言葉には、「喋りことば」と「書きことば」がある。
喋りことばは、井戸端会議の言葉なのでハングルで間に合う。
だが、表音文字は音声で弁別できる以上の情報を、表記することも伝えることもできない。
“聴覚“による情報処理能力に比べ“視覚“による情報処理能力ははるかに高い。
漢字文明圏の人々は、「喋りことば」以上の情報処理能力をもつ、漢字という「書きことば」をもちいて、ゆたかな言語世界を築き上げたのである。
原始の時代、ことばは音声だけで間に合ったろう。
それから数千年たち、複雑な社会ができあがってくると、音声のことばだけでは間に合わなくなる。
ことばが、信号機能から情報伝達の道具へ進化したからである。
情報は意味でもあって、意味には抽象的概念もふくまれる。
ことばは、「ハナ」という音声が、花や華、鼻、端、洟、塙という漢字のいずれかと一致して、始めて意味を持つ。
「彼女にはハナがある」という場合、使われる漢字は“華“である。
華は、人目を引く輝き、きらびやかという意味で抽象的概念である。
この抽象的概念が分からなければ「彼女には鼻がある」としか聞こえない。
抽象度の高い情報をつたえるには漢字が必要なのである。
その漢字を廃止して、どうして高度な情報を伝達できるのか。
ハングルしか教えられていない韓国人は、漢字とハングル交じりで書かれている1970年以前に発行された人文・社会科学の大部分の専門書を読むことも理解することもできない。
高度な精神性と抽象的な概念からできあがっている倫理、道徳、哲学、芸術、科学、社会学、経済学などの「近代の知」が、韓国の一般の人々はむろんのこと、学識者にさえ正確に理解されていないのが、現在の韓国インテリ界の実情である。
まして、世界に通用する研究論文を書くことなど遠い夢で、ノーベル賞など小学生に世界的論文を期待するにひとしい。
いまの韓国とは、知的で冷静な議論は到底成り立たない。
ハングルで育った人々は、国際儀礼という抽象的概念を理解することもできないからである。
日韓の交流も和解も不可能である。
泣き叫ぶだけのわがままな幼児と、高度な政治議論を戦わすわけにはいかないからである。