新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

大相撲を観ながら

2018年11月16日 | 日記

 稀勢の里が休場し、これで横綱不在の九州場所になった。群雄割拠の時代到来というところか。貴景勝が勝ち続けている。元貴乃花部屋で貴乃花親方の指導を受けてここまで来た、楽しみな力士だ。
 5時半になるとテレビをつける。場所がつづく2週間は、なんとなく観つづける。相撲が好きというほどではない。しかし昔から観ている。若いころ、仕切り時間がもどかしかった。2人の力士が土俵の隅にいっては塩を撒きながらまた土俵中央に戻る。4つんばいになってにらみ合う。それを何回か繰り返す。5回ぐらいかな。なんとももどかしい時間だった。早く相撲してほしかった。ところが、いまはちょうどよいぐらいに取り組みが進んでいく。この差はなんだろう。
 よく言われることだが、年齢を重ねるにしたがって時間を短く感じるようになる。1年があっという間に過ぎてしまう気がする。だれもがそう感じるらしい。なぜか。相撲の仕切り時間を長く感じた昔と、ちょうどよい時間に感じるいまとに、その答えを見いだした。
 若いころ、夜間の勤務を終えて帰宅し、11時から始まる「大相撲ダイジェス」という番組をテレビで観ていた。ダイジェストだから仕切り時間のほとんどをカットし、その日のすべての取り組みを次から次へと放送していく。実際の取り組みを生で観ていると、仕切り時間の長さにじれったくなっていたのが、ダイジェスト版はその点、テンポよく観ていけた。
 いまはどうか。仕切り時間を長いとは感じない。ちょうどよい塩梅に立ち会いがくる。時間はほんの4分ぐらいだが、むかし長いと感じた仕切り時間をいまはちょうどよい時間だと感じる。なぜか。
 仕切り時間の4分をこちらがどう過ごすかの違いだろう。したいことがほかにもいろいろあるいっぽうで相撲も観たい。テレビから離れるわけにもいかず、じっと待つ。だからその待っている仕切り時間がもったいない。だからことのほか長く感じた。いまはどうかといえば、仕切り時間になにか別のことをしたいという欲がない。頭も体もゆっくり休めたいがためにテレビをつける。もちろん頭の回転が若いころに比べてゆっくりになっているし、体の動きも緩やかだ。一度にあれもこれもしたいと思わない。だからだらりとした状態で時間だけが過ぎていく。つまり緊張感がなく、神経が弛緩した状態でただつぎの取り組みを待っているだけだから、ちょうどよいころにつぎの立ち会いが始まる。万事がこの調子で1日を、1か月を、そして1年を過ごしているのだから、1年たってもだらりとして何も成し遂げられなかった感覚が先立つのだろう。何もしなかった、あっという間だった、というのが年齢を重ねた人の感覚であり、おおくのことを考え、してきたという若い人たちの感覚こそが、時間を長く感じさせているのだろう。
「ゾウの時間、ネズミの時間」という名著を読んでも、レベルが高すぎて理解できなかったことが、大相撲の仕切り時間の感じかたの違いによって理解することができた。





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