水戸学

2009年09月25日 | 歴史を尋ねる

 尊王攘夷は対異民族問題のために終始悪戦苦闘した漢民族王朝「宋」の下で生まれた一種の危険思想(ナショナリズム)で、本来、普遍性を持たない。宋学はその後朱子によって朱子学として大成され日本にも輸入された。徳川幕府はこれを官学としたが、荻生徂徠など実証主義者などによってその空論性が攻撃された。が、日本でも一ヶ所だけ恐るべき朱子学的幻想が沈殿した土地があった。それが水戸であり、水戸学であったと、司馬遼太郎は「この国のかたち」で語っている。その水戸を訪ねた折、徳川斉昭が開いた藩校「弘道館」に立ち寄った。外国勢力が迫りくる時、社会・政治を改革して国を守るためには、まず人材の養成をすることであった。

 水戸学の精髄はこの設立趣意書「弘道館記」にあるというが、略言すれば、我々が遵い守るべき道は皇道で、忠孝の大義を重んじ、文武に励めということか。この趣意書の中に、「尊王攘夷」の文字が刻まれている。吉田松陰、西郷隆盛も立ち寄ったという。水戸の浪士も此処から出た。そして斉昭の実子であった徳川慶喜は若くして此処で学び、また将軍職を追われ官軍が江戸に進軍する時、蟄居したところはこの弘道館の一室であった。慶喜の生涯の厄介さが伺われる。西郷、大久保らの許しを得て、最後は駿府(静岡)で余生を送った。そのとき旧幕臣にも会わなかったという。


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