東京裁判 検察側ストーリーの崩壊と清瀬弁護人の冒頭陳述

2022年05月29日 | 歴史を尋ねる

 キーナン検事やコミンズカー検事などの手腕には、清瀬も敬服するところがある、事件の取り調べにかかったのは、早くとも昭和20年の9月ごろとみられる。それまでは、日本の歴史も知らず、日本語も漢字も知らぬ人が、わずか半年の間にあれだけの事実を調べ上げ、五十五の訴因にまとめ上げ、それを証する書証、人証を取りそろえた努力は買わねばならぬ、と清瀬一郎は賞する。そのうちには日本人さえ知らなかった資料さえある。例えば日本の民主化の経路を証明する時、枢密院が普通選挙法案提出には治安維持法案と並行提出すべきことを条件としたこと、尾崎行雄と清瀬の連名で、南陸軍大将に満州出兵を慎まれたき旨の手紙を出したことも調べ上げていた。しかし田中上奏文(偽物)をつかんだだけは千慮の一失というべき、と。検事側が本件各訴因で共同謀議の始期を1928年1月1日としたのは、田中上奏文を見ての事だろう、この上奏文が本物なら、このように考えるのは無理もない。検事側は昭和21年、証人として秦徳純将軍を出廷させて、この文書を証明しようとしたが、林逸郎弁護士の反対尋問により破られてしまった。秦徳純証人はついには「それが真実のものであるということを証明することは出来ないが、同時にまた真実でないということも証明できない」ということになってしまった。奉天領事をしていた森島守人が出廷し「田中メモは聞いたことがある。またそれが偽物である事も承知している」と証言したが、判決ではこの証拠は無視された。最終的に田中上奏文は東京裁判では証拠として採用されなかった。
 (ウキペディアは言う。田中上奏文は当時10種類もの中国語版が出版され、組織的に中国で流布され、また1931年には上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク』に英語版「タナカ・メモリアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された。ソ連のコミンテルン本部も同1931年『コミュニスト・インターナショナル』に全文掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行し「日本による世界征服構想」のイメージを宣伝した。フランス国会では、1931年11月26日にジャック・ドリオが文章を引用しながら演説をおこなった。1931年(昭和6年)9月の満州事変が勃発。中国は翌1932年のジュネーブの国際連盟第69回理事会において「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」と訴え、その根拠として1930年に中国国民政府機関紙で偽書であると報じた田中上奏文を真実の文書として持ちだした。そのため日本政府は田中上奏文が偽書であることを立証する必要にせまられた。中国は日本が世界征服をもくろんでいると強調し、国際世論に訴えた一方、日本側は文書の真贋を問題とするにとどまった。1932年(昭和7年)5月6日に、ニューヨークの堀内総領事はタイムズ紙に田中上奏文の記事を掲載するについて、田中上奏文の記述の誤りを指摘するため、大正5年の日支交渉担当者田中義一の官職、フィリピン訪問の状況や襲撃事件について事実の確認を外務大臣に求めている。同年、K.K.カワカミは著書、Japan Speaks の中で、犬養毅が指摘する田中上奏文の誤りを掲載して偽書であることを示そうとした。米国人ジャーナリスト・エドガワ・スノーは1934年の処女作『極東戦線』(Far Eastern Front)で、田中上奏文について「一九二七年六月、日本の文武官を集めて開かれた、将来のアジア政策についての会議ののちに作成されたもようである」として触れている。スノーは、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造であるとしたことを紹介し「この覚書が示す考えとほとんど同じ考えをもっていた右翼の手によって暗殺された古ギツネ(犬養毅)の悲劇的な死は、たとえ覚書自身がにせものであったとしても、その背後にある精神の実態をもっともよく証明するものだと思われる。もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」と述べた。スノーは『アジアの戦争』Battle for Asia (1941年)の中でも、田中上奏文の一説を引用している。)

 昭和23年11月12日、各被告に刑が宣告されたが、そのうちただ一人、文民であった広田弘毅への死刑言い渡しには世間は驚いた。広田が死刑の宣告を受けねばならぬ羽目に至った事情を清瀬は説明する。はじめキーナンその他検事は、田中上奏文を入手した。検事はこれが日本の膨張政策の脚本だ、ヒトラーのマイン・カンプに相当するものだと考え、これを基本に訴因を組み立て、共同謀議の発生初期を昭和3年1月1日(田中内閣の時)とし、その間種々の公文書、私文書を捜索充当し、証人を物色し、過去十八年に亙る日本の東亜、ひいては世界侵略の絵巻を展開しようとした。しかし田中上奏文が偽作であることが判明した。検事にしても、裁判官としても、これに代わる基礎的計画案がなければ共同謀議の根本が崩れる。この上奏文に替えて飛びついたのが広田内閣成立初期(昭和11年8月12日)に決定した『国策の基準』であった。
 【国策の基準】
1、国家経綸の基本は大義名分に即して、内、国礎を鞏固にし、外、国運の発展を遂げ、帝国が名実共に東亜の安定勢力となりて、東洋の平和を確保し、世界人類の安寧福祉に貢献して、茲に肇国の理想を顕現するにあり。帝国内外の情勢に鑑み、当に帝国として確立すべき根本国策は外交、国防相俟って東亜大陸における、帝国の地歩を確保すると共に、南方海洋に発展するに在りて、規準大綱は左に拠る。
(1)東亜に於ける列強の覇道政策を排除し、真個共存共栄主義によりて、互いに慶福をわかたんするは、即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむべき指導精神なり。
(2)国家の安泰を期し、その発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるべき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実する。
(3)満州国の健全なる発達と、日満国防の安固を期し、北方蘇国の脅威を除去すると共に、米英に備え日満支三国の緊密なる提携を具現して、我が国際的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす。而して之が遂行に方りては列国との友好関係に留意す。
(4)南方海洋、特に外南方方面に対し我民族的、経済的発展を策し、努めて他国に対する刺激を避けつつ漸進的、和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟って国力の充実強化を期す。  (以下略)

 この国策は当時は公にされていない。これを検察眼により猜視すれば、これこそ日本の不法侵略の意図を固めたものである。この決定の時の首脳者が広田であるとすれば、広田は侵略の主唱者であるとの検察官、裁判官の心証を生じたのは無理からぬところである、と清瀬。昭和15年7月の「基本国策要綱」も「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」も、広田の「国策の基準」に従い、これを発展せしめたものに外ならない。広田有罪の認定理由にも主としてこれを挙げた。なおこの上に、広田が外務大臣をやっていた1937年(昭和12)と1938年に、日本軍の南京に於ける残虐行為に関する報告を受け取った。弁護人の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題を陸軍に照会したし、陸軍省から残虐を注視させるという保証を受け取った。この保証が与えられた後も、残虐行為は一カ月もつづいた。この時残虐行為をやめさせるため、直ちに措置を講ずることを閣議で主張しなったことも広田の責任として挙げられている。だが、これだけでは死刑にならなかっただろうと清瀬。

 さていよいよ、清瀬一郎の冒頭陳述が巡ってきた。これは被告に対する弁護のみならず、東京裁判史観に対する日本人としての反論でもある。この清瀬の陳述が世にそれほど取り上げられていないことも不思議な現象だ。ここでは、清瀬の陳述に耳を傾けたい。
 「裁判長閣下並びに裁判官各位  起訴状記載の公訴事実並びに諸証拠に対し、被告より防禦方法を提出する。裁判所は数か月の間、周到なる注意をもって検察側の主張を聴取した。被告に、この訴訟の歴史的重要性にふさわしい態度をもって、その主張を陳述させることは非常にありがたい。ご判断をうくべき争点の限局して、迅速に訴訟行為を進行させようと考えている。ただ、事柄は重大かつ新奇な意義を含んでおり、万一自ら定めた標準を超え、後裁定の法則に外れる場合があってもご寛恕あらんことを要請いたします」と言って、陳述は始まった。起訴事実は55の訴因に分かれているが、その多くは同一の起訴事実を他の角度から見て別個の訴因として表現している、また訴因中のあるものは被告の全部に関係し、他のものは一部に関係している。被告ら及び弁護人らは共通事項について共通の証拠を挙げることに協定した。その結果、 第一部 一般問題、  第二部 満州及び満州国に関する事項、  第三部 中華民国に関する事項、  第四部 ソビエト連邦に関する事項、  第五部 太平洋戦争に関する事項。  これらの各事項に関する証拠提出を終わった後、各被告人はその立場で個人的に関係ある事実を立証する。従ってこの段階を便宜上、第六部 個人ケーセスまたは個人弁護」と称します。

 第一部 一般問題 主なものを表示してこれに立証方針を説明する、として、1、1928年以降の軍事措置は犯罪に非ず、 2、機関を構えた個人に責任なし、 3、準備措置は他国のそれを眼中において作成される、 4、日本人の懐いた三希望(独立主権の確保・人種差別廃止・外交の要議)、 5、中国の自存と発展、 6、独伊との理念願望の相違、 7、八紘一宇、 8、東亜新秩序または大東亜共栄圏、 9、皇道、 10、ドイツ人の人種的優越感、 11、共同謀議、 12、組閣の慣行(共同謀議の余地なし) 13、大政翼賛会はナチに非ず、 14、陸海軍大臣の現役将官制、 15、世界征服、東亜征服の共同謀議なし、 16、両事変以来一貫せる計画なし、 17、公立学校(軍国主義教育に非ず)、 18、日本は本来、自由貿易主義、 19、私有財産制の擁護と国体の護持、 20、1930年以後の数年の直接行動(国内革新運動)、 21、1937年以後の国防計画、 22、自衛権存立するや否やの判断、 23、統帥と国防、 24、連合軍が使った戦法は犯罪というべからず、 25、侵略とは何ぞ、 26、戦争と殺人、 27、官職にあった者の責任、 28、太平洋戦争中の事件とドイツの行為、などを陳述した。ただし、数字は筆者が付け、見出しは清瀬が著書発行時に追加したものを利用して、詳細説明を省略した。以上で凡そ清瀬が何を取りあげたか推測できると思うが、「日本国が1928年以来取ってきた防衛措置、陸海軍の準備的措置が、侵略の性質を帯びたりや否やということが、重大な問題となっているが、各国の準備的措置は必ずや、常に他の国の行動を踏まえて作成される。この事実を念頭に置かず、準備的措置の不正の目的があったか否かを判定することは出来ない」「日本の対内、対外政策の本質を理解して頂くには、独立主権の確保・人種的差別の廃止・わが国外交の原理の三つがあり、これは1853年日本が外国と交際していらい、全国民に普遍的に懐かれていた国民的、永続的かつ確固たる熱望である」「日本の朝野は隣邦中国の自存と発展に格別の同情を寄せてきた」「1900年代の初めころから、わが国は多数の中国人留学生を招いた。蒋介石主席もその中の一人、1911年、辛亥の中国革命以来、わが国朝野は孫文先生の志業に非常に好意を寄せてきた。わが参謀本部並びに軍令部では年次作戦計画というものを作っていたが、ただ中国に対しては全面的な仮定的作戦計画さえも立てたことがない」などを具体的に立証した。

 以上は冒頭陳述の第一部の概要のみであるが、この冒頭陳述の世評を清瀬はその著書で紹介している。当時、ニューヨーク・タイムズは痛烈な批判をした。「清瀬弁護人は、日本は軍事的攻勢の包囲環の犠牲者に過ぎないと論じたが、もし一切の日本の行動が『自衛』であったとしたら、それは盗賊の犠牲者に対する『自衛』に他ならない。かって日本の戦争指導者どもがその犯罪弁護に言い古した、古臭い神話や、宣伝が、東京の戦争裁判で口にされているが、これらのことは、ナチス党の戦犯者たちでさえ、あえてしなかった思い上がりである」と。APの記者は清瀬が次のように弁解したと報道している。「外国人がそう思う(ニューヨーク・タイムス電)のは当然で、日本の態度を外国人に分かってもらうことは、なかなか困難である。私は冒頭陳述の中で、日本精神の正しさを裁判長や全世界の人々に納得してもらおうとした。それはわれわれの義務である」と。ところで、日本の新聞でも朝日や読売などは、その社説に於いて清瀬論旨を批判した、と清瀬。いつの時代も変わらないメディア等の態度である、負け組には蜘蛛の子を散らすように逃げて、強いもの(当時はGHQの意向)に従う。そんな中で、言論界の大長老、徳富蘇峰は日本言論界の冷淡な態度に憤慨され、わざわざ清瀬に書面を寄せた。「・・・今日に於いて、最も不愉快なるは本邦言論界の本裁判、特に清瀬先生に対する態度也。相手国側の言論界はともかくも、自国側の言論界は今少し日本人らしくあるべき筈のところ、まるで他邦人口調では到底、箸にも棒にもかからぬとはこの事と存じ候。先生はこの際日本国を代表して、世界の法廷に向かって明治維新の皇謨(こうぼ)以来の真面目を説明相為されることなれば、天下を挙げて之を非としても決して躊躇はないことと拝察され、この際、一層明快外切天下千秋の公論を開拓するため、御奮闘くださいますよう。・・・」 さらに口述書を法廷に提出して、自分を証人に呼んでくれと88歳の蘇峰が書いてあった。

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