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「中里貝塚(飛鳥山博物館)」へ行った。【縄文を学ぶ-7】

2018-08-08 | 縄文を学ぶ
2018年7月24日(火)

 大森駅から電車に乗って王子駅で下りる。駅から階段を上った飛鳥山公園の広場には、「D51」の機関車、「都電」の電車も保存されていた。下の段にある水場からは子供たちの歓声が聞こえてくる。


(飛鳥山公園への階段)


(飛鳥山公園の「D51」)


(飛鳥山公園の「都電」)

 D51のすぐそばに3階建ての「北区飛鳥山博物館」がある。1階が北区の歴史や自然、文化を紹介する常設展示場で、1階のみ有料で65歳以上は150円。無料ではなかった。


(北区飛鳥山博物館)

 「縄文人のくらし」のコーナーに、北区の縄文時代遺跡の出土品が展示してあり、縄文時代の環境、人びとの生活の様子がわかるように説明されている。


(「縄文人のくらし」のコーナー)


(北区で出土した縄文前期の土器)


(北区で出土した縄文中期の土器)


(北区で出土した縄文後期の土器)


(北区で出土した石器)

 土器や石器が展示してあるなかで、「中里貝塚階層剥ぎ取り標本」が直ぐ目に入る。


(中里貝塚階層剥ぎ取り標本)

 中里貝塚(東京都北区上中里2丁目)は、[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約4,600年~3,900年前)の貝塚。

 貝塚の規模は、長さ500m前後、幅100m以上の範囲に広がっていると考えられている。厚さも最大で4.5mもあり、これまで訪ねてきた貝塚と比べると、とても大きい。

 最も違うのは、生活臭が無いことだろう。

 貝塚には、貝、魚や動物の骨、土器、石器そしてお墓もあった。近くには住居跡がある。

 中里貝塚から出土したのは、ほとんどが、カキとハマグリで、土器、石器などの道具類、魚や動物の骨類などはほとんど出土していない。住居跡も無い。人々が生活した痕跡が見えない。

 出土した貝も、粒ぞろいの大型のものが揃っている。貝塚から発見された「木枠付き土坑」から、焼いた石を敷き、その上に貝を置き、水をかけ草木などでフタをして蒸気で蒸し上げる「蒸し焼き」や水を張ったところに焼いた石を投げ入れて沸騰させ、ゆであげる「ゆであげ」で貝をむき身にしていたと考えられている。


(中里貝塚のパネル説明)

 人が生活した痕跡が無く、大量の貝の加工を専門に行っていた中里貝塚は「水産加工場」ともいわれる。

 中里貝塚付近には同時期の遺跡や貝塚が存在している。それらのムラが、ここで貝を採集・加工して、それを交易品として内陸部のムラに供給していたのだと考えられている。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文時代の生活の様子は想像するしかない。学問的には想像するにもそれなりの根拠がいるだろうが、素人は根拠なしでも想像できるのがいい。以下、根拠のない想像です。

 中里貝塚には、ある時期になると、海辺のいくつかのムラからも、内陸部のいくつかのムラからも人々が集まってきた。

 それぞれのムラは、集まる時期の目印を決めていた。あるムラでは〇〇の花の咲く頃、別な村では△△の芽の出る頃、また海辺の村では□□の魚の群れが現われる頃など。その時期なると中里貝塚へ行く準備をし、出かけて行く。海辺のムラからは舟に乗って来る人たちもいる。

 ムラムラから集まった中里貝塚では、ムラ単位で、あるいは、いくつかのムラの人たちが共同で、貝を拾い、「蒸し焼き」や「ゆであげ」していく。小さな貝を拾ったら、「海に戻しなさい。」と注意される。「これだけの大きさの貝だけにしなさい。」と見本を示したりもする。

 海辺のムラが日々経験すること、内陸部のムラが日々経験することは違うものも多い。作業しながらも、また休息のひと時にも、それぞれのムラでの体験が楽しく語られる。中には自慢話も出てくる。「このまえ獲ったイノシシはこんなに大きかったよ。」、他のムラの人「ええ、そんなに。」、自慢した男の妻「あんた、それは大げさだよ。これくらいでもっと小さかったよ。」などと。

 経験を伝えようと話す工夫も楽しい。経験したことのない話を聞きながら、想像を巡らすのも楽しい。

 違うムラの人たちと話をすると言葉が通じないこともある。手振り身振りで話すうちに、新しい言葉も生まれる。「もっと、きれいな縄文語にしなさい。」と説教する人はいなかっただろうな。

 ムラムラから人が集まると、集団お見合いの場にもなる。中には世話焼きお婆さんもいて、貝のことはそっちのけにして、あのムラの青年とこのムラ娘、こっちのムラの青年と別なムラノの娘を、と世話して廻る。カップルが出来ると皆でお祝いをする。

 何日か過ごすと、「もう、必要なだけ採ったから。」と三々五々ムラへ帰っていく。「楽しかったよ、〇〇の花の咲く頃また来るね。」「楽しかったね。△△の芽の出る頃また来るね。」と。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文の展示は続く。北区の遺跡の出土品の展示、縄文時代の気候や生活を説明してある。東谷戸遺跡からバラバラの状態で発掘された土偶は、ほぼ完全な形に復原され展示されている。


(東谷戸遺跡から出土した土偶)

 1983(昭和58)年、東北新幹線上野乗り入れ工事に伴って、中里貝塚に隣接する中里遺跡(縄文時代中期から後期)の発掘調査が行われ、縄文時代中期初頭(約4,700年前)の丸木舟が出土した。全長は約5.8m、最大幅約70cm、最大の深さ約40cmの大きさで、ニレ科ムクノキの一木を最も厚い舟底で5cmになるまで、石斧を使って削って作ってある。展示室の真ん中にデンと構えている。大きい。魚を獲るための舟だろうか。あるいはどこかへ何かを積んで出かけたのだろうか。何人かの人たちが協力して作っている姿がうかんでくる。


(中里遺跡から出土した丸木舟)

 縄文時代の展示を見終えて、さあ、「中里貝塚」まで行こう。博物館の外はむし暑い。土地勘のないところを歩くには不安があるけどスマホのナビをたよりに歩いた。上中里駅までは狭い道をナビの導くまま。上中里駅からはほぼ一直線。曲がるべき角には何らかの目印があるだろうと、ナビを見ずに歩くが、「中里貝塚」への目印は無い。と、「上中里つつじ荘」の案内があった。ここかなと思って曲がったら、すぐに公園があって「史跡中里貝塚」の標柱が建っていた。


(中里貝塚のパンフレット)


(国指定史跡中里貝塚)

 道を挟んで、小さい公園が2つある。公園には「上中里2丁目広場」と名付けられているようだ。「中里貝塚」の説明板も立てられている。公園付近の現在の地図に中里貝塚が占める図があれば、貝塚の巨大さをもっとリアルに実感できたのでは、と思った。


(中里貝塚の説明)

 「中里貝塚」を後にして、尾久車両センターをちょっとだけ覗いて、田端駅へと歩く。


(尾久車両センター)

 田端ふれあい橋から線路を眺めるが、多くの電車が行きかうのには会わなかった。


(田端ふれあい橋から)

 田端駅から山手線で上野駅へ。上野駅構内で飲んだハイボールが疲れを吹き飛ばしてくれる。今日は上野駅前に泊まる。

 上野駅を眺めていると、集団就職列車を思いだす。集団就職で九州から東京に行く列車の終着駅は東京駅だが、集団就職といえば歌も映像も上野駅が流れていた。

 55年程前になる。中学校を卒業し集団就職列車で東京へ向かうクラスメイトをクラスの仲間たちと駅まで見送りに行った。駅のホームは同じ列車に乗る集団就職の中学生を見送る家族、友人たちで大混雑している。今から考えると、みんなよく連絡取り合い集まって見送ったと思う。まだ、家庭に電話があるところが珍しい時代で、もちろん携帯電話などなかった。その友とは数年間は連絡が取れていたが、今はどうしているかわからない。この東京の空のもとで元気に暮らしているのだろうか。

 集団就職が始まったのが、高度経済成長の始まりでもあった。コンピューターが出現し、やがて個人個人がパソコンを使うようになる。今、電話とコンピューターが一体となったスマートフォンが手元にある。家族や仲間とすぐにでも連絡を取り合うことが出来る。

 暮れ行く上野の森を眺めながら、縄文1万年に比べればたかだか数十年だが、これまでの変化をしみじみと感じながらビールを飲む。


(上野駅)


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