9月21日、教育テレビのETV特集で
「手の言葉で生きる」という番組を見た。
平塚ろう学校に通う児童やその親たちを取り上げ、
手話で生活するということとは何か、
そして共生社会とはを考えさせてくれる。
当校は、珍しく手話を容認するろう学校。
普通のろう学校は、聴覚障害のある児童には手話を禁じ、
口話を教え、健常者の社会に溶け込めるようにしてきた。
だが、手話は、聴覚に障害がある人にとっては
コミュニケーションを豊かにし、自己表現するための
重要なツール。
それを奪い、障害者を健常者に融合させようという
考え方は見直されつつある。
ただ、手話は、普通の日本語と同じ語順ではあるが、
助詞がないなど、厳密には異なる。
また、聴覚障害者たちが通常使う手話は、
テレビや手話講座でやるものと多少違い、
省略があったり、より表情を使ったりする。
そこで、手話だけでは、やはり日本語がままならなくなるため、
平塚ろう学校でも、教師が暗中模索しながら、
小学1年の児童に日本語の文法を教え、
子どもたちも懸命に学ぶ。
また、番組ではこんな場面もあった。
児童の一人が、手術で頭に埋め込んだ
人口内耳を使うのを拒否し、親もそれを支持し、
手話で会話することで家庭が円滑になっている。
だが、人口内耳を入れた医師は、
言語を獲得するこの時期に練習しないと
社会では生きていけないと警告する。
これに対し、その親は、かつて自身も
どうにかして子どもに口話してほしいと願い、
人口内耳に踏み切ったのだが、
手話によるコミュニケーションの意義に気付き、
医師の忠告を鵜呑みにせず、
どうするかは本人が判断できる年になってから
判断してもらえばいいと話す。
聴覚障害者を「できない人」として捉え、
できるようにするアプローチをするのか、
その人なりの文化を尊重し、
かつ共に生きる道を探すのか、
社会のあり方が問われるところである。
「手の言葉で生きる」という番組を見た。
平塚ろう学校に通う児童やその親たちを取り上げ、
手話で生活するということとは何か、
そして共生社会とはを考えさせてくれる。
当校は、珍しく手話を容認するろう学校。
普通のろう学校は、聴覚障害のある児童には手話を禁じ、
口話を教え、健常者の社会に溶け込めるようにしてきた。
だが、手話は、聴覚に障害がある人にとっては
コミュニケーションを豊かにし、自己表現するための
重要なツール。
それを奪い、障害者を健常者に融合させようという
考え方は見直されつつある。
ただ、手話は、普通の日本語と同じ語順ではあるが、
助詞がないなど、厳密には異なる。
また、聴覚障害者たちが通常使う手話は、
テレビや手話講座でやるものと多少違い、
省略があったり、より表情を使ったりする。
そこで、手話だけでは、やはり日本語がままならなくなるため、
平塚ろう学校でも、教師が暗中模索しながら、
小学1年の児童に日本語の文法を教え、
子どもたちも懸命に学ぶ。
また、番組ではこんな場面もあった。
児童の一人が、手術で頭に埋め込んだ
人口内耳を使うのを拒否し、親もそれを支持し、
手話で会話することで家庭が円滑になっている。
だが、人口内耳を入れた医師は、
言語を獲得するこの時期に練習しないと
社会では生きていけないと警告する。
これに対し、その親は、かつて自身も
どうにかして子どもに口話してほしいと願い、
人口内耳に踏み切ったのだが、
手話によるコミュニケーションの意義に気付き、
医師の忠告を鵜呑みにせず、
どうするかは本人が判断できる年になってから
判断してもらえばいいと話す。
聴覚障害者を「できない人」として捉え、
できるようにするアプローチをするのか、
その人なりの文化を尊重し、
かつ共に生きる道を探すのか、
社会のあり方が問われるところである。