会沢正志斎

2009年09月27日 | 歴史を尋ねる

 「尊王攘夷は当初水戸藩が中心であったが次第に長州藩の下級武士に広がっていった」といわれているが、そのルーツは水戸藩の儒学者、会沢正志斎(1782~1863)の「新論」であった。1824年イギリス人12人が常陸大津浜に上陸して捉えられ、彼が藩命を受けて彼らを尋問し、時の水戸藩主斉脩(なりのぶ)に献上するために「新論」が執筆された。内容はイギリス、ロシアなど西欧列強の情勢とその侵略行動を明示し、この危機を乗り越え、富国強兵を実現するためのは、人心をまとめる方法として尊王と攘夷が必要であるとした。しかし忌むべき事項が含まれるとして公刊が許されず、密かに同士の間で筆写され、国家の行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布された、という。

 会沢は斉昭の侍読(じとう:先生)であったので、斉脩の継嗣問題で斉昭擁立に奔走、藩主になると藩政改革や弘道館設立趣意書に参画、弘道館初代教授頭取に就任して藤田東湖とともに当時の水戸学を推進した。ペリー来航時には、斉昭父子に対応策を呈示、将軍家定にも謁見している。

 その後の会沢の行動は単なる学者に終わらないところがすごい。日米通商条約調印に激怒した孝明天皇は1858年、水戸藩へ幕政改革を求める密勅を下したが、井伊はこれを水戸藩(斉昭)による幕府転覆の陰謀とし、水戸藩に密勅返納を命じるとともに、密勅降下関係者の徹底弾圧にのりだした。これが安政の大獄のきっかけであるが、このとき会沢は勅許の朝廷返納を主張、また、水戸浪士による井伊直弼襲撃に対して論難、1862年天下が騒然とする中、徳川慶喜に「時務策」を提出、世界の流れを明らかにして今後の指針を示した。家康の時代との違いを述べ、外国を拒絶して孤立しないように、富強の国を作るべきことを策としている。会沢正志斎の開国論だと言われている。儒学者でありながら朱子学の形式論に陥らず時局を見ている。司馬遼太郎がいう「朱子学的幻想が沈殿した土地」とばかりはいえない。維新後を少し先取りしているかな。