新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

モラエス、3人目の女性

2015年12月23日 | 日記


 ふたたびヴェンセズラウ・デ・モラエスについて。
 モラエスは日本で過ごした約30年の間に、3人の女性と同棲している。46歳から59歳まではおヨネ(福原ヨネ)と同棲した。おヨネが24歳から37歳の間だった。昔風の美徳を備えた典型的な日本女性で、おしとやか、従順、恥じらい、思いやり、気配りなどのことばがあてはまる。モラエスはポルトガル女性にはめずらしいこれらの気質をこよなく愛した。おヨネが早世したあとは、その姪にあたるコハル(斉藤コハル)を女中兼愛人に迎えた。モラエスが59歳から62歳までの3年間で、コハルが18歳から21歳までだった。コハルはモラエスには若すぎた。コハルには現代っ子ということばがあてはまる。生活苦のためにモラエスの家に入ったが、仲のよいボーイフレンドがいた。2回妊娠するが、その子どもはともにモラエスの子ではなかった。1人は生まれた日に死亡し、もうひとりは両親の子として入籍させ、育てたが、3歳で事故死している。コハルは21歳で世を去る。「おヨネとコハル」は著作の題名にもしているため、比較的よく知られている。
 だが、もうひとり女性がいたことを私はこのたびはじめて知った。おヨネが死んだあと、モラエスが徳島へ移るまえに神戸で半年ばかり一緒に暮らした永原デンだった。デンはこのころ24歳の女盛りだった。遊郭で働いていた如才ない女性だった。ところがデンは59歳の辛気くさい老人モラエスに見切りをつけたのだろう、6か月がたつとさっさと出雲の実家へ帰ってしまった。出雲で商売をしたいから資金を送ってくれ、と経済的に不自由しないモラエスに無心する手紙を書いている。
 わずか半年、同棲したにすぎないこの女性がふたたびモラエスの文章に登場するのはその遺言状においてだった。永原デンが生存している場合は遺産の一部を贈ると書いている。現代の貨幣価値に換算すると数千万円にもなる多額の遺産だった。それを知った39歳になる永原デンは、さっそく徳島のコハルの実家などをあいさつに訪れている。
 遺言状を読めば、モラエスが義理がたい人だったことが分かる。遺言状を書いたのが1919年、死ぬ10年もまえ、永原デンと別れて6年後だった。
 デンについてはもう少し調べてみる価値がありそうだ。出雲という古くからのしきたりが重視され、残っていそうなこの町なら、もっと研究する材料が残されていても不思議はない。昨年の夏に訪れたときの私の印象は、どこまでも平野がつづき、広い野にぽつりぽつりと集落がある、といった風情だった。デンの嫁ぎ先の子孫も残っているようだから、その土地に住み着いて調べられれば、さらに資料が得られそうだ。







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