2018年6月27日(水)
洞爺湖温泉で目覚めた朝、本格的な雨が降っている。天気予報では午前中は強い風雨に見舞われそう。
朝食を早めに済ませ、バスセンター7時50分発室蘭行に乗る。バスは洞爺湖の周囲を走り、昭和新山を眺めながら、伊達市内へ入り、1時間程して「北黄金貝塚公園前」バス停に着いた。
バスを下りたら、傘を差していられないほどの横殴りの雨にあう。5分程だったろうか、立ち止まったりまた歩いたりして伊達市北黄金町の「北黄金貝塚公園」に着いた。
丘の上に白いものを敷き詰めたものが見える。とにかくあそこまでは行こうと、雨水がたまった草むらを、傘が飛ばされそうになりながら歩いて上って行く。貝塚公園の高いところなので風をまともに受ける。
(北黄金貝塚公園)
そこは「A´地点貝塚」と呼ばれるところで、貝塚の広さを実感できるように、現在の貝殻が敷き詰められている。それも後からわかったことで、説明板を読む余裕などない。カメラを雨から守りながら、ようやく撮る。
(A´地点貝塚。真ん中少し右の建物が北黄金貝塚情報センター)
(A´地点貝塚の説明)
少し下がったところに、竪穴住居も復元されている。これまで見てきた復元住居とは少し違うようだが、近づいてみる見学する余裕はない。
(復元竪穴住居)
「北黄金貝塚情報センター」へ急いで入る。センターの皆さんビックリされて、濡れた服を拭くタオルを持ってこられたり、濡れたリュックを乾かしていただいたり、展示の説明をしていただいたり、お世話になりました。有難うございました。
(情報センター内から貝塚公園)
(北黄金貝塚の図。下が欠けていて済みません。)
北黄金貝塚は、[草創期][早期]【前期】[中期][後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期の(約6,000年~5,000年前)遺跡。前期でも気候の変動で周囲の環境は変化してくる。
(縄文前期でもこんなに違う)
館内には、「A´地点貝塚」の剥ぎ取り展示がしてあり、ウニの層、カキの層、カキやウニが混じった層などが見れる。貝殻や動物の骨などが出土している。
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
縄文人の墓が「A´地点貝塚」の中や下から見つかり、14体の人骨が発掘されている。墓は楕円形で、屈葬という仰向けで手足を折り曲げた姿勢の人骨が出土している。墓の上には石皿や土器が置かれていた。
縄文人は、貝殻や動物の骨などもゴミではなく「貝塚はすべての生き物の墓地」と考えていたようだ。
(貝塚の墓の説明)
(ベンケイガイでできた貝輪をペンダントしてつけた男性の墓の復元)
(発掘途中のお墓の復元。墓の上には土器や石皿が伝えられている。)
貝塚も住居より高い所に作られている。
骨考古学という分野がある。発掘された古人骨を調べると、年齢、生別、妊娠や出産暦、病気や怪我など当時の人の様子が明らかになる。入江貝塚で出土した中にはポリオに罹っていた人骨もあった。北黄金貝塚で発見された人骨は、北海道で今まで見つかっている中で、最も古く、古人骨研究には欠かせない基本資料となっている。
北海道は、稲作文化が入らなかったので、縄文文化から続縄文文化、擦文文化、そしてアイヌ文化へと移っていく。縄文人からアイヌ人まで人骨を調べると、各時代の人骨も縄文人の特徴をほとんど変えずに受け継がれていることがわかる。「貝塚はすべての生き物の墓地」という考えも、アイヌの文化から、推察されている。
酸性の土壌では、人骨が残ることはほとんど無い。貝塚は貝がアルカリ性の土壌を維持するので人骨が残る。縄文の人たちは、「何千年後かに私たちのことを調べて。私たちを知って。」と本能的に感じて貝塚に埋葬したのではなかろうか。墓場の展示を見ているとそんな気がしてくる。
貝塚は高い場所にあって、住居はその下にある。住居の近くには水が湧き出る場所があって、その付近で1,209点の礫石器が発見されている。握る部分に窪みをつけた磨り石、取って付きの磨り石、石皿、石器を作る道具などが壊された状態で出土している。
使わなくなった道具をわざと水場で壊し、道具への感謝と再生を祈った場所、「水場の祭祀場」と考えられている。
出土した石器が展示場の真ん中に積んであり、異彩を放っている。
(水場の祭祀場に捨てられた大量の礫石器)
(握る部分に窪みをつけた磨り石など)
伊達高校郷土研究部の先生と生徒が中心になって、1950年代、北黄金貝塚の本格的発掘が始まった。「A地点貝塚」で三層にわかれて、一番上の層は筒状で、細かい縄文模様がついた土器、次の層は底が尖っている太い縄の模様がついた土器、一番下の層からは貝殻で模様をつけた、バケツ形の土器が出土した。
当時、貝殻で模様をつけた土器は、先が尖っていたものしか発見されてなく、底が平らな土器は新発見の土器で、「上坂式土器」と名づけられた。
(上坂式土器)
(土器の説明)
(出土した土器)
(出土した土器)
展示全体は子供たちにわかりやすいようにしてあると感じた。
(魚を獲る道具と獲った魚)
(動物を獲る道具。処理する道具)
(掘られた貝塚の写真と出土品)
「噴火湾」はようやく場所のイメージがつかめた。「噴火湾」の中に、小さい湾がたくさんあるらしい。縄文の人たちは、その小さい湾にみんなで協力し合いながら大型の魚を追い込んで漁をしていたのだと思う。
(噴火湾とその周囲の貝塚の説明)
縄文の人たちは、貝にしろ、魚にしろ、動物の肉にしろ、木の実にしろ、山野草にしろ、一番美味しい旬のものだけを、そのまま煮る、焼く、蒸すなどして食べていた。展示してある「縄文なべ」を見ながら、縄文時代の方が素材のおいしさを楽しめる豊かな食事だったのではないかと、昨晩の宿の食事と比べながら思った。
(縄文なべ)
風雨が強い。結局、「水場の祭祀場」などには行かなかった。どうも根性が足りないな、と自分にいい聞かせながら、「北黄金貝塚」を後にする。
(情報センター内から水場の祭祀場?)
風雨で、貝塚の高台から周囲の風景がどうなっているのか見えなかった。この場所が海に近いことは、「北黄金貝塚公園前」バス停から2つ目「黄金」バス停で降りて知ることになる。
今日は、旭川に泊まる。
洞爺湖温泉で目覚めた朝、本格的な雨が降っている。天気予報では午前中は強い風雨に見舞われそう。
朝食を早めに済ませ、バスセンター7時50分発室蘭行に乗る。バスは洞爺湖の周囲を走り、昭和新山を眺めながら、伊達市内へ入り、1時間程して「北黄金貝塚公園前」バス停に着いた。
バスを下りたら、傘を差していられないほどの横殴りの雨にあう。5分程だったろうか、立ち止まったりまた歩いたりして伊達市北黄金町の「北黄金貝塚公園」に着いた。
丘の上に白いものを敷き詰めたものが見える。とにかくあそこまでは行こうと、雨水がたまった草むらを、傘が飛ばされそうになりながら歩いて上って行く。貝塚公園の高いところなので風をまともに受ける。
(北黄金貝塚公園)
そこは「A´地点貝塚」と呼ばれるところで、貝塚の広さを実感できるように、現在の貝殻が敷き詰められている。それも後からわかったことで、説明板を読む余裕などない。カメラを雨から守りながら、ようやく撮る。
(A´地点貝塚。真ん中少し右の建物が北黄金貝塚情報センター)
(A´地点貝塚の説明)
少し下がったところに、竪穴住居も復元されている。これまで見てきた復元住居とは少し違うようだが、近づいてみる見学する余裕はない。
(復元竪穴住居)
「北黄金貝塚情報センター」へ急いで入る。センターの皆さんビックリされて、濡れた服を拭くタオルを持ってこられたり、濡れたリュックを乾かしていただいたり、展示の説明をしていただいたり、お世話になりました。有難うございました。
(情報センター内から貝塚公園)
(北黄金貝塚の図。下が欠けていて済みません。)
北黄金貝塚は、[草創期][早期]【前期】[中期][後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期の(約6,000年~5,000年前)遺跡。前期でも気候の変動で周囲の環境は変化してくる。
(縄文前期でもこんなに違う)
館内には、「A´地点貝塚」の剥ぎ取り展示がしてあり、ウニの層、カキの層、カキやウニが混じった層などが見れる。貝殻や動物の骨などが出土している。
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)
縄文人の墓が「A´地点貝塚」の中や下から見つかり、14体の人骨が発掘されている。墓は楕円形で、屈葬という仰向けで手足を折り曲げた姿勢の人骨が出土している。墓の上には石皿や土器が置かれていた。
縄文人は、貝殻や動物の骨などもゴミではなく「貝塚はすべての生き物の墓地」と考えていたようだ。
(貝塚の墓の説明)
(ベンケイガイでできた貝輪をペンダントしてつけた男性の墓の復元)
(発掘途中のお墓の復元。墓の上には土器や石皿が伝えられている。)
貝塚も住居より高い所に作られている。
骨考古学という分野がある。発掘された古人骨を調べると、年齢、生別、妊娠や出産暦、病気や怪我など当時の人の様子が明らかになる。入江貝塚で出土した中にはポリオに罹っていた人骨もあった。北黄金貝塚で発見された人骨は、北海道で今まで見つかっている中で、最も古く、古人骨研究には欠かせない基本資料となっている。
北海道は、稲作文化が入らなかったので、縄文文化から続縄文文化、擦文文化、そしてアイヌ文化へと移っていく。縄文人からアイヌ人まで人骨を調べると、各時代の人骨も縄文人の特徴をほとんど変えずに受け継がれていることがわかる。「貝塚はすべての生き物の墓地」という考えも、アイヌの文化から、推察されている。
酸性の土壌では、人骨が残ることはほとんど無い。貝塚は貝がアルカリ性の土壌を維持するので人骨が残る。縄文の人たちは、「何千年後かに私たちのことを調べて。私たちを知って。」と本能的に感じて貝塚に埋葬したのではなかろうか。墓場の展示を見ているとそんな気がしてくる。
貝塚は高い場所にあって、住居はその下にある。住居の近くには水が湧き出る場所があって、その付近で1,209点の礫石器が発見されている。握る部分に窪みをつけた磨り石、取って付きの磨り石、石皿、石器を作る道具などが壊された状態で出土している。
使わなくなった道具をわざと水場で壊し、道具への感謝と再生を祈った場所、「水場の祭祀場」と考えられている。
出土した石器が展示場の真ん中に積んであり、異彩を放っている。
(水場の祭祀場に捨てられた大量の礫石器)
(握る部分に窪みをつけた磨り石など)
伊達高校郷土研究部の先生と生徒が中心になって、1950年代、北黄金貝塚の本格的発掘が始まった。「A地点貝塚」で三層にわかれて、一番上の層は筒状で、細かい縄文模様がついた土器、次の層は底が尖っている太い縄の模様がついた土器、一番下の層からは貝殻で模様をつけた、バケツ形の土器が出土した。
当時、貝殻で模様をつけた土器は、先が尖っていたものしか発見されてなく、底が平らな土器は新発見の土器で、「上坂式土器」と名づけられた。
(上坂式土器)
(土器の説明)
(出土した土器)
(出土した土器)
展示全体は子供たちにわかりやすいようにしてあると感じた。
(魚を獲る道具と獲った魚)
(動物を獲る道具。処理する道具)
(掘られた貝塚の写真と出土品)
「噴火湾」はようやく場所のイメージがつかめた。「噴火湾」の中に、小さい湾がたくさんあるらしい。縄文の人たちは、その小さい湾にみんなで協力し合いながら大型の魚を追い込んで漁をしていたのだと思う。
(噴火湾とその周囲の貝塚の説明)
縄文の人たちは、貝にしろ、魚にしろ、動物の肉にしろ、木の実にしろ、山野草にしろ、一番美味しい旬のものだけを、そのまま煮る、焼く、蒸すなどして食べていた。展示してある「縄文なべ」を見ながら、縄文時代の方が素材のおいしさを楽しめる豊かな食事だったのではないかと、昨晩の宿の食事と比べながら思った。
(縄文なべ)
風雨が強い。結局、「水場の祭祀場」などには行かなかった。どうも根性が足りないな、と自分にいい聞かせながら、「北黄金貝塚」を後にする。
(情報センター内から水場の祭祀場?)
風雨で、貝塚の高台から周囲の風景がどうなっているのか見えなかった。この場所が海に近いことは、「北黄金貝塚公園前」バス停から2つ目「黄金」バス停で降りて知ることになる。
今日は、旭川に泊まる。
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