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たけじいの気まぐれブログ

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杉本苑子著 「終焉」

2019年01月08日 08時35分03秒 | 読書記

図書館から借りていた 杉本苑子著 「終焉」(大活字本)を 読み終えた。

 (大活字本)

杉本苑子著 「終焉」

江戸時代中期、すでに銀の産出量が激減し、大凶作に喘ぐ石見銀山領の支配を命じられた井戸平左衛門が 自らの資財を投げ打ち、新しい農政を施行、法を犯してまで農民救済に最善を尽くした 悲壮なる終焉を描いた作品だ。
井戸平左衛門、名は 正明(まさあきら)または正朋(まさとも)、
寛文12年(1672年)生、享保18年(1733年)没、
徒役(かちやく)野中八右衛門の子として生まれ、井戸正和の養子となり、小普請、表火番を経て 勘定奉行所につとめる井戸平左衛門は、お役ご免、楽隠居するはずだった60歳にして 石見銀山領支配、大森代官所代官の赴任命令を受ける。
物語は 病身の息子伊織と控え目な嫁千尋、可愛いい盛りの孫娘お寿栄を江戸に残し 自らも腹部に病根を持ちながら 江戸から三百数十里 40日~50日もかけて石見に赴くというところから始まっている。
享保の大飢饉では 領民救済のため 幕府の許可を得ず 年貢の減免、年貢米の放出等を断行、救荒作物として サツマイモを入手し、種付け、期待通りの成果が上がらなかったものの 福光村の老農 松浦屋与兵衛が収穫に成功、その後 石見地方を中心として栽培され多くの領民を救い、山陰、山陽、九州だけでも 10万人を越す餓死者が出たにもかかわらず 石見銀山領では 一人の餓死者も出なかったという。
そのことは 今日でも尚 石見地方で 井戸平左衛門のことを 「芋代官」、「芋殿様」と呼び 敬愛していることで分る。
井戸平左衛門は 備中笠岡の陣屋で死去したことになっているが 死因については 救荒対策の激務の過労と病状悪化による病死説と 幕府に許可を得ず独断で 領民救済を断行した責任をとった切腹説が有るようだ。
幕臣たる者、いかに 領民救済のためとは言え 幕府のルールを無視した責任は重大。それを認めると 幕藩体制に示しがつかなくなる幕府の忖度が有ったのかも知れない。物語で 作者は後者をとっている。
井戸平左衛門死後 石見地方を中心に 数百の供養塔や頌徳碑(芋塚)が建てられ 明治になってから 太田市大森町には 井戸平左衛門を祀った井戸神社が建立された。
短期間に不正を正し 領民を救った 井戸平左衛門の功績は大きく 歴史に残ったが、一方で 病根持つ老人の覚悟と悲哀、家族愛、有無を言わさず遠国に赴任させる武家社会の非情さが 隠されている。
作品の内容等 まるで予備知識無しで たまたま手に取った書だったが 世界遺産に登録されている石見銀山に纏わる歴史上の人物を描いた作品だったことで またまた目から鱗となっている。


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