神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(241) 甲越 川中島血戦 68

2024年11月03日 19時45分29秒 | 甲越軍記
 越後勢は勇み立ち、どこまでもと追い立てる
真田吉兵衛は百十余人で踏みとどまり、追い來る敵に向かって引き返せば、真田一徳斎も逃げ足を止めて「さては背負うた我が子に教えられるとはこのことなり」と吉兵衛を追って越後勢の中に攻め込む
これを見た、保科、清野、市川もこれに励まされて一斉に取って返す
越後勢もまた同じく、後方に退いた村上、高梨も取って返し川田、石川と一手になって追い返し、追い討って戦う
敵味方名乗り合い、目釘の折れるまで打ちあえば、組んでは落ち、落ちては首を掻き切り、武田方には原。安間、原井、加井田、小曽根、高馬場、細井信濃、市川、小窪、高輪、寿多江らの勇士、数百人が討死、手負い数知れず

上杉方の大布施三郎大夫は越後にて大力無双の名を得たる者である
萌黄の糸にて縅たる具足を着し、大手を広げて群がる敵を片端から掴んでは投げ殺す、この者一人の為に清野の軍兵は乱れたつ
この時、保科弾正は大身の槍をりゅうりゅうとしごいて、高梨播磨の勢の真ん中について入り、猛虎の如く吼えて暴れまくり、八方に打って当たれば胸板貫かれて討死する者多し

ここに高梨源五郎頼治は「よき敵ござんなれ」とまっすぐに真田一徳斎に向かって突き進む

一徳斎も大喝して五、六合打ちあわせて戦うが、馬が早りて源五郎の思いのままにならず苛立ち、自ら馬の尻を太刀のひらにて叩けば、馬は驚いて一徳斎に近づいた
その時、源五郎は太刀を投げ捨てると同時に一徳斎に無手と組合い、馬より下に落ちる
そして組んずほぐれつ揉みあえば、力に勝る壮士高梨は一徳斎を押し伏せて、鎧の胸板の隙間から、二刀刺すところに、保科弾正が取って返して「真田を討たすな」と叫んで。高梨を助けにくる雑兵十六人を、ただ一人で防ぎ、一人残らず突き倒した
その間に、真田の家人、三好清兵衛、海野隼人ら十二人馳せ来たり
細谷彦助が高梨に組み付き、草刷りの外れ膝の上より打倒し、弱るところを引き敷いて高梨を押さえて首を掻き切る
今日の保科の見事さを世人評して、保科とは唱えず、槍弾正と褒め称える。

求めよさらば与えられん

2024年11月03日 07時53分37秒 | 宗教
 何気にテレビをつけたら平安時代の各地の仏像を探訪する番組で、思わずのめり込んでみる
千手観音、木彫りの観音像、私も行って来た鎌倉の長谷観音などが、その歴史と共に語られた。

明治新政府は天皇の神格化をより強めるために、神仏混合政策を行って、仏教を排斥して神道一辺倒に目を向けさせた
封建時代から西洋式文明開化を取り入れた新日本に、このような事件があったとは数年前まで知らなかった

各地で寺の本尊や仏像を処分するよう命令が出たそうだ、廃仏令だ
そんな中で、ある田舎の寺では村人たちが形式上、全員が神道に宗旨替えして政府に従ったが、秘密裏に仏像を神社に隠して御簾を垂らし、その前に神鏡を置いて隠し通したという
まるで江戸時代初期の隠れキリシタンそのものではないかと思った。

また戦国時代には近江のあたりは、とかく戦場になったので、その都度、村人は仏像が焼けるのを防ぐために土中に仏像を隠したという
そして戦乱が治まると土中から出して、川で泥を洗い流したという、そのことが芋洗いに似ているので「芋洗い観音」と言われたとか
木彫りの仏は今も数体収められているが虫食いが激しくて傷んでいる、それでも村人は今も大切に見守っている

「求めよさらば与えられん」はキリスト教の教えだが、仏教にも通ずる言葉だと思った
何を求めれば、何が与えられるのか? それを考えてみた
「お金が欲しい」と神仏に求めれば、お金を与えてもらえるのか?
それはありえない
では導師が言うことは嘘なのか、そうではあるまい・・・だが

ある時、思った 「知恵」とは何だ
知を恵む・・それが知恵
神仏は求める者に「知」を「知る」を与えてくれるのだと
悩みを解決するための「知」、ヒントを恵んでくれるのだ
思い悩んだことが、突然解決する糸口がひらめくことがある
あれこそが「天の恵み」、それも常日頃、悩みに真っ向から向かっているからこそ閃いてくる知恵、真っ向から向かうのは神仏に
それこそが「求めよ」に値するのだ、そして「知(解決法)」が与えられる
閃きは神仏の言葉の恵みに違いない、自分が考えたのではない、前向きに悩むことが天に通じて、ひらめきという形で告げられるのだ
ひらめきは己の能力から出たものと思いがちだが、それは違う
計り知れない全能の何かが与えてくれたのだと思った方が良い
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と人が唱えるが、それはあなたが唱えているのではなく、阿弥陀仏が、あなたの口を借りて唱えているのだという
信じるも信じないも人の勝手、この頃は、そう思うことが多くなってきた

フーテンの寅ネコが私の元にやって来たのも、親子の野良猫が私の目に留まって救い出されたのも、私が病気入院したのも、すべてに意味があると思う
それは人智では解決できない天の意思
抗わず、あるがままに人生を生きて行こう、それが最も楽に生きる方法だ。


夕陽は赤く-加山雄三


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(240) 甲越 川中島血戦 67

2024年11月02日 20時23分32秒 | 甲越軍記
 甲軍の騎馬百数十騎、勢いのままに攻め寄せれば、越軍高梨の伏兵は、たちまち三十数人が薙ぎ倒されて散々に逃げ惑う
吉口、平野、多々羅らはますます勢いを増して高梨の備えに突き進む
これを見て、越勢の村上義清、高梨播磨守は「あれを追い散らせ」という間もなく、どっと叫んで一斉に押しかかり、武田の騎馬百騎を一騎も残さず討ち取った

これにより、甲軍の春日、落合は大いに憤り、負けじと兵を進めれば、これに室賀、小田切、布施の軍兵も与力して越軍めがけて攻めかかる
甲軍の中より、成島、渡部、川井、外記、河野丹後、綿内、小幡因幡、唐沢らの勇士真っ先に突き進み、ただ一息に突き崩さんと敵の中に押し入り、勇み立つ
越軍からも村上義清、高梨播磨、小室、安藤、原田、上条、安中、横田、沼田らの勇将が打って出て無二無三に駆けたてて突き崩せば、甲軍はたまらず、こらえきれずに崩れたつ
小幡、綿内、川井、唐沢ら、それぞれに三、四か所の手傷を負って陣中に引き下がれば、代わって二の備えより、真田一徳斎、保科弾正、清野常陸介、市川和泉、味方を救えと言うままに勝ち誇る越勢にどっと懸かり、突き伏せ、薙ぎ伏せ七転八倒して戦えば、追い乱した越勢は散々に突き立てられて、村上義清は自ら槍をとって馬上より敵、六、七人を突き倒し、兵を励まして突きまわる

真田勢は「義清の首を取れ」と二百五十余人義清を取り囲む
義清も手痛く働けども、二か所の手傷を負って引き上げる
高梨播磨守も馬武者三騎、兵卒五人を討ち取ったが、自らも四か所の傷を負い、どっと崩れて敗走する

越軍の脇備え、川田対馬守、石川備後守、高梨源三郎の勢は味方が逃げるを見て、「村上救え、高梨助けよ」と二千余人鬨をあげて打って出る
大波が寄せる如く激しく打ちかかれば、武田勢は火花を散らして戦えども、望月甚左衛門、同甚八、川合備中らの勇士討死
崩れ発って敗走する、まさに追いつ追われつの激しい緒戦の様相也。




レコードの楽しみ方

2024年11月02日 08時38分38秒 | 音楽
 私がレコードを買い始めたのは中学二年生からで、20代前半までの10年足らずの短い期間だった
だから枚数もそれほど多くはない、何といっても高校時代は小遣いが、毎週500円だたからね
あの頃はSPレコード(2曲17cm)は330円くらい、EPレコード(4曲入り17cm)が500円、LPレコード(10数曲33cm)1800円くらいだったから、1か月2000円くらいの小遣い&お年玉で毎月2枚くらいは買えた
それで約60年間、今も手元にあるのはLP80枚くらいとEP+SP100枚くらい
レコードの期間は最初に書いた通り10年足らずで(夢中だったのは5年くらい)社会に出てからは住み込み生活だったので、機器も無くレコードを聴く時間も無かったので20歳以後はほとんど買っていない)
帰郷してからは車で遊ぶことが多くなってカセットテープに代わり、その後はCDへと移行して、レコードは忘れ去られた。

この頃、先のことを考えると、レコード世代でない息子にはお荷物以外の何者でもないと思い、処分も考えた
それで処分前に品質チェックと、もう一度聞きたい思いが重なって、少しずつ聞き直している

私のレコードは9割が洋盤で、その多くがロックとポップスだ
英語には興味なかったが、ビートルズから入ったので洋盤になったわけで、ほとんどが演奏とリズムのカッコよさに痺れていたのだった
因みに一番最初に買ったのは映画音楽(洋画)とクリスマスの曲のソノシートだった、SPレコードの初は「ラ.ノビア」(イタリア語)、LPレコードの初はミートザビートルズ、帯付きで持っていれば現在はかなりのレア金額で売れるらしいが、残念ながら帯は紛失してしまった。

ともあれ、レコードの聞き直しをしているが、聞き方に変化が起こった
なんで74歳まで気づかなかったのだろうか、もっと詞を聞くべきだった
今日、英語の詞をじっくりと聞いていたら、結構聞き取れる
曲というものはメロディと詞と演奏&歌い手で成り立っている、それなのに詞を無視していたのは75%しか楽しめなかったということだ
これを繰り返し聞いていたなら、苦手なヒアリングも得意になっていたかもしれない、残念だ
「キルヒーミ」とか「アイソユウ」「ドリームカムトウルー」なんてフレーズは良く出てきたが若いころは意味を知ろうともしなかった
「キルヒーミー」と聞いていたのは、Can you  hear me で「聞こえますか?」「アイソユウ」は「愛想云う」で無くて I saw  you  「あなたを見た(会った)」 I saw  you  comeback  to  me (あなたを見かけたわ 私の元に戻ってよ)  「ドリームスカムトウルー」はアーチスト名でもあるが「夢は叶う」
歌詞はビートルズの初期がそうだけど小中学校レベルの英語で構成されているのが多いから、初歩英語には向いている

ああ、もっともっと知ることが出来たのに・・・
そう思ったが、「過去を悔やむな、過去を振り返るな、そんな時間はない」がこれからの私のモットー
「前を見て、前に進め」これで行くのだ
故に、今からでも遅くない、正しい発音、正しいヒアリングをレコードで学ぶのだ
バカみたいに飲みに出ていて、中国やピリピーナのお姉さんと話していて、何度も彼女らが日本語を話すことが不思議でならなかった
上流階級の中国人やフィリピン人ならば語学も学ぶ環境にあっただろうが、日本に出稼ぎに来ている娘たちは貧しいがゆえに来ている筈(当時は、です)
昔、フィリピンに行った時、ガイドさんが「フィリピン人はアメリカの占領下にあったので誰でも英語を話しますが、学歴が高い程、完璧な英語を話します」と言っていた。
前置きが長くなったが、要するに語学を学ぶ機会が少ないにも関わらず、日本語を話せるのはなぜなのか、高校、大学を出てもまともに英語を話せない日本人が多いのに・・・

彼女らに聞いたら、多くが「日本の歌を歌いながら覚えた」と言った
今なら「日本のアニメで覚えた」と言ったところか
なるほど、今になって、それを思い出した
私も、今から英語のレコードを毎日聴いて、詞を聞いて覚えようと思うのであった。

PS
英語でも米国英語、英国英語がある、米国でもカルフォルニアとテキサスとニューヨークでは訛りが違うだろう、英国だってビートルズのリバプール訛りとストーンズのロンドン訛りではちがうだろう
レコード英語は米英と各地の訛りが入り混じったミックス英語になりそうだ。

  SP


  EP                    LP

オールデイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト/キンクス The Kinks - All Day and All of The Night

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(239) 甲越 川中島血戦 66

2024年11月01日 20時01分05秒 | 甲越軍記
 上杉政虎入道謙信は、上杉憲政に頼まれて上野に攻め下り、北條氏康と昼夜に渡り戦う
同七月には越中国へ向かい、神保左京進、椎名肥前守、遊佐、土肥、土屋など越中の諸将と戦って、これを追いつめ、あるいは信州に兵を出して、武田信玄と睨み合う

中にも、越中、上野では戦うごとに勝利して威を振るうことは朝日が昇るが如し
みな謙信の猛威に恐れをなす
ところが信州だけは武田信玄、名将なれば互いに睨み合うだけで少しも勝敗がつかない、未だ互いに何の益もなく雌雄を決する戦も無い
謙信は備えを固めて動かぬ信玄に苛立ち、快く矛先を交えんと、弘治二年三月下旬、大軍を持って信州に発向する

先備えには高梨政頼、村上義清、足軽大将小室平九郎、安藤八郎兵衛、脇備えには少し下って、川田対馬守、石川備後守、高梨源三郎、次に本庄美濃守、平賀久七郎、唐崎孫次郎
二陣には斉藤朝信、柿崎景家、北条長朝、毛利広俊、大関親益、
旗本の脇備え、安田上総介、鐵上野介、山吉玄蕃、吉江織部、須田右衛門尉
後陣には萬願寺源蔵、小島弥太郎、直江山城守、金津新兵衛
本陣に下がって、宇佐美定行、遊軍として新発田長敦、同因幡守、杉原壱岐守、そのほか、色部長実、柏崎日向守、甘粕近江守、平賀頼経、長尾平八郎、臼杵包兵衛はじめ諸大将、謙信に従い川中島へと向かった。

この時、武田信玄は信州伊奈に出陣有りて、所々に手配りをして城を攻められるところに謙信の川中島出張の報が伝わり、信玄公は山本道鬼を召して軍議を行う
山本が申し上げるには「上杉は近年上野、越中に攻め込み、これを討ち、その勢いはますます強大となっております、謙信が勇猛な上に軍兵もこれに加わり、その勢は甚だ強大であります
されども当家の虚を伺うこと叶わず無念に思い、無二の一戦を望んでいることは明らかです
謙信は木曽、小笠原ごときの敵とは違いますので、ゆめゆめ油断なさらぬことが肝要です」と云うと信玄も「我も、そのように思う」と返した。

いよいよ信玄も甲信の備えを決めて出陣となった
先備えは、春日弾正、落合伊勢守、布施大和守、室賀二貫、真田一徳斎、保科弾正、清野常陸介、市川和泉守
脇備えは飫冨兵部少輔、馬場民部少輔、飯島左衛門、駒澤新左衛門、小幡因幡守、河野丹後守
二陣は秋山伯耆守、甘利左衛門尉、長坂釣閑、小山田弥三郎、相木市兵衛、望月甚八、芦田下野守
後陣は原美濃守、遊軍に山本勘助入道、飫冨三郎兵衛、日向大和守、武田左馬介、そのほか二十二名の士大将を始め大軍を率いて川中島に出張った。

上杉と対陣したが、いつもの如く一分の隙も無い陣構えで対立すれば、甲州勢打ち出る気配ないとみて越後勢は足軽を使い、甲州勢が見守る目の前にて青田刈りの狼藉を始めた
青田刈りとは、敵地の田畑の稲や野菜を刈り取ることである、稲、麦は兵糧であり、武士たちの扶持米でもあるから、これをやられるのは痛手となる
それでも武田軍は陣から出る気配なく、越後の兵はますます敵を侮って、より近くの田畑まで刈り取る

春日弾正の足軽たちは、これを見ていよいよ憤慨した
そして「憎き草刈りの仕業かな、もはや許すまじ」と憤って百名ほどが馳せ出て越後勢の足軽を追い立てる
これには油断していた越後兵は大いに驚き騒ぎ逃げ惑うを面白がって追いかけていく
しかし、これこそ動かぬ甲州兵を動かすための謙信の陽動作戦であった
春日弾正の兵は深入りしてしまった、ここに越後方の高梨の伏兵が一斉に立ち上がり、弾正の足軽を包み込んで百名一人取り残らず討ち取った

これを見て春日弾正の陣より、吉口久左衛門、平野石見、多々良掃部などの勇士騎兵、百余騎がわめき叫んで高梨の伏兵に襲い掛かった。