たけじいの気まぐれブログ

スローライフ人の日記風雑記録&フォト

あの日あの頃・・中学生日記・庭と畑の草取り作業

2013年02月27日 17時54分36秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年8月5日、金曜日、曇、
「家の周りの草取りをした」
昭和30年8月6日、土曜日、曇一時雨
「家の周りの草取りをした」、「夕方 ナス畑の草取りをした」
毎年 夏休みになると お盆の前、家の周りの草取りをすることが 子供の仕事になっていた。ナス畑の草取りまで やったと 自慢している風だ。

昭和30年8月7日、日曜日、晴、
「家族が お寺に行って 祖父と二人、留守番」
お盆の前には 一度 菩提寺に なんらかの物を持って 挨拶に行っていた時代だった。
「母に 赤ふんどしを 買ってきてもらった」
当時 学校にも 周辺地域にも プールは皆無で M男達は 夏休み中、川で 「水浴び」していたが 何故か 赤ふんどしが 流行り出してきた。上級生にならって 買ってもらったのだと思う。まだ 海水パンツ等の水着が 山村にまで 出回っていなかった時代だった。

昭和30年8月8日、月曜日、晴、
「全校召集日」
そう言えば 夏休み中、1~2回、登校日があった。子供達の気を引き締めるためだったのだろうか。 

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あの日あの頃・・中学生日記・夏休み

2013年02月26日 22時08分27秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年7月28日、木曜日、晴、
「ツベルクリン反応検査の結果 陰性、BCG接種を受けた」
やっぱり。

昭和30年7月29日、金曜日、晴、
「ツベルクリン反応検査 陽性の生徒が 町の保健所に行ったため 残った生徒は 幻燈を見た」、「リヤ王」「小公女」「ガリバー旅行記」「ロバを売りに行った親子」
机を廊下に出した教室に暗幕を張り 残った生徒全員が 床に座り込んで 見たような気がする。

昭和30年7月30日、土曜日、晴、
「学期末 大掃除」
「終業式」
「通知表をもらって帰った」
「十二指腸虫の虫下しを 飲んだ」

1学期の最終日。M男の通った O中学校では 当時 「田植え休み」や「稲刈り休み」等が有って その分 夏休みは 短く この年は 7月31日から8月25日 だったようだ。

昭和30年7月31日、日曜日、晴
「二階の勉強する場所を整理」
夏休み初日、宿題を早めに片付けようと思ったのか やる気十分。M男の家には もちろん 子供部屋等なく 座敷の隅に 自分専用のコーナーを確保したということのようだ。

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あの日あの頃・・中学生日記・臨海教育

2013年02月25日 21時42分20秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年7月22日、金曜日、晴、
「臨海教育」
社会、図画、理科、国語の授業をつぶして 臨海教育の日。全校生が わいわい、午前9時半の列車に乗って 日本海に 出掛けて行ったと思う。海水浴場とはなっていたが 当時は 海の家、更衣室等の施設もなく ただの 海辺。M男達は 海辺の近くに有った神社の境内で 着替えたり 休憩したりした。砂利状の砂浜は 有ったが 波打ち際から 数メートルで ガクッと深くなる日本海、しかも 流れが早く 余程 自信が無いと 沖へ泳ぎ出ること等 出来なかった。ほとんどが 寄せ返す波と戯れる程度であったが 楽しかったことは 間違いない。

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ヨネ物語(12) 「婿養子縁組」

2013年02月24日 22時03分05秒 | ヨネ物語

クニと結婚した竹山永一には 出身地新潟に 沢山の親戚があり お互い濃密な付き合いをしていた。クニには 理解出来なかったことであるが 亡くなった 永一の先妻キミの実家 川口家との親戚関係も 根強く続いており 断ち切れないものだった。川口家が 土地の有力者、顔役であったことも一因だったのだろうが 当時の田舎では 一度 親戚の関係になると 子、孫、曾孫の代まで 冠婚葬祭はもちろん 濃密な付き合いをする風習があったのだ。その川口家の 川口ミツは 吉田という家から嫁いできていたが 実家である 吉田家は やはり 大農家だった。吉田家には 長女であるミツを含めて 6男3女の子供が有ったが 当時 婚期に達した 次男、三男、次女の結婚相手を 探していた時期であったようだ。土地の有力者、顔役であった川口家とて 多方面に声を掛け 画策していたに違いない。そんな時代だったのだ。

川口家から 永一経由で クニに 「ヨネの結婚相手に どうか?」と打診してしてきたのは そんな 吉田家の三男 清三のことであった。もともと 清三を 永一の養子にして キミの病死で 子供のいなかった竹山家の跡継ぎにするという考えがあったようであるが その清三とヨネが結婚すれば 万事うまく収まるということになる。ところが その話を進めている最中 清三が 急死してしまったのだ。ならばと 言うことで ヨネより9才も年上ではあったが 次男の 「吉田武では どうか?」と 話を切り替えてきた。

武夫は 当時 上京していて 海軍省の印刷所に勤めており 独身だった。クニもヨネも 迷ったはずであるが ヨネの知らない間に 話が進み 結局 結婚することになった。そして 武夫は 永一の婿養子として入籍し 竹山武夫となった。

ここに 永一、クニ、武夫、ヨネ、もともとは 全く無関係だった4人が 運命の糸で結ばれて 一つの家族になったのである。

ヨネと結婚することが決まった武夫は 巣鴨の家の2階に引っ越してきたが それが 結婚する前だったか、後だったか ヨネの記憶にない。ただ なんとなく 2世帯の暮らしが始まったような感じだった。そして 昭和17、ヨネは 長男を出産した。それからのヨネは 子育てに専念する日々となったが 近所の人達とも ますます仲良くなり 特に ヨネと同時期に やはり 長男を出産した 近所の入山知子とは 親しく 知子が母乳が出なかったため ヨネが乳を与え お互い 双子を育てるが如くの仲であった。ヨネにとっては いままで経験したことのない 安らぎと幸せ感に満ちた 平穏の日々であった。

夫武夫は 田舎育ちの真面目な青年という風だった。職場でも 皆に好かれ 旅行や登山等を楽しみ 友人も多かったようだ。巣鴨の家から通勤していたが 安定した収入もあり 次第に 竹山家の大黒柱になっていった。

しかし そんな ささやかな幸せな暮らしも それ程 長く続くことはなかった。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃以来 刻々 戦事色が濃くなり ヨネ達家族の暮らしも 次第に変わってゆき、 ついに 昭和20年の東京大空襲によって 全てが壊されてしまった。そして それまでの ヨネには 全く想像すら出来なかった方向に 人生が変わってしまうのであった。

 

 

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ヨネ物語(11) 「ヨネの青春」

2013年02月23日 23時33分45秒 | ヨネ物語

昭和16年1月に クニが 竹山永一と結婚し クニの養女であるヨネも入籍、「竹山ヨネ」となったが 話を 数年前に 遡ることにする。

河田良子の家の奉公を 約2年間で終えて ヨネは 巣鴨の家に戻っていたが 直ぐまた 有る人の伝手で 日本橋の小さな会社に就職することが決まった。昭和14年、ヨネ 16才の頃の話である。ヨネは 巣鴨の家から電車で通勤、ちょっぴり おしゃれもし 少しばかり 大人の仲間入りをしたような気分になっていた。そして まるで 羽ばたきを始めた小鳥のように うきうきしていた。しかし それまで 会社勤めの経験も無い 子供同然のヨネに与えられた仕事は 郵便局や銀行に使い走りする程度の仕事だったに違いない。それでも 職場は明るく 皆に可愛がられ 毎日が楽しくて仕方なかった。上司と出掛けたりすることもあって そんな時 銀座で 若松のあんみつを おごってもらったりしたこともあった。

そんな頃のある日 それまでのヨネには 全く想像も予期もしなかった 大きな出来事が起こった。巣鴨の家に 突然 実の兄徹郎が 現れたのである。ヨネがまだ 5才の年に 実母よ志が急死したことから 兄徹郎と弟は 他家に養子に出され ヨネもまた 親戚の家に預けられて その瞬間から 実父木村甚助とも 徹郎、博とも 生き別れの状態となり 消息すら不明で 育ったヨネであった。その頃には すっかり クニの娘に成りきっており 実父や兄弟の記憶は 消え去ってしまっていたと言える。

徹郎が 何故 その時点で どのように調べて 巣鴨の家に現れたのか ヨネには 分からなかったが 後年になって考えるに もしかしたら 養母クニとは ずっと なんらかの連絡を取っていたのかも知れない、そして ある時期、ある年令になるまでは お互い 会わない方が良いと考えていたのかも知れない、等と ヨネは 勘ぐったりした。

実の兄徹郎と分かった瞬間 それまで 他人の家族の中で育ってきたヨネ、物心ついてから 初めての肉親との再会に、こみ上げる涙が止まらなかった。そして この世の中に 頼れる兄が実在することを実感し 身も心も晴れ晴れ、有頂天になった。

それからのヨネは 徹郎と頻繁に手紙を交わし 示し合せて 渋谷のハチ公像前や 御茶ノ水駅前等で待ち合わせ 話をしたり 一緒に 銀座を歩いたり まるで 恋人同士のような時を過ごした。実の兄とのデートであっても ヨネには 逢い引きのような なんとも言えない快感があった。ヨネは それまで知らなかった いろいろな話を 徹郎から聞かされた。徹郎自身のことも 実際は 他家に養子に出されたのではなく 実父木村甚助の知り合いの鉄工所に住み込みで就職し、自力で 夜間の学校に進み ヨネと再会した頃は 明治大学の学生だったことも分かった。ヨネは そんな兄を誇りに思い 尊敬もした。そして 実父甚助は その後再婚し ヨネや徹郎にとっては 義妹になる 4人の女の子がいることも知った。弟博については 養子に行った先の家から 一切縁を切るという条件なため 会うことも連絡することも叶わないと聞かされた。実父も 長男である徹郎にだけは なにかと連絡を取っていたのだろうか。肉親の それぞれの境遇を聞かされて ヨネは 何ということだと 思うのだったが やっと 自身の血縁関係が分かるようになってきた。 

こうして 日本橋の会社で働き 徹郎と頻繁に会っていた数年は ヨネにとって 人生 最も美しい青春のページだったと 後年になって 思われるのだった。しかし そのウキウキした 青春の日々も 線香花火の如く 一瞬の輝きで終わってしまうことになるのである。

クニが結婚した 竹山永一には 出身地新潟に 沢山の親戚が連なっていた。そして その中から 突然 ヨネと結婚する男性が登場してきたのだ。ヨネには その男性と 見合いをした記憶も無い程だったが 大人達の間で あっという間に 話が進み 昭和17年 ヨネは 19才にして 結婚、子供を産み 家庭人となってしまうのである。やっと訪れた 青春時代を もう少し過ごしたかったヨネではあったが 当時 そんな風な結婚も 珍しくなかったのだろうか。ヨネは 少女から 一挙に 主婦となってしまい 徹郎とも疎遠にならざるを得なかった。丁度 徹郎の学徒出陣と重なったことも有ったのだが。

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あの日あの頃・・中学生日記・ノンチャン雲に乗る

2013年02月19日 10時25分39秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年7月17日、日曜日、晴、
「映画を 見に行った」
「姉妹」、「ノンチャン雲に乗る」

映画の内容は 全く覚えていないが そう言えば 見に行ったな という記憶がよみがえる。多分 学校で推薦した映画で 同級生と一緒に行ったに違いない。旧国鉄線の駅まで 徒歩で 30分、当時は まだ 蒸気機関車時代、映画館の有った 隣りの町までは 遠くへ行くという感じがしていた。

昭和30年7月18日、月曜日、晴、
「今日から 第4限かぎりとなる」
M男の通っていたO中学校では この時期 夏季授業として 授業は 午前中のみになった。午後は 遊び放題、子供達には 楽しい日々となった。
「初めて 水浴び(水泳)をした」
M男の集落から 徒歩で 20~30分程のところに 雨が降るとたちまち暴れる 荒れ川があったが 夏季は 水量が激減、ところどころに淀みが出来て 子供達のの絶好の遊び場となる場所があった。当時は 学校にも 周辺地域にも プール等 皆無だった時代 子供達には そんな場所で 飛び込んだり 浮かんだりして遊ぶ位しかなかったのだ。M男達は 水泳とは 言わず 「水浴び(みずあび)」と 言っていた。この夏 初めて 「水浴び」に行ったと 書いてある。多分 近所の上級生に 引き連れられて ぞろぞろ出掛けたのだと思う。

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あの日あの頃・中学生日記 「のま作り」

2013年02月19日 09時16分58秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳を見つけ出して以来 そのページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年7月14日、木曜日、晴、
「午後 腸チフス、パラチフスの予防注射」
すっかり 記憶から消えていたが 当時 確かに 有った。今では ほとんど 耳にすることが無い 「法定伝染病」について 学んだことが 思い出される。

昭和30年7月15日、金曜日、晴、
「薪物の のま作り、一人 3把づつ 藁を持っていった」
多分 冬期 各教室のストーブに使う薪木を 校庭の隅に積んで 乾燥させるため 雨除けに 藁の把を並べて 屋根代わりに覆ったが 確か それを 「のま」と呼んでいたような気がする。その 「のま」を作る材料 藁の把を 各自 3把、家から学校に持って行ったということだと思う。ほとんどの生徒の家が 農家だったからこその話であるが 午前中の授業時間に こんな課外授業?もしていた時代だった。 

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ヨネ物語(10) 「奉公、そして・・」

2013年02月18日 23時27分58秒 | ヨネ物語

ヨネが 皇后宮職御用掛 河田良子の家に奉公していた時期には クニも 頻繁に 食事に招かれる等していた。それは ヨネの養母だから 形式的にというのでなく クニの人柄の良さを知った良子が クニとヨネを まるで家族の一員のように 受け入れていたからだった。しかし 現実には クニは 家政婦をしながら 苦労していた時期であり その境遇に 良子は 毎度 心痛めて 再婚をすすめたり 相手を見付けてやりたいものだ等と考えていたようだった。

ある日 良子は 河田家に出入りしていた 新潟出身のあんま(マッサージ師) 道場何某から 同じ新潟出身で 後妻を探している男性がいるというような話を聞き付け、クニに 打診をした。クニには 全くその気は無かったが ヨネが 世話になり、自分のような庶民を 家族のように受け入れてもらっている良子の申し出を 無下に断ることも出来ず、話が進んでしまうことになった。
その男性、竹山永一は 郷里新潟から 上京し 当時 警察の用務員をしていた。同郷の 川口キミという女性と結婚したが 子供は出来ず そのキミも病死してしまい 独り身となっていた。当時 特に 田舎では 独り身の男は 「男やもめにウジがわく」等 言われ 世間体を気にしていた時代で 親戚関係で いろいろ 再婚の画策をしていたのかも知れない。

ヨネには どのように 話が進んだのか知る由もなかったが 昭和16年1月に クニは 竹山永一と結婚し 正式に婚姻届を出した。住まいは クニの巣鴨の家をそのまま使い 竹山永一が 戸主となり クニとヨネが入籍する形となった。クニは 「石澤クニ」から 「竹山クニ」となり ヨネも 「石澤ヨネ」から 「竹山ヨネ」と 改まった。ヨネにとっては 実父「木村甚助」、養父「阿藤源吉」に続いて 「竹山永一」が 三番目の「おとうさんとなったのだ。ここに 血のつながらない親子家族が 誕生し そこからまた 運命のいたづらが 続くことになる。

 

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あの日あの頃・・中学生日記・週番

2013年02月17日 22時28分52秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年7月4日、月曜日、曇、
「今日から 1週間 週番」
M男の通っていた O中学校は 1学年1クラスの小さな学校だったが 1週間毎の輪番制で 「週番」が 有った。学年、男女問わず だいたい 同じ集落の子供 5~6人単位で 班分けされていて M男達の班の番が回ってきたということだ。
「週番」は 通常より 30分程度 早く登校し 夏であれば 校舎内の窓を開けて回る作業、冬であれば 各教室に 薪や石炭1日分を 配り歩いたり ストーブに火を入れる作業等、下校時も ある時間まで 待機し 窓を閉めて回る作業、各教室を見回る作業等 いくつかの作業をこなし 最後に 教員室の前に整列し 担当教師に 「異状無し」の報告と「週番日誌」を 提出していた。もちろん こずかいさん(用務員)が 最終点検をしていたに違いないが 子供達の自主性や責任感等を 植えつける狙いがあったのかも知れない。

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あの日あの頃・・中学生日記・日食と映画

2013年02月17日 21時04分43秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は 自身が付けていた 昭和30年代の日記帳のページを捲りながら 喪失していた記憶のかけらを炙り出し あの日あの頃に思いを馳せている。

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昭和30年6月19日、日曜日、晴
「川原の北の畑の麦刈りをした」
全く 記憶に無かったが 確かに 当時 小麦を作っていて 粉にして 村の製麺所で うどんにしてもらい 家の座敷で 物干し竿に並べて掛け 乾燥していたような気がする。

昭和30年6月20日、月曜日、晴
「午後1時半頃 日食をみた」
部分日食だと思われるが ガラスの破片に 煤を付けて 皆で 見たように思う。 

昭和30年6月21日、火曜日、曇、
「P・T・Aなので 1限だけ」
「音楽、はにゅうの宿」

P・T・A(父兄会)は 年に1~2回、必ず有って たいてい 子供は 先に下校し 父兄は 担当教師との懇談や面談をしていた。
「中央劇場で映画を見た」
「緑はるかに」
確か 読売新聞の子供向けに掲載された物語を映画化したものだったと記憶している。不確かであるが まだ 子役の浅丘るり子主演だったかな?
当時 M男が通ったO中学校では 学校で推薦する映画だけは 映画館に 見に行って良しとされており この日 見に行ったのだろうか。
「(予告編) ゴジラの逆襲、風雪講道館」
そんな時代だったか?

 

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