たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

謄写版刷りの演劇台本

2019年10月18日 09時01分16秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から30年代前半、M男は 幼年期、少年期を 北陸の山村で過した。
空き家になっていた実家は数年前に解体し 今はもう帰る家も無くなっているが ふるさとには違いない。
実家解体工事前の数年間は 大量の家財道具類等雑物整理処分のため 頻繁に通ったものだ。
菓子折り等の空き箱から、着なくなった衣類さえも捨てることをしなかった父母達が残した物が 
押入れ、物置、倉庫、納屋にぎっちり詰め込まれていて その分別、廃棄は気の遠くなる作業だった。
あの頃の疲労困憊した思いは 未だに語り草になっている。

そんなある日、2階の押入れの奥の奥に M男の子供時代の教科書、ノート、絵画作品、通信簿等がぎっしり詰め込まれた大きなリンゴ箱(木箱)を発見?
完全に記憶から喪失していた物が続々出てきたことで、
ある意味感動し、しばし手が止まってしまったことが有った。
懐かしがってばかりいる分けにはいかず ほとんどは処分してしまったが 
「おお!これは・・・」という 思い入れが有る何点かを持ち帰っている。
そんな中のひとつに、中学生時代の演劇の台本が有る。
謄写版(ガリ版)刷り、藁半紙(わらばんし)、10ページ、黄ばんで すでに腐食し ボロボロくずれそうな代物だが、
表紙には 昭和32年度 文化祭上演脚本 「学園物語」1幕(45分) 「全幅の愛情もて、子等に捧ぐ!!」 と 記されている。
この演劇の台本から 喪失していたはずの当時の記憶の欠片がじわじわ炙り出されてくるから不思議なことである。

鉄筆蝋紙に書き込んだ時の感触、謄写版で刷ってる最中の臭い、手の汚れ 等々、
なんとなく 蘇ってくる。
各ページ毎の字体が異なっているのは 何人かで手分けして作り上げたのだろう。

謄写版(ガリ版)
(ネットから借用)


M男が通っていたO中学校は 1学年、1クラスの小さな中学校で 小学校と校舎が繋がった併設学校だった。
当時 毎年11月には 小学校、中学校合同で 文化祭が行われていたが、
昭和32年(1957年)は どうも11月10日に開催されたようだ。
その翌年には 他校との統合が決まっていて O中学校最後の文化祭になるということで 力が入っていたのだと思う。
例年通り 各教室等で 図画工作作品、研究発表等が展示され、PTAによるバザー等が有ったはずで
それに加え、特別 体育館(講堂と呼んでいたが)で M男達中学生生徒全員による演劇上演が組まれていたのだ。

当時 O中学校で国語を教えていたH教頭
実は 地元各地で草の根演劇指導に情熱を燃やしていた教師であったことを後年になって知ったのだが 
そのH教頭の陣頭指導で M男達中学生が文化祭で演劇を上演することになり、
記憶曖昧だが 文化祭の半年前、田植えが終わった頃から その演劇の練習が始まったような気がする。
以後 週に何日か 放課後 練習が有るという日々となった。
H教頭の妥協を許さない気迫、激しい語気に M男達は 怯え 泣かされ続けた。
「やる気が有るのか・・・」「やる気ないならやめてしまえ・・・」「泣いて済むのか・・」「もっとさらけ出せ・・・」等々
H教頭の容赦ない怒号が飛び 時々は メガフォンを床にたたきつけて立ち去ってしまったりしたH教頭。
もともと 恥ずかしがり屋のM男等は演技する等大の苦手、逃げ出したい気持ちいっぱいだったが 
連隊責任を負わされ、最後までやりきるしかなかった。
次第に H教頭の術中にはまり 生徒全員が真剣に取り組むようになり、結束、絆を感じ始めたような気がしたものだ。

後年 東京オリンピックで金メダルを獲得したが 女子バレー東洋の魔女達が 鬼の大松に血のにじむような厳しい練習を強いられ、最後には 感涙の胴上げした姿を見た時 どこかダブって 共感を覚えたこともあった。

納得いくまで 帰してもらえず 時として 下校が 夜7時、8時になることも有ったような気がする。
現在だったら 大問題になるところだろうが 当時は まだ安全、安心の世の中、親も子供も 危険を感じることも無く、
街路灯等ほとんどなかった水田地帯の真っ暗な農道を 近所の従兄弟の同級生と帰宅したものだ。
記憶定かではないが 文化祭間近のある日だったと思う。
旧ソ連人類最初の人工衛星、スプートニク1号、2号を打ち上げた。下校時、見上げた星空の南天から北天へ、日本海方向に スーッと移動していく人工衛星を眺めながら 従兄弟と大感激したことも思い出される。
まだまだ貧しかった日本の山村の暮らしと 旧ソ連の人工衛星。子供ながら とてつもなく 世界との差を感じたような気がする。

「学園物語」上演は 文化祭当日 各種催しを一時中断し、児童、生徒、父兄 全員に 体育館(講堂)に集合してもらって 行われたのだと思う。
劇の筋書きは グレた生徒、規則を守らない生徒がいるクラスで 教師や父兄、生徒が なんとかまとまったクラスにしていこうと努力し 最後には 反省したり、改心したりして 心を通じる仲間になるというものだった。

本番の出来が良かったのか悪かったのかは M男達には分らないことだったが 終演した瞬間 長く苦しい練習を乗り越えてやっと終わったという安堵と感動で感無量となり 鬼だった?H教頭に駆け寄り 女子生徒等は 涙を流し合っていた気がする。
小学1年生から9年間 兄弟以上に長く一緒に過ごした同級生37人、
すでに 何人かは欠けているが 未だに気持ちの通じ合いを持っているような気がしている。
後年になって あれが本当の教育というものなのかも知れない等と思ったこともあった。

お粗末な舞台装置


行商のおばさん

2019年10月06日 08時12分34秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から昭和30年代前半、M男は 北陸の山村で 幼年期、少年期を過した。
太平洋戦争末期、戦禍を逃れ 東京から自主疎開した地(父親の郷里)に定住した家で育ったのである。
仮設住宅の如くの粗末な家屋で 水道もガスも無く、
飲料水は 山際に掘った横井戸から染み出る水を溜めたものであり、
五右衛門風呂(桶風呂)や 竈(かまど)、囲炉裏(いろり)の燃料は 
裏山から運んで乾燥させた薪(たきぎ)だったりした。
村落の中心部には 農協の販売部が有ったり 小さな雑貨屋も有ったが 
日々、買い物する習慣等は無く、自給自足の如くの暮らしだった。

一時期、隣りの町から 行商のおばさんが 重い荷物を背負い、幼い子供の手を引いて、峠を超えて歩いてやってきていたことがあった。
各家々の玄関の上がり框等で 荷を開け 商売をする形だが 農繁期等には 歓迎されていたようだった。
運んでくる商品は ヒダラ(乾した鱈)、スルメ、シオサバ(塩鯖)、ハタハタ、等 日持ちのするものばかりだったような気がするが、
お茶を出され、世間話等をし、長居する。
なんとも のんびりした光景だったように思うが
M男は その行商のおばさんが苦手で むしろ嫌っていた。
M男達子供を見かけると やたら大げさにおべんちゃらを言うのだ。
行商のおばさんも 生活が掛かっている分けで 大事なお得意さんに対する精一杯の営業努力の一つであり
一生懸命だったのだろうが、
子供には その辺は理解出来るものでなく 玄関で 行商のおばさんの大きな声が聞こえ始めると 身を隠したものである。
人は 褒められると嬉しくもなり 気を良くして益々張り切るものであるが 
M男は そんなことが トラウマになってしまったのかどうか、
大げさなおべんちゃらやお世辞を言われると 隠れてしまいたくなる性分になってしまったような気がしている。


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再開した場合は また よろしくお願いします。
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アサガオ

2019年09月13日 07時55分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昨日 隣家の塀で咲いていたアサガオの種に気がついた。

アサガオの種を見る度に 脳裏に浮かぶことがある。
多分、小学生の頃の夏休みの宿題のひとつだったと思われる
「アサガオ観察記」と その発表会の情景である。

最早 記憶は曖昧になっているが 昭和20年代後半頃、
M男は 北陸の山村で 貧しい暮らしの家で小学生高学年だった。
1学年1クラスの小さな学校で 何かにつけて 代表で引っ張り出されることが多く
アサガオ(朝顔)の発芽から 生育、開花、種採集までを 観察した記録を
太陽紙何枚かに 図解入りで描き、
講堂(体育館)で 全校生の前で 発表したことが有る。
多分 担当教師の指導の下、手助けしてもらったに違い無いが 
引っ込み思案のM男にとっては
モゾモゾ、ツッカエ、ツッカエ、逃げ出したい役回りであったと思う。
太陽紙に アサガオの絵を時系列に描いたと思うが
一番最後の絵は 黒い種の絵だったような気がする。

当時の農村では 現在のような多種多様な花を育てている家は 多分少なかったはずだが、
近所のどこの家でも アサガオ、ヒマワリだけは 毎年必ず育てていて 
未だに 夏=アサガオ(朝顔)、ヒマワリ(向日葵)が 連想されてしまう類で有る。

 

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盆踊りの記憶

2019年09月04日 11時05分44秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から30年代前半、M男は 北陸の山村で 幼年期、少年期を過していた。
当時は まだまだ 貧しい暮らしをしていた家で 当然 カメラ等は無く 
アルバムに貼って貼るセピア色の写真は せいぜい学校で撮ったクラスの集合写真位であり 
写真から記憶を炙り出すという手立ては無い。
記憶力減退し始めてから久しく、ボケも始まっている類の後期高齢者であり、
すっかり喪失しているような記憶を思い出すことは 難しくなっているが
何かのきっかけで ふっと記憶の欠片が思い浮かぶことがある。
直ぐ 何を思い出したかも思い出せなくなる類、
またすっかり思い出せなくなる前に ブログに書き留めることにしている。

先日 相互ブログフォロワー登録している九州の方のブログ記事を拝見した。
ツアー旅行で 「越中八尾おわら風の盆」を 訪ねられたという記事である。
風の盆は 哀愁を帯びた二胡と三味線に合わせ 歌い手と踊子が八尾の街の通り等を流す盆踊り行事、
毎年 大変な人気で大混雑のようであるが 1度は訪ねたいと思っていながら 未だに実現しておらず、
テレビ等からの映像や他人様のブログ、YouTube等で
居ながらにして、雰囲気を感じている類である。

子供の頃の話である。
村落の中央に 鎮守の森があった。
後年になって訪れた時 がっかりするくらい みすぼらしい神社と境内であったが 、
井の中の蛙・・、子供の目には 結構 立派に見えていたものだ。
毎年 8月13日~16日のお盆には その神社の境内で 盆踊りが行われていたが 
裸電球が 要所に取り付けられた程度で 参道、境内は暗く 
櫓の周辺、踊りの輪から外れると 人の顔も判別出来なかったと思う。
車社会以前の時代、懐中電灯や提灯をぶら下げて 出掛けたような気がする。
村内には 民謡が得意な人が何人がいて その人達が櫓の主役。
マイク、拡声器は有った気がするが 地声に近かったような気がする。
現在のような レコード等で音楽をガンガン流すような盆踊りではなく、
太鼓に合わせて 歌い手が歌い 踊り手が 合いの手を入れる類だった。

歌われたり踊られた盆踊り曲に 何が有ったか等 覚えているはず無しだが 
後年になって、かすかな記憶から
「あれはもしかして 越中おわら節だったのかも知れない」と思うようになった1曲が有り、
風の盆の話題が出る度 懐かしさが込み上げてくる。

なんとも ゆったり、哀愁を帯びた曲調、暗い鎮守の森の神社の盆踊り、
子供の心に これが民謡だと思わせたのだと思う。

記憶曖昧だが 歌い手が 1節歌い終わると 踊り手が一斉に
「若い衆やー 踊れー ♪」
「踊らんヤツには 砂まくれー ♪」等と 
合いの手を掛け、
歌い手が また 歌い出す・・・といった情景が深夜まで繰り返されていた気がする。

 

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懐かしい 旅の話に 花が咲き

2019年08月27日 09時26分42秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昨夜のおいらく三人男飲み会では お互い若い頃、昭和30年代、40年代頃の旅の思い出話等も飛び出しました。 
昔のことを懐かしがるのは最も老人の老人たるところと自嘲しながらも、
いちいち 頷いたり 共感したり。
超満員の夜行列車で通路やデッキに新聞紙を敷いて寝た話、東北の親戚まで中学生で心細い一人旅し、乗り合わせた大人達から親切にされた話、大阪から青森まで日本海側を寝台列車で旅した話、蒸気機関車に纏わる話、旧国鉄の時刻表を見ながら自分で旅を計画することが楽しかった話、遠く汽笛を鳴らして通過する夜汽車の風景が目に焼き付いている話、等々、
夫々 断片的に 良く覚えているものです。

小学生高学年だったか中学生になってからだか 記憶曖昧になっていますが 
疎開した父親の郷里に定住し 戦後 貧しい暮らしをしていた実家も、
やや落ち着き始めた頃だったと思います。
戦後初めて 祖母の東京近辺の何軒かの親戚を訪ねる旅が実現し
弟と同行、
北陸本線、信越本線、高崎本線経由で 上京したことがありました。
鈍行で、所要時間がどの位だったか等 覚えているはず有りませんが、
確か夏休み中で 冷房等無しの三等客車、扇子でパタパタ、
子供には退屈を極めた列車旅だったはずです。
写真も何も無く、途中の記憶が全く有りませんが 
碓井峠アプト式、横川駅の峠の釜めしの話が出ると
なんとなく 記憶が蘇るような気がするから不思議です。

YouTubeで 貴重な 「昭和38年頃の碓氷峠アプト式」の映像(動画)を見つけ 共有させていただきました。

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手提げ盆提灯の記憶

2019年08月15日 14時27分49秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から30年代前半、M男は 幼年期、少年期を 北陸の山村の小集落で過した。
当時の記憶の大半は すでに喪失、あるいは曖昧になっているが 
脳裏に焼き付いている断片的な記憶が ふっと炙り出されることが有る。

毎年 お盆になると、
手提げ盆提灯をぶら下げて 墓参りする情景が思い浮かんでくる。

多分 M男が 小学生高学年頃のことだと思う。
集落の各家の墓は 山裾だったり、森の中だったり ばらばらだったが、
夕暮れ時、各家が家族揃って 夫々の墓に 墓参りしていた。
多分 懐中電灯も全く無かったわけではないと思うが 
お盆の墓参りは 手提げ盆提灯をぶら下げて行くものだ、
と 思いこまされていたような気がする。
M男の家の墓は かなり遠い菩提寺の境内に有り 
日暮時 家族揃って歩いて行ける距離ではなく 
父親が 代表で墓参りをしていたような気がするが、
2~3回は やはり、手提げ盆提灯をぶら下げて 
墓参りした記憶が有る。

手提げ盆提灯、ネットから拝借


M男の暮していた小集落の周辺は 当時 街路灯等は皆無で 夜は真っ暗闇になる地域だった。
暗くなった 山道や田圃道を 遠く、近く、手提げ盆提灯がゆらゆら揺れながら進む情景は
子供心にも なんとも 印象的で 幽玄に思えたのかも知れない。

手提げ盆提灯は 折りたたんで まずローソクを立て マッチで火を点ける。
たいがいは ピンクや 薄い緑、青色で 朝顔等の絵が描かれていた。
子供が持って喜びそうな色合いで 子供用の提灯だと思っていた位だ。
作りは あまり丈夫でなく 直ぐ壊れる 使い捨ての感も有ったが。

いまでも 通販等で販売されているというが
夕暮れ時 手持ち盆提灯をぶら下げて 墓参りしたという経験を持つ人は 
次第に 少なくなっているのではないかという気がする。

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パタパタ、パタパタ

2019年08月10日 08時25分53秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代、M男は 北陸の山村で 幼年期、少年期を過した。
太平洋戦争末期、東京から戦禍を逃れ疎開した父親の故郷に定住した家だったが、貧しい暮らしが続いていた。
水道は無く、山際に掘った横井戸から染み出る水が飲料水で 真夏には 水が細くなることも多かった。
もちろん 冷蔵庫等無い時代、夏 畑で採れたり 近所からもらったりしたスイカ等は 
その貴重な井戸水を 盥(たらい)に張り、冷やすのにも使っていた。

昔も今も変わるはず無く 北陸の夏も結構暑い。
当時は どこの家もそうだったが、玄関、座敷、茶の間、台所、ありとあらゆる引き戸は 1日中、開けっ放しだった。
要所要所に、簾(すだれ)を掛け 目隠しをしていたが 今のような網戸等は無く 蠅(はえ)、蛾(が)、蚊(か)、蚋(ぶよ)等の出入り自由?
昼間 オニヤンマが悠然と 家の中を通過して行くのも珍しいことではなかったし 時々は 虻(あぶ)が紛れこんできて、昼寝の最中、刺されることも有った。
扇風機もまだ無かった時代(おいそれとは買えなかった時代)である。
簾越しに部屋を吹き抜ける風に涼を感じ、風が止むと、団扇(うちわ)、扇子(せんす)でパタパタ、パタパタ、
大人も子供も裸同然の格好で 過したものだ。

団扇・・・・当時 夏になると必ず 町の商店等 あっちこっちから 団扇が配られ 家中に 置かれていたものだ。
最近も イベント等で 配られることもあり たまりたまって 20本以上になっているが 実際 引っ張り出して使っているのは 2~3本である。

扇子・・・・最近は 外国観光客等にも 人気が有るらしい。高級感あるもの、かなり値段が高いものが多いようだが、
100円ショップで買った扇子でも なんとなく
夏の風情を感じるし、

「いいね!」である。 

当時の盛夏、日没で涼しくなり始めた庭先に出て 蚊取り線香(かとりせんこう)を焚き、
団扇でパタパタしながら、縁台(えんだい)で涼むことも多かった。
夏の始め頃には ホタルも 庭先までやってきたりし それを見たりするのも当たり前だと思っていた。
お盆の頃には、父親が隣り町からの帰宅途中、奮発して 線香花火やねずみ花火の詰め合わせみたいなものを
買ってきてくれたが 質が悪く がっかりもしたが 湿気った燐寸(マッチ)で 何度も点火失敗しながら 
庭先で大騒ぎしたものだ。
周りは田圃だった。夜中、カエルの大合唱が絶えることがなかったが うるさくて眠れないという音ではなかった。
就寝時も 寝所の引き戸は半開きで 外気を流通させていたため、蠅や蚊や蚋が出入り自由の家の中、 
電灯の近くにぶら下げた蠅取りリボンには 蠅や蛾がびっちりくっつき、
何ヶ所かに蚊取り線香も焚いたが、座敷、茶の間等に 大きな蚊帳(かや)を張り、大人も子供も その中で就寝した。
蚊帳の中に入る際は 蠅や蚊や蚋を入れてはならじと、
周辺を団扇でパタパタ、パタパタ扇いでから、
それ!と急いでもぐりこむのが 子供の常だった気がする。
今考えると 決して快適な空間ではなかったはずだが 
M男と歳の離れた弟にとっては蚊帳の中も天国、
はしゃぎ合い、何回と無く、蚊帳を引き千切ってしまい
網の下敷きになり その都度 吊り直したりした気がする。
蚊帳の中で 祖母が 子供が寝付くまで 団扇で扇いでくれていたことや、
時々 迷い込んだホタルが 消灯した部屋の蚊帳に止まって光っていたこと等、
その情景は 何時まで経っても 忘れないものである。 

周辺に 街路灯等皆無の山村の小部落、
夜は真っ暗闇だったが、
当時は 物騒とか 怖い、危険、等という感じがまるで無かった気がする。
今では 考えられない安全安心の日本が まだ有ったということだろうか。

最近 携帯扇風機?(手持ち扇風機?・ハンドファン?)が 出回っているようだ。
浴衣(ゆかた)に、携帯扇風機・・・・、は
「うーん?」
では あるが 
それも 次第に当たり前の情景となるのかも知れないし、
いつの日にか パタパタ、パタパタの 団扇(うちわ)や扇子(せんす)等 
死語になってしまうのかも知れない。

(ネットから拝借)


蒸気機関車

2019年06月30日 09時00分40秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から30年代前半、幼少期から高校卒業まで M男は 北陸の山村で暮した。
太平洋戦争末期、戦禍を逃れ 東京から自主疎開した地(父親の郷里)に定住した家で育ったのである。
バラックの如くの粗末な家屋、水道もガスも無く 飲料水は 山際に掘った横井戸から染み出る水を溜めたもので有り、
五右衛門風呂(ごえもんぶろ)竈(かまど)囲炉裏(いろり)の燃料は 薪木(たきぎ)だった。
猛暑の夏は 全ての引き戸を開け放ち、簾(すだれ)越しに外気を流通させ、団扇(うちわ)で涼を感じる位しか無く、
雪深く厳しい冬も 茶の間の炬燵(こたつ)火鉢(ひばち)、寝床には湯湯婆(ゆたんぽ)行火(あんか)で暖をとる位しか無かった暮らしだった。
集落には商店等は1軒も無く 食料は自給自足が原則、わずかな田んぼと畑で米や野菜を作る暮らしが続いていた。
野良仕事は家族総出が当たり前だった時代、長男で有るM男等は 小学校高学年位からは男衆の一員として 当てにされ 学校から帰ると直ぐ 田んぼや畑へかり出されたものだ。
小学校、中学校は 1学年1クラスの小さな村立の併設学校だった。
同級生のほとんどが農家の子供であり、転入転出も無く 9年間 全く同じ顔ぶれで過したのである。
田舎の中学卒業生は 当時は 金の卵等ともてはやされ、半数以上が 東京を中心に、大阪、名古屋等へ 就職していき、
地元に残ったのは 数人の高校進学組と 専業農家後継者という状況だった。
M男は 疎開者(よそもの)、極貧の家庭に有り 最後の最後まで 就職、進学を迷ったが、
担当教師が 何度も両親を説得し ぎりぎりで進学を決めたのだと思う。
親戚、知り合いから どんな目で見られていたかは分らないが プレッシャーが掛かっていたことに間違いなく、
レベルが違う 町の子?に負けてなるものか 歯を食いしばった気がする。



通学は 家から田んぼ道を30分程歩いた旧国鉄の駅からの列車利用になり、
それまでの暮らしとは一変、かなり緊張したような気がする。
丁度 旧国鉄が各路線で 電化やディーゼル化を推進していた時期だったのだと思う。
記憶曖昧だが M男が通学していた路線も 1年生か2年生の時、蒸気機関車からディーゼル車に変わった。
当時は 列車利用者が結構多く満員状態、M男達 高校生男共は デッキにたむろしていることが多かったが
途中に短いトンネルが有り トンネルに入るとたまらない。
時には 煤だらけになったりしたが そんなことも まるで頓着しなかった。
M男の高校生時代は 決して 明るい青春時代とは言い難かったが 
今に思えば それも青春・・・、
今に繋がっていると言える。
もし 「ウチはとても高校進学させる余裕等無い。本人には諦めてもらうしかない」等という両親に従っていたら、
蒸気機関車の列車で 通学することも無かったし その後 どうなっていたのだろうか。
まるで アミダクジに 1本 線を加えたり、1本 線を消すことと同じように、
随分 別の人生を歩むことになっていたはずである。 

蒸気機関車 (YouTubeから共有)




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こどもの日と鯉のぼり

2019年05月05日 06時17分11秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

5月5日、今日は 1948年(昭和23年)に祝日法により定められた国民の祝日 子供の日である。
「子供の人格を重んじ幸福をはかり母に感謝する日」と定義づけられているのだそうだ。
当地 絶好の行楽日和、
近所のお宅の鯉のぼりが 五月晴れの空に映えている。
10連休も後半、今日も全国各地の行楽地は大変な賑わいになっているに違いない。

最近は 住宅事情や少子化の影響だろうか、鯉のぼりを自宅敷地内で飾る家が少なくなっている気がする。
その代わり そんな鯉のぼりを集めて 大量の鯉のぼりを並べて飾るイベントが各地で開催されている。


戦後まもない昭和20年代、30年代、北陸の山村で 幼少時代を過したが、当時(今もそうかも知れないが)、4月から5月は、田打ち、代掻き、田植え等の農繁期であり、家族総出で野良仕事をしていた時代、
子供の日や端午の節句に因んだような思い出等は まるで無い。
ほとんどが農家の村落だった。鯉のぼりを飾る家等皆無であり、端午の節句を祝い、鯉のぼりを飾る風習は 都会の風習?、町の人がやること?だと思い込んでいた子供だった気がする。
鯉のぼりが泳ぐ情景は もっぱら絵本や童謡の中の世界で、憧れていたのだと思う。
後年になって、鯉のぼりが泳ぐ情景を初めて目にしたのは何時頃、何処でだったか記憶曖昧だが 異常に感動したような気がする。
高齢者になった今でも 鯉のぼりの情景に出会うと ちょっぴりときめいてしまうのである。

童謡 「こいのぼり」 作詞 近藤宮子 作曲 不詳、1931年(昭和6年)発表 (YouTubeから共有)

童謡 「鯉のぼり」 作詞 不詳、作曲 弘田龍太郎 1913年(大正2年)発表、 (YouTubeから共有)

は 中国で出世の象徴とされている縁起のいい魚なのだそうだ。
黄河の上流に竜門という険しい滝が有り そこを登れた魚は竜になれると言われていて 唯一登れて竜になったのが鯉だという話なのだ。
よく 音楽家や役者が一流になるために通過するコンクール等を登竜門と呼んでいるが その由来である。
端午の節句を祝う習慣は 奈良時代から貴族の間で有ったようだが 当時は 子供のお祝いではなく菖蒲や薬草で厄除け健康祈願することが主体だったようである。
鯉のぼりを立てるようになったのは 江戸時代からのようだ。
江戸時代、武家屋敷で男の子が生まれると家紋の付いたのぼりを立てる習慣が有ったが 縁起の良い鯉に置き換えられ 次第に庶民も真似して飾るようになり 定着していった。
初期には 黒い真鯉1本だったが 赤い緋鯉、青い子鯉が加わり家族を表すようになり さらに 橙や緑の鯉も加えた5色の鯉のぼりも人気となり、真鯉の上に厄除けとして吹き流しが加わっていったということなのである。

 



 

 


1961年(昭和36年)の 「誰!この女性(ひと)?」

2019年02月06日 14時09分10秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和30年代、カメラ等 とても所有出来なかった時代、他人様に撮ってもらったプリント写真は貴重であり、M男も たいがい アルバムに貼って 大切にしたものだ。
50年も60年も前の記憶等は どんどん薄れているが 古いアルバムに貼ってあるセピア色化した写真を眺めると 当時の情景まで炙り出されてくるから不思議なものだ。
  

1961年(昭和36年)、
当時 M男は 旧制高校時代のバンカラが染み付いた古い木造の自主学生寮に入っていた。
家からの仕送りがままならない貧乏学生の集団である。
毎年秋には 寮生による寮祭が行われたが その年の寮祭では 全寮コンパ、寮主催ダンスパーティー、等の他に 全寮生による市内仮装パレードが行われた。
どんな相談や打ち合わせが有ったか等の記憶は無くなっているが、多分 最下級生だったM男達は 最も恥ずかしい?仮装を強いられたのだと思う。
当時 既に 女性上位、尻に敷かれる旦那さん・・等という世情になりつつ有って、それを テーマにしたような仮装パレードだったような気がする。
女装用衣類、グッズ等は 先輩寮生達が アルバイト先や 付き合っている女性友達から大量に借り集めたものだったが サイズ合わせに 大騒ぎしたものだ
よくも学生の分際で 賑わう街中を伸し歩いたものだと 今思うにぞっとするが
「学生のやることだから・・・」等と それだけまだ 世の中 のんびり、余裕が有ったのかも知れない。 

誰! この女性?

遠い昔の写真である、

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