たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

毎日やってくるメジロの番い

2013年01月26日 23時04分20秒 | 鳥・昆虫

強い寒気の南下、西高東低冬型気圧配置で 東北日本海側から北陸では大雪、当地も 放射冷却で 朝の気温は -2℃。日中は 日射しが強く 日向の気温は やや上がったものの 最高気温も 5℃前後と 寒い1日でした。

毎朝 雨戸を開けると直ぐ 待ってましたとばかり やってくる メジロの番いがいます。周辺の山や林に 餌となる木の実や虫が ほとんど無くなる季節、我が家の狭い庭先の小さな餌台のミカンでも 見逃すことはないのでしょう。サッとやってくるということは 人間が 必ず ミカン等を 餌台に置いてくれることを 記憶しているということになります。しかも 餌台と1mも離れていないベニカナメの茂みの中に身を隠して待機、近づいても 逃げる風もありません。野鳥とも思えぬ 馴れ馴れしさです。普通 1羽が 啄んでいる間 1羽は 見張り役、交互に啄んでいるのですが 今日は 番いが 仲良く並んで ミカンを啄んでいました。時々 ヒヨドが現れ メジロは 退散しますが すぐまた 戻ってきて ほとんど 1日中 姿が見れます。目の前の出窓から ブラインド越しに 1枚 撮ってみました。草木が芽吹く頃まで 毎年 繰り返している 我が家の風物詩です。

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スイミング再開・初泳ぎ

2013年01月23日 21時57分45秒 | スイミング

年末年始の休み明けに 検査入院有り、その前後も 仕事の都合、付き合い等で 結局 昨年末から 約1ケ月間 スイミングクラブ成人クラスレッスンを 休んでしまいました。その間 ウオーキングも ほぼ 休止状態。かなり 運動不足感が 高まってきました。今日は なんとか 間に合い レッスンに出席。今年の初泳ぎとなりました。ここらで ネジを巻き直し 早いとこ マイ リズムを 取り戻さねばと・・・。                                      やっぱり 泳いだ後の 心地よい疲労感、すっきり感は いいですね。


ヨネ物語(5) 「出会い」

2013年01月22日 16時06分59秒 | ヨネ物語

石澤クニは 明治24年9月に 埼玉北葛飾郡豊岡村鷹ノ巣というところで 石澤又蔵、キオの次女として生まれている。つまり 5才のヨネと初めて出会った頃は 30代半ばの女盛りだったと言える。当時 クニは 内縁の夫 鳶職の 阿藤源吉と暮らしていた。愛想の良さ、気風の良さ、面倒見の良さで 職人仲間や出入り業者、近所の人にも 評判の女性だったらしい。しかし 内縁の夫との間に 子供は無く 周辺の人に 「子供が欲しい」「子供が欲しい」と漏らしてはばからなかった女性でもあった。一方で 埼玉から上京して 30代半ばまで どんな生き様をしてきたのか、生涯 語ろうとしなかったのは 人に知られたくない さまざまなキズを持っていたのかも知れない。訳有りの女性という風でもあった。

ヨネと初めて出会った日以後 ヨネについての様々な話、噂がクニの耳に止まるようになった。そして 時々 ヨネが やってくるようになり、「おばちゃん」等と 呼ばれるようになっていった。薄幸の幼いヨネを見るにつけ この子は これからどうなるんだろう等と 心配する程になってしまっていた。親戚の家で 厄介者として 冷たくあしらわれ 決して 幸せになれそうもないと思うと 不憫でならず この子をなんとか 幸せにしてやりたいものだ等と クニの思いは 募るばかりであった。

クニの 「子供が欲しい」は 内縁の夫も 先刻承知で クニは 考え抜いた末 町内の世話人にも 口添えしてもらい ヨネの親戚の家に                              「以前から 子供が欲しいと思っていた。ヨネを養女にしたいと思っているが、いかがなものか」と 申し入れるに至った。

ヨネの実父木村甚助や 親戚の家の人との話し合いが どのような形で 行われたのか、ヨネには 全く分からないことだったが 結果として ヨネは 正式に クニの養となることが 決まったのだ。またまた 猫の子の譲り渡しの如く ヨネは 第三者のクニに引き取られることになったのである。

しかし ヨネにとっては 親戚の家で つらい思いをしていた所から 親切で 優しそうな クニの家で暮らせることになり 何よりも 嬉しいことだったに違いない。多分 大人達から       「おばちゃんの家の子供になるか?、どうだ?。」と聞かれ 「うん」と うなづいたのであろう。

実母との思い出や記憶も全く無く、預けられた家の人とは馴染めず、心閉ざしていたヨネが やっと 「お母さん」と呼べる人と暮らせるようになったのである。名前も 「石澤ヨネ」と改まった。ヨネ 満6才の出来事だった。


ヨネ物語(4) 「出会い」

2013年01月22日 09時12分07秒 | ヨネ物語

渋谷八幡通りに程近い、路地の奥のしもた屋に住んでいた 石澤クニは ある日 買い物の帰り道、家に直ぐ近くの板塀の前で 泣きじゃくりながら うずくまっている幼い女の子がいるのに気が付いた。普段 見かけている近所の子供では なさそうだった。               「どうしたの?」「おうちは どこ?」、                                   声を掛けても 返事が無い。身なりは ちゃんとしているものの、顔色は悪く 痩せ細っている。放っておけない性格のクニは 落ち着かせようと ひとまず 家に入れ 駄菓子等を与えた。よほど お腹がすいていたと見え 出されるものは みな食べてしまい やっと あどけない表情を見せた。                                                    「おうちは どこなの?」「いくつ?」、                                   クニのやさしい話し掛けにも さっぱり要領を得ない。どうも うちの人に 「言うことを聞かない子は うちの子じゃない。出て行け。」等と 怒られて 締め出され 歩き廻っている内に 道に迷い 戻れなくなってしまったようだった。名前を聞いても 「ヨネ」と答えるだけで らちが明かない。クニは 店先で一服していた 隣の大工の棟梁に 声を掛けてみた。            「この子、どこの子か知らない?」、                                    首をかしげた 気のいい おしゃべりな棟梁、                             「ちょっくら そこらへんで 聞いてみてくるから 待ってな」、                     と 言い放って さっと腰を上げた。まだまだ 世話好き、おせっかい焼きが多かった時代だった。しばらくすると その棟梁、一人の肝っ玉母さん風の女性を伴って 戻ってきた。その女性、「ああ この子、知ってるよ。1丁程先の角を曲がってから 確か 5軒目の家の子だよ。半年前位に 親戚から預かった子だってさ」                                    住民の情報が 井戸端会議風に伝わって 共有されていた時代でもあった。幼い女の子、しかも まだ慣れていない町では うまく 家まで帰れそうもない。                          「じゃ おばちゃんが 一緒に行って うちの人に よく話してやるから 帰ろう」、         クニは ヨネの背中を押すようにして 促し その家まで送って行ったのである。しかし その家の玄関で クニは 冷たい空気を感じた。幼い女の子が 他人の家で つらい目にあっていることが 伝わってきた。恐怖で 身体を固くしているヨネを 後ろ髪引かれる思いで 引き渡しながら、                                                        「また 今度 遊びにおいで」                                        と 言葉を掛けて 別れるしかない クニであった。しかし それは 5才のヨネと 後に ヨネの養母となるクニの 運命的な出会いの日となったのである。

 


ヨネ物語(3) 「出生・そして・・」

2013年01月20日 21時28分10秒 | ヨネ物語

その後 ヨネの親子は 再上京し 中野の野方というところに住んでいたという。野方には ヨネが 4才になるまで 暮らしていたとされるが ヨネには その記憶は全く無い。恐らく 東京郊外の 静かな田園風景の中で 家族5人、細々ではあっても 平凡、平穏な暮らしを送っていたに違いない。当時 兄弟に挟まれ 女の子1人とあって ヨネは 家族や近所の人から ずいぶんと可愛がられていたと 後年 旧い知人から聞かされたことを覚えている。

しかし その平凡、平穏な暮らしは 長く続くことがなかった。ヨネが 数えで 5才になった年のことである。ヨネにとっても 兄徹郎、弟博にとっても 運命が大きく変わってしまう出来事が発生したのだ。母親よ志が 4番目の子供を出産する際 生まれた子供と共に 亡くなってしまったのである。父親甚助が どんなに嘆き悲しんだか 家庭生活がどんなに追い詰められたか、幼い子供3人を抱えて 困り果てたに違いないことは 容易に推測出来る。または 再婚の話が持ち上がって 子供をどうするかということになったのかもしれない。いかなるいきさつが有ったかは 分からないが 結果として 兄徹郎と 弟博は 他人のところに養子に出されることになり、ヨネもまた 親戚関係の家に 預けられることになってしまったのである。4才のヨネには そんな大事態を理解出来るはずもなく 父親や関係者の言うことを聞いて 勝手違う家に 訳も分からず 引き取られて行くしかなかった。心細く 泣いてばかりいたのかも知れない。引き取られた家では 厄介者を預かったという風で 冷たくあしらわれていたという。その瞬間から 父親とは 隔絶状態となり ヨネは 成人する頃まで 父親のみならず 兄弟の所在すら知らされず 孤児のような存在で育っていくことになった。

父親甚助が 昭和6年2月に 柳萬善太の養女 柳萬ヨシと再婚し 東京市豊多摩郡渋谷町丹後に 所帯を構え その後妻との間で ヨネの妹になる 次女、三女、四女が生まれていたことを知ったのも ヨネが 18才に達してからのことであった。 

 


ヨネ物語(2) 「出生、そして・・」

2013年01月20日 16時37分32秒 | ヨネ物語

物語の書き出しは ヨネの父親 木村甚助が 谷川米吉の娘 谷川よ志と結婚した時からとする。                                                      

その前に ヨネの父親 木村甚助について 述べておかなくてはならない。甚助の実家は 長野県松本郊外、当時の本郷村惣社というところにあって どちらかというと 裕福な家庭だったようだ。甚助は その家の長男として生まれ 姉と二人姉弟。本来ならば 何不自由なく 幸せな人生を送れたはずの人だったそうだ。しかし 甚助の父親が 大変な遊び人で 妻子を置き去りにに 家を出てしまい 水商売の女性と暮らすようになったことから まだ 若かった 甚助の母親は 幼かった 2人の子供をその家に残して 追い出されてしまったという。家中心の考え方の時代だった。追い出された甚助の母親は その後 他家に嫁いでしまい 甚助姉弟は 生きながらにして 父母を失ってしまった訳けである。実家は 甚助の父親の弟が継ぎ 甚助と姉は それぞれ 親戚の家に預けられて つらい思いをして育ったという。

その木村甚助が 谷川よ志という女性と 大正10年5月20日に 結婚し 東京市北豊島郡三河島町大字三河島に 所帯を構えたという記録が有る。そして 同年 9月4日に ヨネの兄 徹郎が生まれている。親戚に預けられていた父親甚助が どのような過程で 上京し 当時 どのような仕事をしていたのか、どんないきさつで 結婚したのか等について ヨネは 一切 語ってもらうことは無かった。 

そして ヨネは 大正12年8月28日に 同所で 長女として生まれた。ところが ヨネが生まれて 4日目の 大正12年9月1日午前11時58分に あの関東大震災が発生し、当然 ヨネの記憶にはないが 親子共々 甚助の郷里 長野県松本郊外 本郷村惣社の知り合いを頼って 逃げ延びたという。ヨネの人生は 生まれた早々から 波乱含みであったと言える。

 


ヨネ物語(1) まえがき

2013年01月20日 15時35分05秒 | ヨネ物語

まえがき                                                    これは 大正12年に 薄幸の星の下に生まれ 運命の為すがまま 大正、昭和、平成の時代を 右に左に 必死に生きてきた 一人の名もなき日本女性の物語である。今 その人は 静かな時を迎え その長かった道のりを辿り始めているが もはや 語れる記憶は少なく、記録もほとんど無い。過去に聞き取った 断片的な とりとめのない回想をつなぎ合わせながら ささやかな自分史としてもらいたく 思いを温めている。

 


オホーツク海の幸 いただきました。

2013年01月19日 22時53分07秒 | 暮らしの記録

知床半島の付け根、オホーツク海に面した町 北海道斜里町出身の友人S氏から 今日 正月帰省の土産だとして 「さざ波サーモン」、「北のラーメン」を いただきました。

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未だに、北海道を 一度は訪れてみたいと思っている類ですが 知床半島、オホーツク海沿岸等々にしても そこに暮らしたり、そこが出身地の人にとっては 故郷であり いろいろな 強い思いが有るに違いありません。流氷は 接岸しているのでしょうか。遠いオホーツク海の風景を 思い描きながら オホーツク海の幸を いただくことにします。

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S氏の故郷、斜里町、いいところなんだろうな・・・・・


あの日あの頃・・懐かしきスキー遊び

2013年01月16日 21時51分38秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代~昭和30年代、M男の実家のあった北陸の山村では 毎年 1m以上の積雪は当たり前だったような気がしている。一晩で 50㎝位 ドカッと積もる日もざらにあったし、それが 「根雪」となって 冬中 地面を見ることが無い 白銀の中で 暮らしたような感じさえしている。それは 近年のような 除雪車両による 道路確保等ということは行われず ただ 人が歩くために 「かんじき」で踏み固めた1本の雪道を 隣家に行ったり、通学したりした 風景を思い出すからだろうと思う。春 雪解けが始まり 土手や 良く陽の当たる場所で ところどころ 黒い土が現れる頃までは 決して 人力で 地面まで掘り下げて 道路除雪しよう等とはしなかったのは 除雪してもまた積もる訳で 無駄な抵抗をやめ 自然の為すがままの暮らしだったんだろう。車社会以前の話である。時代が変わっても 冬の日本海側、特に北陸の気候が そんなに大きな変化するはずもなく 西高東低の気象状況を見る毎に 今 雪の無い暮らしをしているM男は 昔の風景を思い浮かべてしまうのである。

そんな雪の中の暮らしも 子供達にとっては むしろ 楽しい季節だったことは間違いない。M男が 小学校高学年から中学生になった頃 子供用のスキーが 普及してきて まだまだ 貧しい暮らしの中で 皆 次々と 買ってもらい 学校から帰ると直ぐ 近所の坂で遊んだり、はげ山でゲレンデ状態だった裏山まで遠征し 日が暮れるまで 遊んだものだ。

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スキー板の「金具」に 「フィット」と呼んでいた 皮のバンドを取り付けた簡単なスキーで 金具部分に長靴の先を掛け 長靴の踵に 「フィット」を掛け どちらかというと 長靴に縛りつけるような類のものだったため 思い切り転倒等しようものなら スキー板は 長靴から外れ とんでもないところまで 走って行ってしまったりした。ふにゃにゃした長靴では スキー板のコントロールを 出来るはずもなく ボーゲンさえ 難しく ほとんど 直滑降のみだったような気がするが 滑り降りては また てくてく登り 飽きずに 良く遊んだものだ。スキー板に 雪がこびりつかないように等と 蝋を、焼いたコテで 溶かしながら塗ったり スキー板の反りを変えよう等と荷重をかけたり 子供なりに いろいろ工夫した記憶がある。当時 スキー場の存在も知らず、スキー用品の知識も無かったM男には スキーは 完全に子供の遊び道具であり 長靴、学生服のまんまのスタイルも 当たり前だと思っていたが 後に スポーツとしてのスキー、華やかなゲレンデ風景等を知ることになる。  


検査入院あれこれ

2013年01月14日 07時19分00秒 | 健康・病気

年末年始休み明け、仕事モードに切り替える前のタイミングで かねてからの予約で 検査のための入院をしました。検査入院とは言え 2年前の泌尿器科手術入院に続き 人生 2回目の入院。入院直前までは あれこれ考え 緊張もしました。しかし いざ 入院してしまえば 「俎板の鯉」。観念するしかありません。

「内視鏡的造影検査(ERCP)」。上腹深部臓器の検査につき 外部からの超音波検査 CT検査等では 限界があり 内視鏡による検査(ERCP)が必要とのこと。一方で 検査に伴って生ずる危険性の説明も有って 本人のみならず 親族まで 同意書、誓約書の類にサインさせられました。

麻酔初体験・検査台で仰向けになり マウスピースを銜えるまでははっきりしてましたが 瞬間的に麻酔が効いて 意識が無くなりました。内視鏡を挿入する苦しさも痛みもまったく感じず 40数分後 遠くで 名前を呼ばれるような声が聞こえだし それが 次第に大きくなり 直ぐ耳元で 連呼する検査医達の顔が見えてきて 「終わりましたよ」という声に やっと我に返りました。

検査自体は 予想したより楽に終ったのですが 想定通り 血液中のアミラーゼ(?)の数値が異常上昇。基準値になるまでは 一切 飲食禁止。抗生物質等 点滴のみ、安静が必要 ということで こちらの方がこたえました。なかなか 基準値にならず 結局 4日間にわたり 約90時間、ベッドに拘束されました。

斯く斯くしかじか 当初の予定より 2日長く 6日間の入院となり 昨日 退院しましたが 体重は 3キロ減。なんとか 3連休明けの明日から 仕事モードに切り替えるべく 今日は 休養します。