夫妻とも懇談した。その後井川理事が同行して陸軍省軍務局長武藤章少将を訪問し、近衛首相私邸を訪ねた後、同日28日、往路と同じく日本郵船「新田丸」で帰米の途についた。神父たちが訪問したこれらの人々のうち、近衛首相は会わず、松岡外相たちはいずれも儀礼に止まる応接をしただけであった。もし二人の神父が日米交渉開始の密命を受けていたとすれば、その使命は完全に失敗したと判定されるが、二人の神父はひどく晴れ晴れとした顔つきだった。理由は、その段階で逆に日本側から密命を受けた、考えていたからである、と児島襄。ウォルシュ司教によれば「ドラウト神父は日本側当局者がわれわれに平和提案に関するメッセージをワシントンに伝達するよう依頼してきた、と告げた。外相および首相双方からの依頼だという。われわれは躊躇した。そのようなメッセージは駐日米国大使館から通ずるのが自然だから。われわれは、松岡外相を含む当局者と再び会見したが、当局者hs、米国大使館に頼めば、ワシントンに届くまでに日本陸軍、あるいは第三国によって暗号が解読されて内容が漏れてしまう、と説明した」
ウォルシュ司教はドラウト神父が誰からワシントンへの橋渡しを頼まれたか記録していない。松岡外相はその事実はなく、近衛首相は会っていない。では、誰が二人の神父に頼んだか、ワシントン宛のメッセージは誰が書き、どのようなものか、二人の神父の滞在中の行動をたどる限り、その正体は掴みようがない。ただ二人の神父は、井川理事と連絡用の電文隠語まで打ち合わせて、日本の密使になったと固く信じて、太平洋を帰っていった。
児島襄がこの書籍を発行したのは、1978年。その後この件について新しいニュースに触れることもないので、特に情報公開もされていないということか。