その6
「バアチャと浪曲(浪花節)」
昭和20年代から30年代、M男が、小学生、中学生だった頃の話である。
当時、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹、3世代、7人家族で暮らしていたが、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「バアチャ」は、誰に対しても如才無く、家族には献身的で、M男にとっては、母親より母親的であり、最も頼りにしていた人だったと思っている。
ほとんど、記憶は曖昧になっているが、脳裏に焼き付いている「バアチャ」の断片的な記憶を炙り出して見ることにする。
M男の家は、終戦直前に、東京から家族全員、父親の郷里の実家を頼って自主疎開し、戦後、そのままその地に定住した家だった。その頃はまだ、貧しい暮らしが続いていたはずだが、M男が小学生高学年になった頃には、茶の間の茶箪笥(ちゃだんす)の上に、真空管ラジオが鎮座していた。
多分、農業の傍ら、隣り町の印刷店に勤めていた父親が、同じ商店会仲間のラジオ屋(当時は、家庭電器店等とは呼んでいなかった)から、譲り受けた中古の真空管ラジオだったのだと思う。
他に娯楽等、ほとんど考えられなかった山村の暮らしの中で、家族が集まる夕食時等に、ラジオ放送を聞くのが、唯一楽しみだったように思う。ただM男の家が有った集落は、東西南三方を山で囲まれた地形のため、電波は極めて弱く、雑音も入り、NHKラジオ第1放送が、かろうじて聞けるという、情けない状態だったが、皆で、ラジオの前で耳を欹てて聞いていたものだ。
夕食時の、子供も一緒に楽しめる番組、「三つの歌」等が終わる時間帯、20時半過ぎ位になると、「バアチャ」が楽しみにしていた浪曲(浪花節)等の番組も有ったように思う。
戦前、東京で、一時、定食屋を開いていたことも有ったという「バアチャ」は、子供だったM男から見ても、華奢で粋な、和服の似合う、垢抜けた感じの女性だったが、東京では、浪曲(浪花節)を、楽しんでいたようで、戦後、やっとラジオで楽しめるようになって、嬉しくてしかたなかったのかも知れない。
東京から移住する際に持って来たという蓄音機とレコード盤を、M男が初めて知ったのも、小学生の頃だったと思うが、レコード盤の約半数、十数枚は、浪曲(浪花節)で、井の中の蛙、田舎の子供のこと、レコードとは、浪曲(浪花節)が主なものなのか等と思った位だった。後年になってから、浪曲(浪花節)好きの「バアチャ」にとっては、浪曲(浪花節)のレコード盤は、宝物?のひとつだったのかも知れない等とも思ったものだ。
M男にとっては、そろそろ眠くなる時間帯、ラジオから流れてくる、ただ唸っているだけの面白みのない演芸にしか感じなかった浪曲(浪花節)だったが、完全な「バアチャッ子」だったこともあり、横で一緒に聴いていたことも有った。
繰り返し聞いている内に、子供ながらに、有名な浪曲師の名前や演目、特長有る節やフレーズ等、ところどころをなんとなく覚えてしまう程になってもいた。
春日井梅鶯、玉川勝太郎、寿々木米若、広沢虎造、・・・・・、
「佐渡へ佐渡へと草木も靡く 佐渡は居よいか住みよいか・・・・」(佐渡情話)、
「旅行けば 駿河の道に茶の香り 流れ清き大田川・・・」(清水次郎長伝)
「飲みねい、飲みねい、寿司食いねい・・」「江戸っ子だってな・・」「神田の生まれよ・・」
今では、すっかり、過去の演芸となりつつあり、ほとんど、見る、聴く、機会が無くなってしまった浪曲(浪花節)であるが、「バアチャ」を思い出す時は、必ず、真空管ラジオから流れていた雑音混じりの浪曲(浪花節)が、連想されてしまうのである。
懐かしい浪曲(浪花節)のさわり?を、YouTubeで見付け、共有させていただいた。
寿々木米若の「佐渡情話」 (YouTubeから共有)
広沢虎造の「石松三十石船道中」 (YouTubeから共有)
(ネットから拝借画像)
(つづく)
父親の勤務先は、S文具店でした。
三つの歌、お父さんはお人好し、民謡を訪ねて、今週の明星 等々、欠かさず聞いていました。
御地、今のところ大きな被害は発生していない様ですが、油断出来ない余震が続いているようですので、しばらくは、要警戒ですね。
とんだ、正月になってしまい、心痛みます。
コメントいただき有難うございます。
私の外祖母(OMのばあちゃ)は隣町のOM町に住んでいましたが
わがI市の寺で浪曲があるとバスに乗って見に来て。帰りに我が家に寄っていったものです。
その寺は多分、たけさまのお父さんが働いていたI文具店近くの寺だと思います。
踏切の隣の寺でした。
「三つの歌」は私もラジオで聞いていました
たしか「三つの歌です きみもぼくも あなたもわたしもほがらかに・・」とかいうテーマ曲だったと思います。