桶狭間古戦場

2009年09月23日 | 歴史を尋ねる

 司馬遼太郎「国盗り物語」の記述に従って、信長が桶狭間に疾駆した道筋を予想しながら現代の道路で辿ったことがあった。夜半幸若舞「敦盛」を三たび舞い、甲冑を着けさせると、「つづけえっ」とばかり馬に飛び乗り駆け出したという。信長は前夜の軍議で篭城論を退け、自らの決心を述べただけで解散し、それぞれ城内の屋敷に引き取らせた。午前2時頃「丸根砦に今川が攻めかかった」との知らせに信長ははね起き、陣触れの貝を吹かせ、謡と舞いがはじまったのだった。夜が明けた午前8時ごろ熱田大明神につき、日頃神仏ぎらいの信長が戦勝祈願を行い、熱田の森に旗指物と見まごう物を林立させた。さらに熱田を出発して、途中、丸根・鷲津の両砦敗報を聞きながら鳴海の丘筋を駆け入った。たくさんの斥候の中から、義元陣営の「田楽狭間で昼弁当」の報告で、「さてこそ!」敵の本陣を突撃すると叫んで信長は一気に駆け出した。後は有名な桶狭間の合戦に繋がるのであるが、なぜ信長がこの時夜半に飛び起きたかその理由については司馬遼太郎の小説に特段の記述がない。ほかの信長本もほぼ同様である。此処が信長たる所と感じたのが清洲城に立ったときだった。信長が若い頃、山野を馬で駆けたとよく言われている。付近の土地・地形は詳細に心得ていたに違いない。清洲城から東方を見ると遠く小高い丘陵地帯が見えるが、ここが桶狭間が位置する丘陵地帯でそこを抜けると全くの平地、濃尾平野が広がっている。当時、この丘陵地帯は今川・織田の国境だった。信長から見て乾坤一擲この地域が勝負の地と見定めたのに相違ない。史実は承知していないが、長篠古戦場案内板で見ると、信長は長篠の合戦の3日前に馬柵をもって岐阜城を出発したとある。信長の先見力は合戦の状況を思い浮かべていたのだろう。常人の測れる先を行っていた。桶狭間の場合も軍議をほどほどに、自らの見える先に突き進んだのであろう。

 とことん考え抜いて後は自らを信じて。熱田の森に旗指物を林立させさせたのも、敵を欺く造作であり、義元を油断させる為、ぎりぎりまで敵陣を引き寄せて一切動きを発しなかった。信長にとってこの戦は(桶狭間などのある)丘陵地帯だと思い定めていたから。信長の心をその地において推し量ると、次々と信長の行動が解ってくる。司馬遼太郎の国盗り物語にこの辺が語られていなかったのが不思議と思っていたが、彼の絶筆「街道をゆく 濃尾参州記」によると、国盗り物語を書いた時には、まだ桶狭間を訪ねたことがなかったとある。清洲城も最近再建されたばかりだから訪問していないだろう。なるほど、それで疑問が解けた。