たけじいの気まぐれブログ

スローライフ人の日記風雑記録&フォト

「田舎のバス」

2018年06月20日 09時30分00秒 | あの日あの頃(the good old days)

昭和30年代前半、M男は 北陸の山村で 1学年1クラスの小さな中学校に通っていた。
東と西に小高い山が連なり その間を 北の日本海に流れ込む川が走る盆地のような地形で 集落のほとんどは 山際に有り 水田の風景が広がっていた。
川に沿って県道(現在は国道)が走っていたが 当時は 自家用車等保有している家は皆無であり 走っていたのは 時々 貨物運送会社のトラックとか 商売用の車、1時間に1本とか、2時間に1本の路線バス位なものだったと思う。
当然 舗装等されておらず 乾いていれば 砂ほこりを上げ、雨が降れば 凸凹にたまった水を跳ねあげながら ガタガタ走っていく車の情景が 水田の彼方に見えたものだ。
M男の家は 一番近いバス停まで 歩いて15分~20分という部落だったこともあり 同じ位の距離に有った国鉄(現在はJR)の駅を利用することが多く、バスで どこかに出掛けることは まず無かった。

三方 山に囲まれたような地形だったこともあり ラジオの電波は極めて弱く、NHK第1放送が 雑音混じりで かろうじて聴ける程度であったが 茶の間の茶箪笥の上に鎮座していた中古のラジオは 家族団欒の中心的存在であった。
「ひるのいこい」「のど自慢」「三つの歌」「おとうさんはお人好し」「民謡を訪ねて」「とんち教室」・・、
祖母は 浪曲、母は 「君の名は」・・・、

記憶曖昧だが 多分 その年代に盛んにラジオから流れていた 三木鶏郎 作詞、作曲、中村メイコが歌っていた 「田舎のバス」を ふっと思い出してしまった。
M男は 当時 普通の歌謡曲とはちょっと違う 「田舎のバス」に 変な曲?位に 感じたり まさしく M男が 山村で見ているバスを 馬鹿にしている曲 位に 思ったものだが 今思えば 当時の田舎の情景、あの日あの頃を思い出させてくれる曲とも言える。

「田舎のバス」
YouTubeから共有させていただきました。

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「中学生日記より」その4 「ビルマの竪琴と埴生の宿」

2018年06月19日 16時50分10秒 | あの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」その1 「学校植林」
「中学生日記より」その2 「冬季五輪と猪谷千春」
「中学生日記より」その3 「アイスボンボン 10円」

「中学生日記より」その4 「ビルマの竪琴と埴生の宿」

昭和31年3月4日(日)、晴、
起床 6時、 就床 9時、
「1、映画見学、「ビルマの竪琴」、「宇宙人東京に現わる」 (中央劇場)、
水島上等兵の心には 明日 同隊の友だちと合える(会える)うれしさ、この喜びの中には 歌もあれ、琴の音もあれ、
けれど 行き道 見たのは それは 「無名きし(騎士?)の墓」とつけられた イギリス人が作ってくれた墓があったのだ。
これを見た 水島上等兵は 来る道に見た あのたくさんの死骸を思い浮かべ さんざんに苦しんだ。
そして 隊へ帰らず また山に行こうと橋まできた時 「ああ! 水島がいた・・・」、あの隊の人達が来るではないか。どきっとしたろう、いや 心臓がとまりそうになったかも知れない。隊の人の名前を呼んで 早く(隊に)戻るという気持ちも 今は(その時は)無し、苦しかったろう。あの我慢の強さ、僕には出来ない。長い間 山川をこえて 隊の者と合おう(会おう)と急いできたのに 隊に帰らなかった水島の本当の心がはっきりつかめないが 僕は 水島の責任感で 死骸になった日本兵が 自分がやったのだと感じて(思いつめて)しまい ビルマに残ったのだと思う」

当時 子供達に対して教育的映画として 文部省推薦映画が 次々有ったような気がする。まだまだ 映画館に 子供が行くこと自体 「不良」等という目で見られていた時代だったが そんな映画が 隣りの町の映画館で上映される際は 学校で 映画館行きを許可していた。
多分 「ビルマの竪琴」も 文部省推薦映画だったはずで 近所の従兄弟で同級生のTとつるんで 映画を観に行ったんだと思う。
誤字脱字だらけ、ちぐはぐな文章ではあるが 珍しく長い感想文風に書いてあり 余程 感動したからかも知れない。

映画「ビルマの竪琴」は 後年になって テレビの映画番組等で 何回か観ているが 感受性が強かった中学生の頃の感動が 一番なのかも知れない。
最も 記憶に残っているのは 宿営した山中の村落で イギリス・インド軍に包囲された小隊が 敵を欺くため 「埴生の宿」を 合唱すると それに呼応して イキリス・インド軍が 本歌 「Home Sweet Home」を歌い出し ビルマの密林に 敵見方を超えた大合唱がこだまするシーンだった気がするが 水島上等兵が 小隊と最後の別れをするシーンも 胸打たれるものがあった。

YouTubeから共有させていただきました。

収容所の小隊の前に姿を現した青年僧、隊員達が合唱する「埴生の宿」に 堪えきれなくなり 竪琴をかき鳴らす。
水島上等兵であることが分り 「一緒に日本へ帰ろう」と呼びかけるも 「仰げば尊し」の 「今こそ 別れめ、いざ さらば」のメロディーを残し て 森の中へ去っていってしまうシーン。

映画「ビルマの竪琴」は 1956年に公開された日活映画。
原作 竹山道雄、監督 市川崑、主な出演者、安井昌二、三国連太郎、浜村純、西村晃、北村谷栄、
1985年には 同じ 市川崑監督で 石坂浩二、中井貴一等が出演した東宝映画 「ビルマの竪琴」が 公開されているが M男にとって 「ビルマの竪琴」と言えば やはり 中学生時代に観た映画になってしまう。

 

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「中学生日記より」その2 「冬季五輪と猪谷千春」

2018年06月18日 08時48分16秒 | あの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」その1 「学校植林」、

「中学生日記より」その2 「冬季五輪と猪谷千春」

昭和31年2月1日(水)、
雨、起床 5時40分、
「(午前)5時55分のニュースで 猪谷千春選手が (スキー 回転で) 第2位になったそうだ。
第1回目の出場では 11位、それから 今(回)の2位、宮尾選手が 28位、
日本も 大ぶ よい成績だ。
日本は これまで 5回、冬季オリンピックに出場したけれど 第3位までにはいって 日の丸の旗を ささげた(あげた)のは (初)めてだ。
猪谷選手、ばんざい。
第7回 冬季オリンピックで 日本出場5回目に 日章旗をあげた」

1956年(昭和31年)1月26日から2月5日まで イタリアのコルチナ・ダンペッツオで開催された 第7回冬季オリンピックの 「回転」で 猪谷千春が 銀メダルを獲得、冬季五輪日本人初のメダリストになったことを 書いていたのだ。
当然 ビッグニュースだったはずだが 当時はまだ ラジオのニュースや新聞で知る程度で 昨今のような盛り上がりは無かったような気がする。
後年 冬季五輪の特集等の度に語られる猪谷千春の功績、
当然熟知していたM男だったが 自らの日記帳を覗いてみるまでは すっかり忘れていて それが 中学生の時の出来事だったことに 気が付かなかった。目から鱗である。

その大会では 当時のアルペンスキー種目 「回転」、「大回転」、「滑降」、全てで 金メダルを獲得、史上初、3冠に輝いた オーストリアのトニー・ザイラーがいるが M男は 猪谷千春のニュース程度しか 掴んでいなかったようだ。
その後 トニー・ザイラーは その美男子ぶりを買われて 映画界に入り 「白銀は 招くよ」等の映画に出演、一世を風靡したものである。
M男にとって 「冬季五輪」と言えば 今でも 「猪谷千春」と「トニー・ザイラー」が 先ず 脳裏に浮かんでしまうから困ったものだ。

昨今の冬季五輪、日本も スキージャンプ(男女)、スピードスケート(男女)、フィギュアスケート(男女)、ショートトラック、カーリング等々、メダル獲得数を予想する時代、隔世の感有りだ。

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「中学生日記より」その1 「学校植林」

2018年06月17日 08時12分31秒 | あの日あの頃(the good old days)

昭和30年代前半、M男は 北陸の山村の 1学年1クラスの小さな中学校に通っていた。
高校卒業まで過した実家は 長年 空き家廃屋の状態になっていたが 数年前に取り壊し(解体工事をし)、今はもう 帰る家も無くなってしまっている。
実家取り壊し(解体工事)するに当たっては 戦後60余年、一家がそこに暮していた証しとも言える 気が遠くなるような膨大な家財道具類、農器具類、雑物が有って その整理、分別、廃棄処分のため 数年間、足繁く 往復したものだ。
捨てることを一切考えなかった父母達、「なんで こんな物まで とってあるの?」と 呆れてしまうことの繰り返しだったが 中には タイムカプセルを開けるが如くの 一種 感動を覚えてしまうものも少なからずだった。

ある時、2階の押入れの整理中、その奥の奥から出てきたリンゴ箱(木箱)に詰め込まれた M男自身の小学、中学、高校時代の教科書、ノート、通信簿の類を発見?、懐かしくは思っても とっておくことも出来す ほとんどを潔く廃棄処分したが その中に混じっていた 腐食し始めて ボロボロの「日記ノート」が目に止まった。



M男の記憶からは完全に喪失していた物であり、半信半疑、ページを捲ってみると まさしく 中学生のM男の筆跡、日々 僅か数行が認められているような「日記ノート」であったが その一字一句から まるで 白黒ビデオを見るが如くに あの日あの時の情景さえも蘇る思いがして 感無量になってしまったものだ。
中学1年の6月から始まって 中学2年の8月で 途切れている 約1年2ケ月間の日記である。
第三者から見れば 汚いゴミ同然の代物であり いずれ廃棄処分しなければならない物ではあるが 一度目を通してみたくなり ダンボールに詰め込んで 持ち帰っていたのである。

持ち帰ったダンボール箱は しばらく放置したままだったが 3~4年前に 1度 「日記ノート」を引っ張りだし ページを捲りながら 以前のブログに書き込んだことも有った。
改めて また ページを捲りながら かすかな記憶を炙り出してみたいと思う。

「中学生日記より」その1 「学校植林}

昭和31年4月17日(火) 晴のち雨、
1、(朝) 雨が降りそうな天気だったけれど みんな(中学生やPTA)が (山に)集まって (植林を)やり始めた。そして 苗を担いで 植える所までいく。途中から 雨が降り出し 瞬く間に土砂降りとなった、完全に出来ないまま (植林は 中止となり)、10時頃 解散した。
2、昼からは からりと晴れて 宏達は 美山の祭りに行った。
3、PTAの人たちといっしょに、

昭和31年4月18日(水) 晴、
1、学校に行こうと 出かけた時 皆(中学生とPTA)が来て 今日は 植林をするということで さっそく帰って 支度をして 原山に行った。
2.11時頃 完全に終わって 引き上げた。
  千本ばかり 苗が余分が出た(余った)。(学生だけ)
3、昼からは 正君と バレーの練習しに行った。
  5時30分前帰り

PTA、中学生が ずらーっと1列に並び なだらかな斜面の下部から 1段づつ 上部へ、カッサビで穴を掘り、苗を配り、土を埋め戻し植え付けていったような気がする。

戦争を経て 全国で禿げ山化した山がどれだけ有ったのかは不明だが 戦後 そうした山に 杉や唐松等の苗を植林する運動が繰り広げられていた時代だったと思う。
記憶定かではないが M男の通っていた中学校は 当時 「全国学校植林コンクール」等という催しに参加しており 県単位だったかどうか その実績を表彰されたことも有った。当時 広大な禿げ山を抱えていた村と 積極的な中学校校長が 意気投合して行われたのかも知れない。当時は 学校植林も 教育の一環と考えられたような気がする。
M男達が植林したのは 唐松だったが 後年 見事な唐松林の山になった。しかし 時代は変わり 利用価値が無くなり 伐採されてしまい 今では その山全体が運動公園になってしまっている。

「全国学校植林コンクール」とも 関わっていたのだろうか。
「図工」の時間に 毎年 有る時期になると 「緑化ポスター」を描かされた。
通常の風景画、静物画とは 異なる感覚の ポスターの描き方、訴え方、
指導されても 見栄えのいいポスターが 出来なかったような気がする。 

「全日本学校植林コンクール」とは 現在の公益社団法人国土緑化推進機構の前身である「森林愛護連名」と 国土緑化推進委員会が中心となって 1950年度から実施された活動の一環だったようだ。

参考にさせていただいた「学校植林関連」ホームページ → 「貧乏小学校が日本一になった日」

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三人の先生の記憶

2018年03月20日 08時32分12秒 | あの日あの頃(the good old days)

昭和20年代、M男は 北陸の山村で 1学年1クラスの小さな小学校に通った。戦後まもなくの時代であり、表日本(太平洋側)や都市部の目覚しい復興をよそに、裏日本(日本海側)の 特に山村の暮らしの水準は上がらず 格差が大きかった時代である。
同級生のほとんどが農家の子供であり 着る物も 教科書も 上の子のお下がりだったり 近所の年上の子から譲られた物で 間に合わせていた子供もいた。
小学1年生の記念写真が1枚、アルバムに貼られているが 皆 栄養失調気味に痩せており 着ている物はみすぼらしく 足元を見ると ほとんどの子供は 藁草履を履いているのだ。
当時 ほとんどの家では 雪に閉ざされる冬の間の仕事のひとつに 藁草履作りもあった。
秋の収穫時に 大量の藁を納屋等に保管しておき 藁の束を槌で叩いて柔らかくし 草履やすんぶく(雪靴)、莚(むしろ)、米俵、カマス(袋状)等を 手間暇かけて 編んだり、織り上げるのである。
今の時代、趣味、手工芸としての草履作りの映像等を見ることがあるが、僅か60数年前の農村の貧しかった暮らしが連想されてしまう。

(1)温もりの有った O先生
小学1年の担任の先生である。幼稚園も保育園も無かった時代、M男にとって いきなり 初めての先生で有り インパクトが強かったのは当然のことだが まるで子供のM男から見ても かなり年輩の女性、おばあちゃん的な温もりのある先生だった。
1年生、2年生、1年間の担任である。



ほとんどの記憶は 忘却のかなたであるが 曖昧ながら 思い出すことがある。
雪が降り始める 初冬の頃だったかも知れない。
当時 まだ 長靴をおいそれと買う余裕の無い家が多く、大人も子供も すんぶく(自家製藁靴)を履いていたが 有る日 どこからかの救援物資的なものなのか?寄附的なものなのか?分らなかったが 1学年に 2足の長靴が割り当てられ くじ引きで当たった者が もらえる?ということだった。M男は 外れた。
M男の家は 学校から最も遠い集落に有り その大変さを O先生はわかっていて 多分 当たった家の人に相談し了解を得て 1足の長靴を M男にあてがったのだ。M男の家でも その当たった家に挨拶に行ったりしたようだったが 同級生の一部から ブーイングが起こり 「贔屓だ!、贔屓だ!」と 言われた。以来 「O先生は M男を贔屓している」というレッテルが貼られ 成績でもなんでも そんな目で見られたのだ。

(2)H先生が Y先生になった、
3年生、4年生、2年間 担任だった先生だ。教育学部卒業後の 新任先生だったのかも知れない。まるで子供のM男から見ても まぶし過ぎる美人先生で ど田舎の小さな小学校には 「はきだめに鶴」のような存在に感じたものだ。

透き通るような声で 一見 つんとすまして O先生に比べると 冷たそうな雰囲気が有ったが 子供のこと 本当はどんな女性だったか等 分るはずもなかった。
多分 4年生になってからのことだったと思うが 朝礼で H先生は Y先生に名前が変わったことが 校長先生から発表された。
結婚されたことによるものだが しばらく なにか変な感じで過したように思う。
教室では 大きな変化は無かったように思うが Y先生が ますます綺麗になっていったような記憶がある。

(3)初めての男先生、K先生、
5年生、6年生、2年間 担任だった先生だ。ごっつい感じの朴訥とした青年教師、小さな小学校故、人懐っこく 担任になる前から 子供達には人気があった先生であり 5年生、6年生は K先生と決まっているようなもので 違和感無しだった。



断片的なことしか思い浮かばないが 或る日 ある教科の時間に 「今日は 本を読んでやる」と言い出し 決して滑らかな読み方ではなく つっかえつっかえ、先生らしくない読み方であったが 読んでくれたことがあった。
未だに覚えているが 多分 途中までだったと思うが 「三銃士」だった。
M男の通った小学校は 同じ構内に中学校が有り 校庭、体育館、教員室、トイレ、全て共用している学校だった。M男が 中学に進学しても 運動会、文化祭、学芸会等は 小中合同のため K先生とは 中学卒業まで関わりが有り その後 ずっと年賀状のやり取りをし、それが未だに続いている。
後年 K先生は 退職し 市街地に住宅を建築したものの 郊外の農地付きの元の古い家で暮らし 「百姓をしている」と 年賀状に記してきた。多分 今も お元気なはずである。

 

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弥生さん

2018年03月06日 15時09分01秒 | あの日あの頃(the good old days)

昭和20年代、30年代、M男は 北陸の山村の 1学年1クラスの小さな村立O小中学校に通っていた。小学校と中学校の校舎が同じ構内に有って 渡り廊下で繋がっており 体育館、教員室、トイレ等 全て共用、今で言う 小中一貫校のような体を為した学校だった。
故に 小学1年入学から中学卒業までの9年間ずっと、同じ校舎で 同じ同級生と過したことになる。

M男が 小学校高学年の頃だったか 中学生になってからだったか 記憶定かでないが 体育館で 毎朝行われていた 小中学校全校生徒の朝礼で 後年になっても なんとなく記憶に残る ある表彰式が有った。
M男の2年上級の生徒 〇〇 弥生さんが 県単位の ある作文コンクールで最優秀賞を受賞し 校長が 特段に大きな表彰状を 〇〇 弥生さんに 授与した光景だ。
「こんな小さな学校の生徒が 県の最優秀賞を受賞した」という興奮が 校長はじめ居並ぶ教師から伝わっていたような気がする。
〇〇 弥生さんは M男の同級生 〇〇 孝一の姉だということも分り たちまち 「孝一、お前の姉ちゃ、凄いな」ということで 孝一もまた 注目された。
M男は 当時まだ 弥生が 3月の異称であることも あやふやだったと思うが 3月生まれの弥生さん・・と記憶して以来 毎年 3月頃になると ふっと 弥生さんのことが想い浮かんでしまうようになっている。

当時 O小中学校には 教頭で有り 中学の国語を担当していた H先生がいた。トニー谷風の容貌と眼鏡、鋭い眼光、ちょっと見 近寄り難い感じのする先生だったが とにかく熱い先生だったと記憶する。
そのH先生には M男達も 国語の時間、よく感想文を書かせられたり 日記を付けさせられたり 何かというと 作文の提出をさせられた。
農村の若者達、青年団に演劇を指導する等 草の根活動もされていたH先生、多分 読書好き?作文得意?の 〇〇 弥生さんに 目が止まり 指導し 作文コンクールに応募したに違いないと 思ったものだ。

ただ 〇〇 弥生さんが どんな生徒だったのか まるで思い浮かばないのである。
1学年1クラスの小さな学校とて 上級生も下級生も ほとんど名前、顔位 覚えられそうなものだが M男の家が 村落の中心からかなり離れていて 学校以外での生徒児童の交流が全く出来なかったこと、当時は 何事も 男と女は別行動、2年上級の女生徒の名前や顔等 覚えることは無かった。
後年になって つらつら考えるに あの賞は それほど大きな賞では無かったのかも知れない・・・と。
井の中の蛙、世間知らずの M男達には インパクトが有ったが。
ある種 憧れのように 弥生さん=文学少女 のイメージだけが 脳裏に焼き付いてしまい いまだに 「やよい」という響きに反応してしまうのである。


 

 

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ラッセル車に歓声

2018年01月29日 21時26分09秒 | あの日あの頃(the good old days)

昭和20年代、30年代、北陸の山村で 小学生、中学生だった。
学校は 村落の中心部に有ったが その直ぐ近くを 旧国鉄の線路が通っていて 大雪になると たびたび ラッセル車が出動していた。
当時は まだ 蒸気機関車の時代、記憶曖昧だが ラッセル車も 確か 蒸気機関車が押しているようなタイプだったと思う。
それでも 雪を飛ばしながら 疾走するラッセル車は 子供達にはカッコウ良く、校舎の窓から 一斉に歓声を上げていたものだ。
現在は もっともっと性能が良くなっているはずのラッセル車が 北海道、東北、北陸、山陰等で 大活躍している様子、数多のYoutubeで見ることが出来る。
もう 60年以上も ラッセル車が雪を蹴散らして疾走する雄姿を 目にしておらず 懐かしい。

豪快に排雪する宗谷本線ラッセル【DE15】

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振り返り記事 「七十四の瞳」

2018年01月27日 21時31分56秒 | あの日あの頃(the good old days)

gooブログから 丁度1年前に書き込んでいた記事が 届きました。
1年前のこと等 覚えているはずも無しの爺さんですが・・・、
「そう言えば・・・」・・・、
記憶が 蘇ってきます。

        2017年1月27日の記事
              ▼

 
七十四の瞳
M男は 昭和20年代、30年代、高校卒業まで 北陸の山村で暮らしていた。戦後まもなくの時代であり 都市部と地方農村部との暮らしの格差は 大変なものだったに違いなく とにかく 貧しか......
 

 

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振り返り記事 「かんじき」

2018年01月25日 21時20分44秒 | あの日あの頃(the good old days)

gooブログから 丁度1年前に書き込んでいた記事が 届きました。
1年間前に 何を書いた等 覚えているはずのない爺さん、
「そう言えば・・・」、
記憶が蘇ってきます。

            2017年1月25日の記事
                  ▼

 
あの日あの頃・「かんじき」
M男は 昭和20年代、30年代、高校卒業まで 北陸の山村で 暮らしていた。故郷を離れて60数年、子供の頃の記憶や印象も もはや 曖昧模糊となってしまったが それでも 特に 冬になる......
 

 

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昭和64年=平成元年

2018年01月07日 13時44分30秒 | あの日あの頃(the good old days)

来年 2019年(平成31年)4月31日で 「平成」が終わり 翌5月1日からは 新しい元号に変わることが 決まったようですが またまた 頭の切替をしなければならず 特に 年寄りは大変です。

昭和64年1月7日に 昭和天皇が崩御され 「昭和64年」は 7日間で終わり、翌8日から 元号が 「平成」と改められ 「平成元年」となったこと、今からまだ 30年前のことですので 当時の高揚した雰囲気等、さすがに まだ記憶に残っています。
ただ 戦前、戦中、戦後、と 長い間、「昭和」でなれ親しんで世代は、年齢計算する時等に まごついたりしたものです。
そして 来年 また 新元号になります。
昨年永眠した母親のことを 「大正、昭和、平成と 三代に渡って 生き抜いた・・・」等と 言っていた爺さんも 「昭和、平成、〇〇と 三代に渡って生き抜いた・・・」と 言われることになるんでしょうか。

昭和64年・平成元年は 西暦1989年でした。
その年の正月(つまり まだ 昭和64年)、どこで何していたんでしょうか。
古い写真が残っていました。

静岡県浜松市の妻の実家で正月を迎えておりました。
多分 三ヶ日の内の1日、ドライブを兼ねて 初詣。
現在は 市町村合併で 浜松市天竜区になっている 春野町領家にある 秋葉山本宮秋葉神社に 参拝していました。
祭神は 火防、火伏の神、秋葉大権現、

「平成」時代、長かったような、短かったような、
いずれまた 懐かしくなるんだと思いますが。

 

 

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