新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

二八蕎麦

2016年03月13日 | 日記

 私にとってのそばは、姫路駅の駅そばに端を発する。中学生のころ、駅のプラットフォームで立ち食いしたそばの味は絶品だった。プラスチック製のどんぶりを汽車(電車ではない)内に持ちこんで食べる人が多かった。黄色いそばに天ぷらをのせ、おつゆをかけるだけのいたってシンプルなもので、いまも変わらぬ味を保ちつづけ、姫路駅の名物になっている。なお関西で天ぷらといえばかき揚げのことだし、姫路駅の駅そばにかぎり、そばは沖縄そばとおなじでそば粉をふくんでいない。
 その後、首都圏に居を構えて45年になるが、昼、出歩いていて腹が減ったら、まずそば屋にはいることを考える。関西人としてはおつゆに不満が残るが、麺の味は関西で食べるものと変わらない。45年まえ、そばの値段は100円だった。いまは安くても400円から500円はする。物価の上昇は1970年代から80年代にかけてがとくに激しかった。
 江戸時代には「二八蕎麦」といわれ、16文の値段が維持された時代が100年以上もつづいた。二八とはかけ算の九九からきた16をあらわす看板用のことばだった。
「そば切りやばかり看板九九で書き」
 1765年に詠まれている。江戸市中でそばは、すくなくと1716年から1837年まで二八蕎麦として16文で販売された。寛政の改革では諸物価が高すぎるとして、蕎麦の値段を14文に下げさせられているが、その際、看板も二七蕎麦と改めさせられたという。その後いつのまにか16文にもどり、幕末に近い天保の改革では15文に値下げさせられ、三五と書き改めたそば屋があったという。
 蕎麦の値段が100年以上もの間、16文で一定していたのは、物価が大きく変動しなかった幕府の政策もさることながら、「二八蕎麦」ということばの力が大きく寄与したのではないかと思われる。ことばが現実を規制する。虹を見るとつい七色あると思ってしまうし、子どもが太陽の絵を赤で描く。「七色の虹」「真っ赤な太陽」ということばの影響を受けるからだ。実際、虹はひとつの色から別の色へとグラデーションをなして移り変わっていくだけだし、太陽はまぶしくて見えない。二八蕎麦ということばが氾濫したために蕎麦の値段が16文でなくてはならないという意識を庶民の間に引き起こしたのではなかろうか。だとすれば二八蕎麦ということばが物価安定に一役買ったことになる。