もともと韓国社会には「中間地帯」や「中道」の意見を許容せず、両極端の対立を好む風潮が蔓延していました。
地政学的には、厳しい国際関係の中で、急いで一つの結論を出さないといけませんでした。
文化的にも、貴族のための高貴さを大事にする文化と、身分の低い人たちによる低級な文化の「二択」だけ。
宗教や学問的にも、日本のように多様性はなく、政治的にもまた「敵か、味方か」の対立だけ。
併合時代には「政権の言いなりか、闘争か」しかなかった・・・・・・そういう両極端はさはやがて「民族性」として内面化され、現代の韓国でも「極右が極左を生む結果」なってしまったのではないでしょうか。
結果、ある議論においても、「賛成」か「反対」かの意思表示を強要するだけで、「妥協点を見つけようとする努力は『灰色主義』(どっちつかず)として非難されるようになりました。
他人と違う意見を出しても、「返ってくるには討論の相手としての関係ではなく、感情的な敵対関係」。
その社会で置いてけぼりにされないためにも、いつからか、韓国人は、対立している両極端のどちらかを選ぶ民族になったようです。
その間に存在する多様な可能性を、自ら封じたのです。
自分側の意見と「異なる意見」を出すと、それはそのまま「敵側と同じ意見」にしかなりません。
白と黒しかないから、白くないのは黒いことになります。
「異なる」が、そのまま「間違っている」になってしまうのです。
少し言い方を変えると、「レッテル貼り」が恐ろしい破壊力を持つことになります。
下手に自分の意見を出すと「敵の意見だ」とされます。
そこを利用して、潰したい相手に「あいつは敵だ!」とレッテルを貼って魔女狩りに追い込めば、勝ったも当然です。