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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ブラックジョーク一発!大城県教育長がコンプライアンスだって(爆)

2012-01-20 08:19:31 | 八重山教科書採択問題

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          ☆

八重山教科書問題は、新年とともに忘れてしまったかのような沖縄タイムスだが、18日、県教委に動きがあったようで久しぶりの関連記事。 だが、小さなベタ記事では読者も見落とすだろう。

昨年、半年にも及んだ「発狂報道」は、今では忘れて欲しい汚点だったのだろうか。

■沖縄タイムス 1月18日

竹富町の主体性
県教委「尊重」
定例会従来方針を確認

県教育委員会(安次富馨委員長)の定例会が18日、県庁であり、大城浩県教育長が八重山地区の中学公民教科書採択問題について、昨年12月までの経緯や今後の対応について報告した。
大城教育長は「コンプライアンス(法令順守)の観点から、無償措置法と地方教育行政法を成立させることが大切だ」と、県の従来通りの方針を強調、その上で「文科省は竹富町に判断を求めているが、竹富町の主体性を尊重しながら事態を見守りたい」とした。

             ☆

法令無視の慶田盛竹富町教育長を熱烈支援してきた大城教育長の口から「コンプライアンス(法令順守)」の言葉が出てくるのはブラックジョークの類と笑って済まそう。

だが、狩俣県課長を石垣市に派遣してまで、八重山採択地区協議会の選定に不当介入しておきながら、今頃になって「竹富町の主体性を尊重しながら事態を見守りたい」はないだろう。

これでは慶田盛竹富町教育長は、調子に乗って2階で騒いでいたら梯子をはずされたようなものではないか。

「無償措置法と地方教育行政法を成立させることが大切だ」などと寝言を言っているが、特別法(無償措置法)が一般法(地方教育行政法)に優先することは法律の常識であり、当日記も再三無償措置法の優先を主張してきた。

文科省も閣議決定で次のように答弁しているではないか。

無償措置法が優先 八重山教科書問題で閣議決定

琉球新報 2011年10月8日      
 【東京】八重山地区の教科書採択問題について文部科学省は7日、
無償措置法が地方教育行政法に対し、部分的に優先するとの見解を示す答弁書を閣議決定した。

同じニュースを捻じ曲げて伝える沖タイ⇒酷すぎる捏造記事!沖タイの「政府答弁書」


県教委は本来なら自分が熱烈支援した竹富教委が暴走したわけだから、ここまで来たのなら竹富町教委とタッグを組んで文科省に立ち向かうのが当然だと思うのだが、「事態を見守りたい」とはあまりにも無責任ではないのか。

大城教育長の上司は新任の安次富馨県教育委員長。

しかも任期は僅か一年という。

部下の大城教育長の失態を叱責する見識も経験もない。

一方事実上の県行政の最高責任者の県知事は「教育への政治的中立」というきれいごとを盾に「我関せず」の無責任体制。

これでは大城教育長はどんな失態をやらかしても、平気でお仲間の「極悪複合体」の意見を繰り返しておけば地位は安泰なのである。

民意である選挙の洗礼を受けた県知事が失態を叱責できない治外法権地域で、選挙の洗礼を受けていない大城県教育長が遣りたい放題を行っているのが県教育行政の現状である。

橋下大阪市長が「教育委員会をぶっ潰す」と発言する理由が良く理解できる沖縄の現状である。

■八重山日報 1月18日

教科書問題
育鵬と東書比較
教育自治を守る会
市に全戸配布へ

 八重山の教育自治を守る会(鳩間昇代表)は、教科書問題の経緯
を紹介するパンフレットをこのほど作成した。石垣市、与那国町が
採択した育鵬社版が、国の学習指導要領に基づいた内容であること
を強調している。今月中に石垣市の全戸に配布予定。
 パンフでは育鵬社版と、竹富町が採択した東京書籍版の内容を比
較。尖閣諸島や自衛隊の記述に差があることを挙げ「どちらの記述
がふさわしいでしょうか」と問いかけている。
 育鵬社版に対する「憲法無視」「戦争賛美」という非難に根拠が
ないことを指摘。竹富町の主張は「主観的域を出ず、説得力を持ち
ません」としている。本来の教科書採択の流れと、八重山地区での
出来事の流れを表で比較することもできる。
 石垣市のほか竹富町、与那国町でも配布する方向で検討を進めて
いる。鳩間代表(74)は元校長で、教科書問題に対する住民の理
解を深めてもらおうと会を結成した。「学習指導要領に誠実に準拠
しているが育鵬社の教科書。これだけ教科書問題が騒がれているの
だから、内容を住民に知ってもらいたい」と話している


記者の目
○…八重山の教育自治を守る会が、教科書問題で一般住民へのパン
フレット配布を計画している。報道で大きく取り上げられながら
「教科書問題」とは実はどういう問題だったのか、理解している人
が意外と少ないのが現状。鳩間代表は「考え方が固定している人は
読む気もしないと思うが…」と懸念しながらも「多くの人に知って
もらいたい」と願う


        ☆

石垣在住の読者のメールによると、八重山毎日との間に次のような経緯があったとのこと。

今回のパンフレットの件、八重山毎日新聞社の方へ折込み依頼
したところ、担当者曰く「政治…的…?教育…問題…?なんだかん
だと的外れなお答えで断られたそうです。」で、今回は石垣島で
頑張っているフリーペーパー「ガラパ」さんにお願いするそうで
す。各家庭に届けば、何かの機会に目を通してくれると思います。≫

いやいや、驚いた。

八重山毎日の口から「政治的問題・・・・??で、断る」って?

これも良くできたブラックジョークの一種ではないか、「発狂3紙」の報道そのものが反日左翼の宣伝ビラの類ではなかったのか。

現在も連載中の沖縄タイムス「第一部 風は南から②教育と政治」には、育鵬社版公民教科書について「天皇制や軍事を色濃く出した育鵬社版教科書」などの文言があるが、この記述がどの部分に相当するのか説明できる人はいないだろう。

ならば、発狂新聞の恣意的印象操作を排除し、教科書そのものを読み比べるのが八重山住民、いや全県民の希望すること。

読み比べられると、これまでの「発狂3紙」のデタラメ記事が白日の下に曝される。

八重山毎日は、それが怖くて断ったのだろう。(笑)

                    ☆

【付記】

上原正稔さんの琉球新報に対する「言論封殺訴訟」の第5回公判は1月24日那覇地裁で行われますが、上原さんは沖縄戦の研究の他に、得意の語学力を駆使しサンスクリット語によるウチナー口(沖縄語)の解明にも没頭しておられる様子。

詳しくは、上原正稔公式サイトをご覧いただくとして、とりあえず第2弾「ウチナー口の起源・序章」¥525(税込)の一部を紹介する。

電子書籍でも購入可との事ですから、沖縄語の解明に興味のある方は、ご一読をお勧めいたします。 

これを読むと沖縄の論壇で持てはやされ、大城立裕氏もファンだという知念うし(ウシー)氏が、大きな勘違いをしていることがわかります。

第2弾「ウチナー口の起源・序章」¥525(税込)
  上原正稔はこの数年、図書館に通い詰め、2011年初頭「ウチナー口の起源・序章」と題する小冊子を発行し友人、知人に配られた。新聞で紹介されることはなかった。その内容は正にアッと驚くものだった。これまで意味不明だった無数のウチナー口が見事に解明されたのだ。
 カナー、カマドゥ、ウシー、カニメガなどの女性の奇妙な名前に神々しい意味があることが判明したのだ。さらに、北谷、伊是名、目取真、田名、我謝などの意味のつかみ所のなかった人名、地名100ほどの詞の神聖な意味を明らかにしたのである。これだけではない。極楽でもあれば地獄でもあるとされてきたニライカナイの真実が明らかにされたのだ。

 

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コメント (8)

木曜日はFMラジオ・生バトルの日です。

2012-01-19 07:23:02 | 県知事選

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本日19日(木)は毎週木曜日に放送されるFM21の「生バトル・ラジオ」の日です。

ご承知のとおり沖縄のメディアは、発狂3紙を筆頭にテレビ、ラジオも反日左翼の極悪複合体に占拠された状況にありますが、八重山教科書問題を切っ掛けに従来の反日左翼の目に余る言動が、逆に良識ある県民の目を覚ます結果となり中立報道に徹した八重山日報は購読部数を大きく増やしたと聞きます。

そんな中先週は小さいながら中立報道で頑張るラジオFM21のことを紹介したところ、大きな反響があり是非毎週聴取したいというメールが沢山入りました。ただ、ついうっかりして聞き漏らしたと残念がる人もいましたので、本日も再度お知らせいたします。 毎週木曜日の午後10時はFM21ラジオの時間とカレンダー等に記入いただければ幸いです。

なお生バトルに出演できない方は前もって番組のメルアドに意見を書くのも一つの参加だと思います。

なお電波の届かない地域でもパソコンで聴取できますので、是非本日の午後10時はF21の生バトルを聴いて、感想文などいただければ幸いです。

メルアド及び聴取サイトは、以下にパーソナリティの「わんぬうむい」さんのコメントをコピペしておきます。

先日は多くの方々に放送を聴いていただき、まことにありがとうございました。
放送後、よくぞ言ってくれたというメッセージもあり、心強く感じています。
昨日、ここ狼魔人日記の読者という方から、放送局に連絡があり、ぜひ番組に出演したいとの申し出がありました。
まことにありがたいことです。
沖縄には、県民に伝えられていない真実が数多くあり、そのほとんどが偏った思想の方々にとって都合の悪いものばかりです。
逆に、言ってもいないことを「言った」と繰り返すことで、ないものをあったことにしてしまう手法は、まるで中国共産党のやり方そのものです。
小さな放送ですが、ここ狼魔人日記に紡がれる真実を、リアルな音声にかえ、ネットを駆使しない皆さんにも届けていきたいと思います。
毎週ゲストを募集しますので、参加ご希望の方は下記までメールにてご連絡ください。
平和団体、労働団体、教育者どなたでも大歓迎です
なお、今週のテーマも来る宜野湾市長選挙に絡んだ話題で盛り上げていきたいと思っています。

参加申し込みは 
fm21_wannuumui@yahoo.co.jp
メッセージやご意見はradio@fm21.net わんぬうむい宛までお願いします

                     

本日のF21のテーマは来月予定の宜野湾市長選挙とのことなので、宜野湾市民の筆者は特に関心を持つが、伊波前市長が市民の福祉より自分のイデオロギーを優先する人物である証拠として、普天間神宮横に建築中の海軍病院に関する伊波伊波市長のイデオロギーのためには人道も踏みにじる行為を紹介する。

米海軍病院は普天間神宮横のキャンプ瑞慶覧に2009年から建設が始まり、今年の春から業務を開始の予定である。 地上5階で地下一階という宜野湾市にしては大型で最新の病院施設である。 その医療技術は世界水準の高度医療を行うことで、これまでにも県内の琉大病院や中部病院等のインターン生研修に大きな寄与をし県内の医療技術の向上に大きな貢献をしてきた。

宜野湾市との友好関係が出来れば、その高度医療を地域住民に解放する計画もあったというが、伊波洋一前市長の米軍に対する憎悪に満ちた建設反対の方針により、医療技術の住民への解放は頓挫してしまった。

問題は高度医療技術の住民解放の頓挫に止まらない。

米海軍病院とその関連施設が必要な水の供給を水道を管轄する宜野湾市に求めたところ、なんと伊波市長は非常にも病院への水の供給を断ったというのだ。 米海軍病院は海軍という名を関してはいても純然たる総合病院施設であり、何よりも病院への水の供給の拒否は人道に関わる問題である。

人間の命の維持には不可欠な水の供給を、米軍憎さのあまりに拒否するような冷酷な人物が、「命どぅ宝」などといってみたり、「ジュゴンを守れ」などと赤旗で叫ぶ勢力の絶大な支持を受けている・・・これは良くできたブラックジョークではないか。

結局同病院への供水はお隣の北中城村が引受けて、年間役2700万という水道使用量は棚ボタで北中城村の収入となった。

米海軍病院への給水拒否は伊波前市長の個人的イデオロギーの問題だが、結果的には宜野湾市は本来受取るべき水道代2700万円をフイにしたことになる。

宜野湾市が拒否した水道供給のため水道の配管距離が長くなり余分な経費が国税から支払われることになった。

さらに宜野湾市民が被った損害は海軍病院の建設には地元の建設業者が数多く関わっているが、宜野湾市長の建設反対姿勢があまりにも強いため、宜野湾市内に建設・関連業者がほとんど受注できなくなったことである。

海軍病院の建設費は総額50億円といわれ、これだけの大型工事が宜野湾市内で行われているにも関わらず、宜野湾市の業者が工事に関わることが出来なかったことは、市内の建設関連業者やその家族が蒙った損害は大きい。

就労機会の少ない宜野湾市で、市長の行う最優先課題といえば市民の福祉向上や就労機会の拡大に務めるべきだが、伊波前市長は自らのイデオロギーを全てに優先させ、宜野湾市民の福祉と安全を踏みにじった。

伊波前市長については、当日記でも過去に何度も取り上げたが、FM21では伊波氏を熱烈に支援する「平和団体、労働団体、教育者も大歓迎」とのことなので、ぜひとも伊波氏の実態に迫って欲しいものである。

最後に宜野湾市民でなくとも誰が考えてもおかしな氏の主張の一つ。

「普天基地の県外・国外移設」を強く叫べば叫ぶほど「世界一危険な基地」を宜野湾市に固定化する。

結果的に宜野湾市民を危険に曝すことになる・・・この矛盾をどのように説明するのか。

 

【おまけ】

先の県知事戦に伊波前宜野湾市長が立候補したとき、米海軍病院と伊波氏の関係について書いた過去エントリーよりの抜粋です。

伊波候補の支持者の中に「在沖米軍基地の存在意義は認めるが普天間基地(海兵隊)の存在意義は)認めない」と主張する自称中道主義者もかなり含まれているようだ。
 
だが、結局伊波候補の本心はは「日米同盟に反対」、「安保廃棄」、と全ての米軍基地の撤去であるから、中途半端な中道主義者は伊波候補に取り込まれ、本人は意図しないでも、反米運動に利用されていることになる。
 
先日の北朝鮮の暴挙に対しても韓国が毅然としておれるのは米韓同盟のお蔭であり、尖閣近海の中国の理不尽な領海侵犯でも、現在のわが国が日米同盟を破毀してどうやってヤクザ国家に対処できるのか。
 
小学生でもわかる理屈である。
 
ちなみに伊波候補は昨日のテレビの中継インタビューで「ミサイルが飛んできたら平和的に話し合いする」と発言していたが、
 
沖縄がミサイルで破壊され、屍累々の瓦礫の中で、
 
「平和的に話し合いましょう!」と呼びかける「伊波県知事」の姿を想像し笑いを通り越して悲しくなってきた。
 
この人物、もしバカでないとしたら中国の工作員だといわれても仕方が無い発想である。
 
何度も繰り返してきたが、伊波候補の米軍憎悪の象徴ともいえる出来事がが、米海軍病院に対する給水拒否事件である

ちなみに27日の同日選挙となった宜野湾市長選挙で仲井真候補とタッグを組む安次富修候補は、海軍病院を地域に開放し、地域開発の柱にするということで海軍病院の誘致賛成を表明している。

少し古いが海軍病院問題の経緯を比較的分かりやすく報じた琉球新報の記事を引用する。

海軍病院受け入れ拒否/宜野湾市伊波市長  琉球新報 2003年6月19日        
 
【宜野湾】伊波洋一宜野湾市長は18日の市議会で、前市政の米海軍病院の移設容認方針を転換し、受け入れ拒否を表明した。伊波市長は「基地のない市を目指す立場から、海軍病院のような恒久施設を造ることは到底容認できない」と強調した。移設先として想定されるキャンプ瑞慶覧の普天間ハウジング地区は「普天間の旧集落地と重なる」として、歴史的観点からも同地域への軍施設の固定化に強い懸念を示した。澤岻安政市議(民政クラブ)の質問に答えた。
 
1996年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告で合意されたキャンプ桑江の大部分返還(約99ヘクタール。2007年度末目途)は、海軍病院のキャンプ瑞慶覧への移設が条件となっており、伊波市長の移設受け入れ拒否表明は、キャンプ桑江の返還作業に影響を及ぼすのは必至だ。
 
比嘉盛光前市長は99年、救急、難病患者の受け入れなど地域に開かれた国際医療機関としての位置付けや、移設先に近い普天間神宮周辺一帯の市街地整備事業などを要望し、キャンプ瑞慶覧内の市域への受け入れを表明した。
  海軍病院の移設先については、現在も「明確に示されていない」(同市基地政策部)という。普天間神宮周辺のハウジングエリアを除く一帯は、倉庫地帯やがけ地になっていることから移設場所としての可能性は低いとみられ、今回の拒否表明が海軍病院の移設に具体的にどのような影響を及ぼすか未知数だ。
  市は2002年度から「普天間飛行場周辺町づくり構想策定事業」として防衛庁の9割補助を受け、普天間神宮周辺開発の構想を策定中。
伊波市長の拒否表明は同開発構想への影響にとどまらず、SACO合意そのものの在り方を含め、政治問題に発展しそうだ。
 ◇県「真意確認したい

  宜野湾市の伊波洋一市長が海軍病院の移設受け入れを拒否したことについて、県の久場長輝基地対策室長は18日、「前市長が受け入れを表明しており、伊波市長の真意を確認したい」と戸惑いを見せた
 
同室長は、「県は国と連携してSACOを着実に進めることが基地問題解決の最善策だと認識している」と述べた上で、海軍病院の移設撤回となれば「米軍住宅統合などほかの市町村への影響も出る」と懸念を示した。

                       ◇ 

海軍病院はこれまで北谷町のキャンプ桑江内に所在していたので、宜野湾市長にとっては管轄外の基地内施設であった。

ところがキャンプ桑江が2003年に返還され、それに伴い海軍病院の移設先が宜野湾市の管轄地域に決まった。

もちろん同病院の移設は日米両政府の合意に基ずくものであり、当時の比嘉盛光宜野湾市長の同意も取り付けてあった。

海軍病院は米国本土以外では世界最大の施設と最先端の医療技術を備えているといわれ、これまでも地域の救急医療や琉球大学病院等のインターン生の受け入れなどでも地域と協調して医療サービスを提供してきた。

海軍病院でのインターン

一方の宜野湾市は、海軍病院を地域振興の目玉にすべく受け入れに同意した。

2000年、当時の比嘉盛光前市長が、かつて市の中心地で映画館などもあって賑わっていた普天間神宮界隈を活性化させるため海軍病院の移設に正式同意したのだ。

だが、2003年に当選した現在の伊波洋一市長が新たな火種に火をつけることになる。

伊波市長は日米合意にも反対し、比嘉前市長の同意も反故にして移設反対を表明しているが、現在工事は進んでいる。

これに対し伊波市長は海軍病院の移設は、宜野湾市の反対を押し切った形で進行していると理不尽な主張をしている。

日本側の防衛施設庁は「既に市の公式文書で了解を得ており、それに基づいて粛々と作業を進める。市の理解を得るため、話し合いは続けていきたい」と述べているが、伊波市長が在任の限り、市の理解を得ることは不可能である。

伊波市長が比嘉前市長の合意文書を反故にして、独断で海軍病院への水道水供給を拒否したことは、人道的見地からも厳しく追及すべきだが、それ以外にも同病院建設のための地元業者の参入を拒否し、地域業者振興にとって大きな損失を及ぼしている。

呉屋等宜野湾市議の調査によると、工事では186もの業者の入札があったが、宜野湾市内の業者は一社も入札していないという。

呉屋議員は「市長は電気配線、造園、館内設備等の建設工事に関して、市内業者の優先受注の配慮もしないだけでなく、緊急患者の受け入れ要請もしないことを明言している」と述べ、市長の市民生活を無視した姿勢に首をかしげている。(世界日報 2010年8月22日)

 

 

宜野湾市民が 伊波市長のイデオロギー優先の独断行為のためこうむった損失はこれだけではない。

海軍病院への水道供給の拒否は人権問題の他に市への財政収入を大きく減少させているのだ。

市水道局によると、海軍病院への水道水供給の水道代は年間で約2700万円になるというが、伊波市長が独断で供給を断った結果市が蒙った損失は大きい。(世界日報)

「米軍基地反対」のイデオロギー貫徹のため、人命はおろか、宜野湾市の地域活性化の機会も踏みにじる伊波宜野湾市長は県知事として相応しくないと思う方、応援お願いします。

 

【お知らせ】

 パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内 

  表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。

 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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コメント (14)

疎開秘話3 大本営の密使

2012-01-18 07:55:20 | 県知事選
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第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという。

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

         ☆

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛)


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である。

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 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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疎開秘話2 恨み辛みの学童疎開  

2012-01-17 08:04:47 | 県知事選

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       ★

本稿は「恨み辛みの学童疎開  沖縄戦秘話2」に加筆したものです。

 

沖縄県民の県外疎開は、大本営陸軍部の発想であった。

だが沖縄タイムスの歪んだ目で見れば、県外疎開の一環として行われた九州各地への学童疎開も「軍の口減らし」ということになる。

「軍は住民を守らなかった」を、スローガンに掲げる沖縄紙は、当時の学童の想い出までも「恨み節」に作り変えていく。

そこには受け入れてくれた疎開先への感謝の気持ちは一欠けらも見えない。

そう、悪いのはすべて「極悪非道な日本軍」のせい、というのだ。

学童疎開の碑建立へ 来年、黄金森公園内に(2008.7.25) カメラ

学童疎開の歴史事実を伝えようと、結成された記念碑建立期成会の結成総会=南風原町の南風原文化センター

 【南風原】沖縄から本土への学童疎開の歴史事実を後世に伝えようと、南風原国民学校の学童疎開者が中心となって「南風原国民学校学童集団疎開記念碑建立期成会」が結成された。同会によると、学童疎開の碑建立は県内でも初めての試み。18日に南風原文化センターで結成総会が開かれ、会長に選出された大城清一さん(76)=同町宮平=は「戦争による学童疎開の苦しみを繰り返させないよう、石碑の建立で子や孫に平和の尊さを伝えたい」と力を込めた。
 南風原町からは、1944年8月に対馬丸と同じ船団で熊本県へ124人、次いで9月に宮崎県へ148人が疎開
。「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじい、寒い、寂しい)」と苦難を乗り越え、46年に帰郷を果たした。(略)
 
                                           ◇

この記事は一体何がいいたいのか。

何よりも学童疎開を受け入れてくれた熊本や宮崎の方々への感謝の気持ちは何処へ置き忘れたのだろうか。

>「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじい、寒い、寂しい)」と苦難を乗り越え、46年に帰郷を果たした。

当時学童疎開を体験した人は誰でも親と離れてさびしい思いをしただろうし、

食糧不足は日本全国の現象で、ひもじい思いをしたのは沖縄の学童だけではない。

当時を思い起こすのは大事なことだと思うが、これが「沖縄だけが酷い目にあった」とか、「学童疎開は日本軍の口減らしのためだった」といった恨み辛みが出てくると、勘弁してほしいとも言いたくなる。

そんなバチアタリなことをいうヤツはいないって?

それが、いるのだ。

だから、沖縄の新聞はオチオチ安心して読んでおれないのだ。

以下再掲の沖縄タイムスの歪んだメガネを通すと、全てが「日本軍の悪意」になってくるから驚きだ。

 

【再掲】です。

歪んだ眼鏡の沖縄タイムス 日中友好協会が聞き取り調査?

色眼鏡で物を見れば何事も色つきで見えるが、沖縄タイムスの記者は色眼鏡の上に更に「物が歪む眼鏡」をかけて記事を書くようだ。

まさか心根までは歪んでいないだろう、と思いたいのだが、下記の記事を読むと、歪むどころか心根が腐っているのが良くわかる。

取材相手の言葉としているが、歪んだ発言は全て沖縄タイムスの歴史認識をそのまま反映している。

沖縄タイムス 2008年2月4日(月) 朝刊 21面  
 
疎開語り 非戦を誓う/宮崎の受け入れ先市民・県内体験者

 沖縄戦時の県外疎開の様子を調べようと、疎開先だった宮崎県都城市の戦争体験者ら日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。同協会都城支部が企画する平和事業などで、沖縄戦の実態を紹介するために交流を深めようと訪れた。
 疎開体験を話したのは、一九四四年から四五年にかけて県内から同市周辺に疎開した小波津厚明さん(77)=南城市=と玉那覇良康さん(68)=宜野湾市。

 疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。

 一方で、地元の住民が乏しい食料の中から差し入れをくれたことや、小波津さんの疎開先だった同県日之影町の日之影小学校(当時は岩井川村・岩井川国民学校)には疎開記念碑が建ち、疎開した九月八日を「友情の日」として、小波津さんらによる戦争についての授業が続けられていることなども紹介した。

 同協会の田中義教理事長は「沖縄戦もそもそもの始まりは日中戦争だった。私たちは、両国間で二度と戦争が起きないようにと民間交流を続けている」と話し、「日中戦争や沖縄戦の実相に蓋をしようとする動きが強まる中で、事実は事実として残し伝えようと訪れた」と話した。

 小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。

 同協会都城支部では毎年「平和のための戦争展」を行っており、今後、沖縄からの疎開を含めた沖縄戦の実相を紹介したいという。

                      ◇

■善意と悪意■

沖縄タイムスが、「集団自決」が軍の命令であると主張する根拠に手りゅう弾を「悪意」の眼鏡で見て、軍が命令した唯一の「物的証拠」にすることへの反論はさておいて、

島の周辺を米艦船の大船団に取り囲まれ袋のネズミ状態で艦砲射撃でパニックに陥入り、死ぬ手段を捜し求めている時、数少ない手りゅう弾を配布されたら「善意」と解釈してもおかしくはない。

>疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。

先ず疎開が行われた一九四四年から四五年当時は日本全国何処へ行っても食糧不足は珍しくなく、これも「残酷な日本軍」の責任にするのは沖縄の左翼くらいのものだろう。

沖縄タイムスが「集団自決」は軍の命令であると強弁する根拠の一つが「軍民混在」だが、

これを避けるため軍が精一杯行った「学童疎開」も、

沖縄タイムスの「歪んだ眼鏡」で見れば「残酷な日本軍」の責任だとというから開いた口がふさがらない。

悪意で見れば全てが歪んで見える。

米軍の沖縄攻撃を前に、軍は県民の県外疎開を命じた。

「学童疎開」はその一環である。

県外疎開の命令に従わなかった県民には北部地域への疎開が命じられ、これに従った県民の戦没者は比較的少なかった。

だが疎開せずに自宅に留まった県民の多くは南部地域に敗走する日本軍の後を追って米軍の「鉄の暴風」ともいえる砲撃を受け多くの戦死者を出した。

小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。

沖縄タイムスが、自分の歴史認識に合致する「証言」は全て鵜呑みにするのは「集団自決」の証言で実証済みだが、

疎開当時4歳の少年が「日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている」と断言する証言もそのまま鵜呑みにするのか。

後になってからの大人の「反日思想」の影響だとは考えないのか。

郵送船や燃料さえもも少なくなった時期に、学童が戦火に襲われるのを避けるための「善意」で行った学童疎開も、

歪んだ心根で見れば「残酷な日本軍」が行った口減らしが目的だったとは、さすが「日中友好協会」の歴史認識とあきれて拍手を送りたくもなる。

■日本中国友好協会が聞き取り調査?■

>日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。

そもそも疎開体験の聞き取りを怪しげな団体の会員がやること自体が不可解だ。

「色眼鏡」や「歪んだ眼鏡」どころか心根が歪んだ解釈しか出てこないのは沖縄タイムスとしては想定内なのだろう。

このように学童疎開さえも悪意に解釈する会員を擁する「日本中国友好協会沖縄県支部」が国立大学の研究室内にあることは、この記事を見て調べるまで知らなかった。

沖縄の大学はますます中国工作員に侵食されつつある。
 

日本中国友好協会沖縄県支部 〒903-0129
沖縄県西原町千原1-1琉球大学教育学部辻雄二研究室
098-895-8444

日本中国友好協会がどのような性格の集団であるかは、次の「公式声明」を読めば明らか。

小泉首相の靖国神社参拝に強く抗議  

歴史を否定する「教科書検定」結果に抗議する 

「戦前回帰」思わせる政治統制 

沖縄タイムスの社説にしてもおかしくない程の論調の一致に、納得、ナットク。

歪んだ心の沖縄2紙が、歪んだ色眼鏡で見れば全てが歪んで見えるのは納得できるのだが。

こんな歪んだ記事を有料で読まされる読者はたまったものではない。(怒)

 

 

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  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

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橋下教育改革の突破力!

2012-01-16 17:41:14 | 県知事選
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昨日の「報道ステーション」で橋下大阪市長と山口北海道大学教授の生バトルを見た。

橋下氏の完勝というより、山口教授は2度と立ち直れないほどのKO負けである。

八重山教科書問題で、ヤクザ顔負けのごり押しを展開中の極悪複合体には是非とも見て欲しいバトルであった。

それにしても山口教授のような学者バカに政治指導を受けていた既成政党が行政改革・教育改革を実行できなかった理由がこのバトルで明らかになっただけでも貴重な【動画】である。。

【動画】⇒橋下大阪市長の教育改革

橋下教育改革が全国に飛び火したら最も困るのは、現在沖縄という「治外法権」地域で、勝手気ままに振舞っている「極悪複合体」の面々であることは間違いない。

新teru0702の日記by今井照容さんがバトル内容をまとめて下さっているので、そっくり引用させて頂きました。

例によって太字強調などは引用者が施しました。

以下引用。 ☆

2012-01-15
改訂版 大阪市長・橋下徹と北大教授・山口二郎がテレビ『報道ステーションサンデー』で激突!橋下の「政治」に山口の「政治学」が敗北した瞬間!!

「nagano_t 」ことニュースキャスターの長野智子の次のようなツイートが目にとまったからである。

明日の報道ステーションサンデーは大阪から橋下市長、山口二郎さんをお迎えして大阪都構想や教育問題について激論です。ぜひご覧ください。

山口二郎は政治学者にして北海道大学教授。内田樹、香山リカ、 薬師院仁志との共著で『橋下主義(ハシズム)を許すな!』を刊行していて、橋下徹には批判的な立場を自ら表明している。これに対して橋本は彼らに対する厳しい批判を自らのツイッターで開始していただけに、この二人の「激論」を期待して久し振りにテレビを見てしまった。視聴者の誰もがとは言わないまでも、二人のやりとりを見ていた私も含めて多くの視聴者は、橋下に改革に邁進する政治家としての「やる気」を感じ、山口には象牙の塔に閉じこもっているばかりで庶民が日々の暮らしのなかで抱いている生活実感を欠いた「専門バカ」に過ぎないという印象を抱いたのではないだろうか。橋下は既得権とは全く縁のない民衆のルサンチマンを味方にしているのだ。

テレ朝なう(^o^)ノ橋本さん、最高~「高学歴の屁理屈やろうに言い負けない!!」改革にはこれが大事~(笑)~

これは「ワンコカメラマン小森」のツイートである。テレビで橋下が語った教育行政についての見解は既にツイッターで発言している内容の繰り返しである。橋下のツイートはこんな具合である。

今の教育行政の仕組みは、教育委員会にも首長にも決定権と責任を与えない。教育委員会はカネの権限・責任がない。首長は教育目標の決定権がない。お互いに、そっちがやってくれないという意識。そしてどうなるか。教員現場が全てを決める教育行政になっている。

首長が目標を定めることを批判する自称インテリに言いたい。では教員現場が目標を定めることは常に正しいのか。政治が常に正しい判断をするとは限らない。しかし教員現場も同じだ。何が正しいかは分からない。色んな価値観がある。だから最後に決めるのは選挙しかない。これが民主主義のルールだ。

今は選挙で責任を負わない教員現場が全て決定できる仕組みになっている。極めて危険。政治の世界では選挙に負ければ主張が通らないどころが身分まで失う。ところが
今の教員組合はガンガン政治活動をやって選挙で結果が出ても、のうのうと身分を保持できる。権限と責任を明確にする仕組みに変えるべきだ

形骸化している教育委員会は廃止。首長が権限と責任を持つ。歯止めをかける装置を作る。あとは有権者が責任をもって首長を選ぶ。教育委員公選制は今の枠組みでは意味がない。カネの権限・責任がないまま公選にしても無意味。もし委員にカネの権限・責任を与えて選挙で選ぶなら、それこそ首長そのもの。

教育委員会制度も一から作り直さなければなりませんよ。これは官僚では無理。政治でやるしかない。前平松市長と年一回の意見交換、タウンミーティングは0、学校視察は一年で4校程度、一校1時間。大阪市の学校は525校。こんな教育委員会で、教育行政などできるわけない。

テレビでも橋下はいかに現在の大阪市における教育行政が制度疲労を起こしているかを実例と数字を織り交ぜながら「具体」を語ってみせた。これに対し、山口の物言いは所謂「啓蒙主義」に依拠した(それだけに視聴者からすれば「上から目線」に感じられた)単なる「論」であったために「高学歴の屁理屈やろうに言い負けない」という印象を(私も含めた)視聴者に強烈に与えたのだ。私などは橋下に押され放しの山口を見るにつけ、彼はテレビ出演に際して全く「予習」をして来なかったのではないかとさえ思ってしまったほどである。本当にそうだとすれば、山口が「テレビの視聴者」たる「民衆」を小バカにしているということになるだろう。一方、橋下からすれば今回のテレビ出演は大阪市長として「(教育)改革」を実行する際に「世論」を追い風にできるという意味からすれば大成功であったはずだ。そこに抵抗勢力、即ち「敵」を明確に措定したうえでのテレビ出演の狙いがあったに違いない。橋下は民衆の眼前でカール・シュミットの「政治学」を実践してみせたのである!そうした橋下の手法を「劇場型政治」という言葉で安易に片付けてはなるまい。そもそもマスメディアの報道は劇場型でなかったためしがないではないか。むしろ橋下はジャーナリスティックな感性の持ち主であることを認めなければなるまい。一方、山口はジャーナリズムがアカデミズムの「反対語」であるということにまるで無自覚、無頓着であった。少なくとも山口は『橋下主義(ハシズム)を許すな!』なんていう威勢の良いタイトルの本を出す割にはハシズムを軽く、また甘く見積もっていたのだろう。「masason」こと 孫正義は、こうツイートしている。

報道ステに橋下市長出演中。自治体の無駄は目に余る。改革に頑張って欲しい。 それにしても、何の責任も無い学者先生は改革に対し批判だけだな気がするなあ。

孫もまたジャーナリスティックな感性を武器とする経営者である。「和民」の創業者である「わたなべ美樹」も、こうツイートしている。

こちらこそ、本日の、テレビ見させて頂きました。教育改革 百パーセント支持します。頑張って下さい。

孫にしても、わたなべにしても、「報道ステーションサンデー」に出演し、橋下に何年かやらせてみるべきだと言った作家の渡辺淳一にしても大阪市民ではない。つまり、橋下は大阪市という一都市にかかわる教育行政の問題をテレビというマスメディアを通じて普遍化することにも橋下は成功してしまったのである。橋下が実現しようとしている「教育改革」に沿って言えば大阪市における教員の労働組合をわが国の民衆から孤立させる布石を打ったのである。結果的に山口二郎なる政治オンチの政治学者は、そのお先棒を担がされてしまったことになる。「政治」とは、民主主義であると否にかかわらず、このようなものなのである。日経電子版は1月13日に次のように報じた。

大阪府の松井一郎知事と大阪市の橋下徹市長は13日、公明党大阪府本部の新年会に出席し、府市を解体・再編する大阪都構想の実現に向けて協力を呼びかけた。橋下市長は協力が得られれば、国政選挙で公明を支援する考えも表明。公明側も改革に前向きに協力する姿勢を打ち出し、接近ぶりを印象づけた。

日経電子版は1月13日に次のように報じた。

「大阪府の松井一郎知事と大阪市の橋下徹市長は13日、公明党大阪府本部の新年会に出席し、府市を解体・再編する大阪都構想の実現に向けて協力を呼びかけた。橋下市長は協力が得られれば、国政選挙で公明を支援する考えも表明。公明側も改革に前向きに協力する姿勢を打ち出し、接近ぶりを印象づけた」

公明党は府市各議会で橋下市長が代表の地域政党「大阪維新の会」に次ぐ第2勢力であり、橋下が「教育改革」を実現するためには最適のパートナーなのである。何故なら、公明党の支持母体は言わずと知れた創価学会。創価学会の前身は創価教育学会であり、日教組と創価学会は教育の現場では対立関係にある。橋下と創価学会は敵を共有できるのである。また大阪は『人間革命』を読めばわかるように創価学会の選挙活動の言わば「聖地」に他ならない。来るべき総選挙において失った議席を何としても奪還するためには橋下人気にあやかりたいところだろう。

これも橋下の「政治」である。

         ☆
政治には突破力、瞬発力、説得力それに実行力が不可欠である。

それには若さが加われば百人力である。

橋下氏は現在40代前半。

40代に出来ることは50代、60代では出来ない。

若さは突破力と瞬発力を速させる。

山口教授とのバトルで見せた橋下氏の瞬発力を伴った説得力には学者バカの山口教授は防戦一方でタジタジの有様だった。

番組中、大阪市民でもない渡辺淳一氏が「橋下さんにやらしてみたい」とエールを送ったが、筆者橋下行政改革に、小さい声ながら、エールを送りたい。

教育行政が制度疲労を起こしているのは大阪だけではな。 日教組のあるところは全国に及ぶ。

特に沖教組が主導した沖縄の八重山教科書騒動がその典型である。

橋下氏が叫ぶ「教育委員会をぶっ潰す」という掛け声は、沖縄県の教育委員会にこそ最も相応しい、

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参考:Birth of Blues

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疎開秘話 大本営が県外疎開を発案 

2012-01-16 13:15:39 | 県知事選
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         ☆

誰も知らない沖縄戦の疎開につい過去エントリー大本営が県外疎開を発案 沖縄戦秘話に加筆した引用です。

             ☆

沖縄戦の最中、荒井退造・県警察部長が、島田叡・県知事とコンビを組んで、沖縄県民の県外・県内疎開に尽力したことは、県史に詳しい人の間ではよく知られたことである。

だが、沖縄県民の「県外疎開」を真っ先に考えていたのが、あの「住民を守らない」はずの大本営だったことは、あまり知られていない歴史の事実である。

県庁壕から形見の碁石 沖縄戦中の荒井警察部長遺品 カメラ 2008年1月13日

県庁壕内にある警察部長室の入り口部分を発掘する知念堅亀さん(中央)と沖大の学生ら=2007年12月22日、那覇市真地

 沖縄戦中、県民の県外・北部疎開に尽力した荒井退造・県警察部長の遺品とみられる碁石11個が、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で昨年末までに見つかった。1945年6月下旬に糸満市摩文仁で消息不明となったまま、遺骨も遺品も全くなかった。戦後62年たっての発見に、長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」と感慨深く語った。
 碁石を見つけたのは、県庁壕を長年調査研究している知念堅亀さん(74)=那覇市繁多川=と繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。昨年9月に7個、12月末に4個を発見した。
 県庁壕は45年3月末から5月末まで荒井部長や警察部職員らが避難していた壕。4月からは島田叡(あきら)知事も合流。4月27日には戦中最後の市町村長会議も開かれた。
 碁石が見つかった場所は、壕内に掘られた警察部長室入り口。水がたまりやすく、常にぬかるんでいる。昨年9月21日に知念さんが壕を案内している時に、天井からのしずくで表土が洗われ、碁石が露出しているのを発見した。さらに周囲5、60センチの範囲から、黒5個、白2個を探した。
 その後、12月22日に沖大の学生らも加わり、部長室入り口を発掘し、深さ4、5センチの泥の中から、新たに黒3個・白1個を見つけた。そのうちの黒1個は鍾乳石からの水滴を長年受けたとみられ、表面が白く石灰化していた。同じ深さから、日本兵の軍靴や小銃弾なども出土したことから、沖縄戦中のものと判断した。
 荒井部長は大の囲碁好きだった。当時、泉崎にあった部長官舎に住み込みで働いていた上地よし子さん(81)=ハワイ在住=によると「夜通しやることもあった」ほど。「とても大切にしていたので、(44年の)10・10空襲の時、私が命懸けで碁盤と碁石を官舎の応接間から持ち出した」。その後、警察職員らによって真地の県庁壕まで運び込まれた。「壕でも、部長さんはよく課長さんたちと碁を打っていた。娯楽がないから、(持ち出したことを)みんなから褒められた」と語る。
 碁石の一部を昨年11月に受け取った紀雄さんは、お寺でお経を上げてもらい、仏壇に安置した。「60年たって戻ってきたのは因縁めいたものを感じる。おやじも喜んでいるでしょう。知念さんや皆さんのおかげ。ありがたい」と感謝している。
 発見した知念さんは「県庁壕には11年前から何度も入っているが、見つかった時には興奮した。前に紀雄さんを案内した時に、碁石の話をしていたので本当に良かった」と話している。
(志良堂仁)

<ニュース用語>荒井退造

 1900―45年。栃木県出身。43年7月に沖縄県警察部長として赴任。米軍上陸直前に知事や他の部長が次々と本土に渡る中、行政の責任者として沖縄に残り、県民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たった。その後、新任の島田叡知事と行動を共にし、6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出たのを最後に消息不明。

                                             ◇

沖縄防衛のため配備された第32軍を代表する軍人といえば、司令官の牛島中将と参謀長の長勇少将が上げられるだろう。

この二人は、軍人というだけで、沖縄での評価は極端に低い。

長参謀長に至っては、大陸戦線で南京攻略に参加していたという理由だけで、

「南京大虐殺」の実績を引っさげて「沖縄人虐殺」のために沖縄にやってきた、といわんばかりの悪評を受けている。

牛島司令官も長参謀長ほどではないにしても、反日左翼勢力にとっては「悪逆非道日本軍」のシンボルとして、

牛島司令官の孫まで引っ張り出して日本軍を貶め、自分の祖父を罵倒するという醜いシーンまで披露している。

日教組に毒された戦後教育の悪い面を、祖父が自決した沖縄に来てまで、祖父を面罵する孫の姿に見出すのは残念なことである。

軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る

沖縄戦について授業する牛島貞満さん(右)=豊見城市立長嶺小学校

 <沖縄戦で日本軍を指揮した牛島満司令官(中将)の孫に当たる牛島貞満さん(51)が20日、豊見城市立長嶺小学校(大城早智子校長)で「牛島満と沖縄戦」のテーマで平和学習の授業を行った。「沖縄戦ってどんな戦争だった?」と児童たちに質問すると、「住民が多く死んだ」「持久戦だった」などと回答。牛島さんは「人が人でなくなるのが戦争。沖縄は本土の時間かせぎの戦争だった」などと説明した。>

牛島中将の孫に当たるという牛島貞満という人物、

2007年には「11万人集会」にまで駆けつけて、祖父の戦死を公衆の面前で冒涜し続けた。

県民大会の様子 東京で伝えたい 牛島中将の孫・貞満さん http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710011300_05.html
<牛島さんは、沖縄戦で日本軍の総指揮を執った牛島満中将の孫。五年前から「牛島満と沖縄戦」をテーマに、小学校高学年を対象に平和授業を続けている。

 文科省が「集団自決(強制集団死)」の日本軍の強制を削除したことについて「軍隊は住民に捕虜になるなと徹底しており、日本軍がいた場所で『集団自決』は起きている。軍の強制・誘導があったのは当然だ」と強調した。>(沖縄タイムス)

軍人の評判が悪いのに比べて、県民の安全のために努力した島田叡県知事や冒頭に引用記事の荒井退造警察長官は、県民の間では県民の疎開に尽力した「県民の命の恩人」として今でも尊敬されている。

島田知事については過去にもエントリーしている。

毎日コラムのGJ  沖縄戦で散った本土出身県知事

沖縄マスコミが本土出身の官僚・軍人をいかに悪し様に言おうとも、沖縄県民は島田県知事への敬愛の気持ちを忘れてはいない。

沖縄県の高校野球で夏の県大会を制した高校に「島田杯」が授与されるが、これが野球を愛した島田知事に対する県民の敬慕の念の何よりの証拠である。

島田県知事は1945年1月31日沖縄に赴任し、同じ年の6月27日頃戦死している。>

 

「昭和18年7月、沖縄県警察部長(現在の県警本部長に相当)となった荒井退造は、黒の制服にきらめく肩章をつけ、真夏の太陽が輝く那覇空港に降り立った。」
(「戦さ世の県庁」荒井紀雄著のプロローグより)

沖縄赴任後、荒井警察部長は島田県知事とコンビを組んで、県民の県内外への疎開に尽力するが、昭和20年6月26日、島田知事と共に沖縄南部の壕を出たあと、消息を絶つ。

遺骨・遺品の無いまま摩文仁の丘の「島守の塔」に、島田知事以下の県職員と共に合祀されている。

63年ぶりに父の遺品が見つかった長男の荒井紀雄さん(75)が、

「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」

と感慨深く語る気持ちは共感できる。

 

昭和19年7月1日、荒井紀夫さんの家族は本土引き上げのため旧式の軍用機で那覇空港をよろよろと飛び立って行った。

当時那覇の甲辰小学校に通っていた荒井紀雄さんは、父・退造氏との別れを自著「戦さ世の県庁」で次のように描写している。

<私には、真夏の太陽が振付ける飛行場でただ一人、真白い警察官の制服をつけた父がいつまでいつまでも白い帽子を振ってみおくっていたのが、昨日のことのように思い出される。 それが私と父との最後の別れであった。>

 県民の疎開に尽力をしたことで島田知事と荒井警察部長は、「県民の命の恩人」と讃えられているが、

その一方沖縄配備の第32軍は、

「軍は住民を守らなかった」

というサヨクスローガンにあるように、

沖縄で極めて評判が悪いし、こんな連中もいるが、
極左が陸自の沖縄慰霊祭を批判

果たして実際はどうだったのか。

 

驚いたことに、予測される米軍来襲に備え、

県民の生命の安全を計るために、

真っ先に「沖縄県民の県外疎開」を発案していたのは、

なんと日本軍・大本営だった。

 

まだ小学生だった荒井紀雄さんが、父の退造氏に見送られて那覇空港を発った昭和19年7月1日。

第32軍の参謀長に正式着任の一週間前のその日、長勇少将は木村参謀を伴って、那覇空港に降り立っていた。

彼が正式着任の一週間も前に沖縄に着いた最大の理由は、

8月に予定の牛島・新司令官着任の前に、法律的に不備だった「県民疎開」を閣議決定させるための、現地視察であった。(続く)

【お知らせ】

 パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内 

  表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。

 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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コメント (5)

七つの顔の男の息子が日航社長就任!

2012-01-16 07:10:35 | 県知事選

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終戦直後に作られた日本映画を見ると、戦前の「封建的社会」の呪縛から抜けきれない旧世代の大人たちと、アメリカから輸入された「民主主義」を享受する若者との対立を描く場面が頻出する。
戦前は弾圧されていた言論も、GHQがもたらした「平和憲法」により言論の自由が保障された・・・つまり言論の自由はGHQの日本占領によって保障されたという誤解を、戦後70年近く経っても信じている人が今でも少なからずいる。
これは戦前の日本を暗黒時代として否定する「自虐史観」の結果だということが出来る。
だが、GHQが日本占領と同時に行った占領政策は「言論・表現の自由の保障」とは逆方向のきわめて巧妙な言論弾圧であった。
GHQは「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令し、言論の検閲を始めた。
これに関連して、封建的風潮を蔓延させるという理由で、「剣劇映画禁止令」を出す。
その当時の映画スターは時代劇、現代劇とお互いに住み分けられており、嵐寛壽郎、片岡千恵蔵ら戦前からの時代劇スターは「剣劇映画禁止令」で事実上職を失うことになる。
昭和天皇が、沖縄に主権を残しながら米軍に長期リースで租借させるというい「委任統治」を模索しておられた頃、
1人の時代劇俳優が、転進を考えて苦慮していた。
 
 
陛下より3歳年下の片岡千恵蔵のことである。
              
以下はマッカーサーが生んだ「七つの顔の男」に加筆したものです。
           ☆
        
子供の頃、心踊らして観た時代劇、と言うよりチャンバラ映画には数々の想い出がある。

片岡千恵蔵と言っても50歳以下の世代には片岡鶴太郎の弟子かと間違えられるほど遠い人になってしまったが、千恵蔵は当時のチャンバラ映画のヒーローだった。

若い人の中には名前だけは知っていると言う人もいるだろうが、先代林家木久蔵がオーバーなモノマネをするセリフ不明瞭な昔の時代劇スターと言った程度の知識だろう。

昔の時代劇スターは歌舞伎出身が多く現代劇に出る事は殆ど無かった。

ちょん髷に刀を振り回す立ち回りにも歌舞伎の要素が取り入れられていたと聞く。

そのチャンバラ映画専門の片岡千恵蔵がちょん髷代わりに黒のソフト帽をかぶり、刀の代わりに二丁拳銃を構えてバタバタとギャング団を撃ち倒す映画には面食らった。

今で言えば高橋英機の桃太郎侍のイメージが突然黒い背広に黒ソフトで拳銃を乱射するようなモノだ。

いや、もっと衝撃的だった。 
高橋英機は元々日活デビューの頃は現代劇青春スターだったし、テレビのトーク番組でもファンにはお馴染みなので背広姿もけしておかしくは無い。それに時々はテレビドラマの現代劇にも出ているようだ。

片岡千恵蔵のギャング映画登場の衝撃は今の時代劇スターでは、例え里見浩太郎や、松方弘樹をもってしても例える事は出来ない。
いやいや、「暴れん坊将軍」のマツケンが突然、マツケンサンバを踊りだした以上の衝撃であった。

その衝撃の映画は「名探偵・多羅尾伴内シリーズ」と言うシリーズもので最初に観たのは小学校3年か4年生の頃那覇市の「国際劇場」か「平和館」のどちらかで見た。


シリーズのうち何編見たかは曖昧だが、筋書きは大体決まっていた。

場面は客の帰ったキャバレーか遊技場。

悪の親玉と十数名の子分達が捕らわれの身の令嬢を脅している。

令嬢の悲鳴! 親玉が「殺(や)っちまえ!」と命ずる。

令嬢に迫る危機。

其処へフラフラと1人のお馴染みの人物が現れる。

八の字髭にロイドめがね。 ソフト帽子にくたびれた背広で悪漢の前に立つ。

今までの騒音は一瞬沈みかえり、一同は動きを止めてこの男を凝視する。

沈黙を破って親玉が怒鳴る。

「お前は誰だ!」

待ってました! 

ここでお馴染みの極め台詞!

「七つの顔の男だぜ。」

勿論演ずるは時代劇のヒーロー(だった筈)の片岡千恵蔵。

悪の親玉はこれも時代劇の悪役でお馴染みの進藤英太郎。

「七つの顔の男 多羅尾判内シリーズ」の名場面である。

この進藤親分、時代劇では越後屋から小判の贈答を受け、

「越後屋、お前もワルだのう」

「そういう代官様はもっとワルで御座います」

「ケッ ケッ ケッ・・」

・・と声を潜めて何度笑ったことか。

最後は千恵蔵扮する正義の剣士に何度切られた事か。

そして虚空をつかんで何度死んだことか。


進藤親分は懲りもせずに、ギャング映画でも悪事の限りをつくしていた。

次の場面は愈々この映画のクライマックス。

七つの顔の男は拳銃を構えている悪漢の群れを前にして変装(しているつもり)のロイドメガネ、八の字ヒゲ、くたびれた背広を一気に剥ぎ取る。(本当に瞬く間に)。

おー! 何とその下から現れたのは黒の背広の上下に何故か茶色っぽかった帽子も黒に変ってしまっている。 勿論シワ一つ無いビシッとした筋目入りだ。

それから延々と自己紹介を始める。

「ある時は片目の運転手、ある時は謎の中国人、ある時は多羅尾伴内、ある時はパイプの画家、またある時はセムシ男、しかるにその実体は!?」

「正義と真実の人、藤村大造だ!」

(この藤村大造の出自は良く分からない・・・が、そんな事はどうでも良かった)。

変装の達人と言う設定らしいが誰の目にも千恵蔵がバレバレというのに当時は何の疑念も持たず手に汗を握って観ていた。

自己紹介がやっと終わると、今度は事件の謎を解説する。

敵地に乗り込むのに得意の変装で敵を欺いて秘密を探ると言う筋書きだ。

何故かその間悪漢の群れは手に拳銃を持ったまま凍りついたように動かない。

一同の前に仁王立ちで長演説をする千恵蔵を手に拳銃を持った悪漢の手下が何故撃たないのかは問うヤボなファンはいなかった。

長い解説が終わった頃合を見計らって進藤親分が又しても怒鳴る。

「殺(や)っちまえ!」

その一声が合図だ。

拳銃の乱射戦で画面は入り乱れる。 ・・・が何故か悪漢の弾は一発も当たらない。 

窓ガラスは派手な音を出して割れるが。

ところが千恵蔵の拳銃は確実に敵を倒していく。
拳銃の弾が何発入りだったかを気にする人はいなかった。

大方勝負がついた頃を見計らったようにパトカーのサイレンが鳴り、警官隊が現場に雪崩込み悪漢の残党を取り押さえる。

救出された令嬢が我に返って警部(何故かいつもマヌケな役)に尋ねる。

「あの方は?」

一同が辺りを見回すと既に「あの方」の姿はない。

警官の1人がわざとらしく叫ぶ。

「警部! ここにこんな手紙が!」 

さすがに手紙の内容までは憶えていない。

七つの顔の男は一枚の置手紙を残して何処(いずこ)へともなく去っていく。

去りゆく男の背中に「完」の文字。


この映画は全部で11シリーズあって第一作は終戦の翌年の1946年に作られている。

私が始めて見たこのシリーズは第四作目の「三十三の足跡」というタイトルだった。

制作年は1948年だから多分7歳のころ観たのだろうか。

結局1960年の11作目でこのシリーズは終わってしまい、千恵蔵も進藤親分も晴れて時代劇の世界に戻った。

千恵蔵と並ぶ時代劇のスターに市川右太衛門がいる。

真っ白に塗った顔、ド派手な衣装それに眉間の刀傷が売り物の「旗本退屈男シリーズ」も子どものころ良く観た。

やはり7歳前後に那覇の栄町にあった「沖縄劇場」で観た映画であの右太衛門が黒いソフトに黒背広そして拳銃を携えていたのを憶えている。

タイトルははっきり憶えていないが「海のジーメン?」とかいったようなタイトルだったような気がする。 

映画を観た後、ジーメンとはどういう意味か、と親にしつこく聞いた憶えがある。

こちらの方は七つの顔シリーズほど人気が無かったのか、右太衛門の拳銃を持つ姿を見たのはこの一作だけだった。

時代劇専門のスター千恵蔵や右太衛門が戦後の一時期、ちょん髷を黒のソフト帽子に代え、刀を拳銃に持ち替えたのには深い訳があった。

                  *


昭和21年、日本占領中のGHQは、日本刀を振り回すチャンバラ時代劇は軍国主義を煽り立てる危険があるとして禁止の「剣劇映画禁止令」を出した。

学校の体育教科では剣道や弓道と言った武士道に関わるような教科も禁止された。

以後、連合軍の占領中は剣劇が製作できないことになり、時代劇スターを含む映画界は対応策を迫られた。

時代劇の大スター片岡千恵蔵のために現代活劇の構想が練られた。

試行錯誤と苦心の末、黒いソフト帽に黒い背広で決め二丁拳銃を構える名探偵「多羅尾伴内」を主人公とする『七つの顔シリーズ』の登場となる。

時代劇のチャンバラは拳銃による銃撃戦に置き換えられ、内容は毎回ワンパターンの千恵蔵が七変化をするミステリ活劇というものであった。

映画は大評判となり、大ヒットを記録して、以後はシリーズ化されることになった。

千恵蔵と並ぶ時代劇スターで旗本退屈男で有名な市川右絶太衛門も黒のソフトに黒背広で現代活劇映画に転進を求めたが成功しなかった。 テレビCMの犬の父親の声でお馴染みの北大路欣也の父上だ。
まもなくGHQにも「チャンバラ映画禁止令」のバカバカしさが分かり解除されたが、「多羅尾伴内シリーズ」は千恵蔵の代表作となり時代劇に復活後もシリーズは続いた。

名探偵多羅尾伴内は瓢箪から駒で、マッカサーの判断ミスによって生まれたともいえる。

余談だが、マッカーサーのチャンバラ映画や剣道の禁止令を解除した後も「剣道は人殺しを教える武道だから学校では禁止すべき」と叫ぶ婦人団体がいた。

            ☆
さて、当日記の欠点では有るが、これまでは次のニュースに至る極めて長い、いや長すぎるプロローグである。
七つの顔の男のご子息が日本航空の社長となり、日航再建に尽力するというニュース、これが本文である。
             ☆
             

 片岡千恵蔵さんの息子、植木氏が日航社長に

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植木義晴氏(撮影日・2012.1.14)         

   経営再建中の日本航空は13日、大西賢社長(56)が会長に退き、後任に植木義晴(うえき・よしはる)専務執行役員(59)を昇格させる方向で最終調整に入った。来週にも決定し、年度内に就任する見込み。稲盛和夫会長(79)は名誉会長となる見通し。植木氏はパイロット出身。日航トップにパイロット出身者が就任するのは初で、父親は大正、昭和の時代に映画界の一翼を担った俳優、故片岡千恵蔵さん。その血筋も申し分なし!

 腕利きのパイロットとして第一線で活躍した植木氏が、今度はトップとして経営の“操縦桿”を握る。しかも父親は、戦前戦後の時代劇で活躍した俳優、故片岡千恵蔵さん。銀幕の大スターだった父親譲りのイケメンも注目となりそうだ。

 日航関係者によると、植木氏は京都府出身で、航空大学校卒業後の1975年に日航入社。パイロット、運航乗員訓練企画部長、グループのジェイエアで副社長、稲盛氏が会長に就任した2010年2月に本社の運航担当執行役員となり、同年12月に専務執行役員に抜てきされた。

 パイロットとして長年勤務し、その操縦技術には社内でも定評があるという。経営側に立ってからは、稲盛会長の経営哲学を吸収し、経営者としての素質を評価されたようだ。

 日航は今年秋の再上場を目指して準備中。2010年1月の経営破綻から2年で、収益力強化にも成果が出つつあり、植木氏を中心とした新たな体制で再建に向けた改革を加速させる。

 植木氏は現在、路線統括本部長として新規路線の開設計画などを担当し、稲盛会長の経営方針を着実に実行できると判断されたとみられる。

 日航は経営再建に向けて不採算路線の撤退や人員削減などリストラを実行した結果、11年9月中間連結決算で営業利益1061億円と大幅な黒字を確保した。

 ただ、欧州の金融不安などで経営環境は厳しい状況が続いており、植木氏には新たな「成長戦略」の立案が求められる。“安定飛行”の予測はつかない。

 また、再上場に向けた安定株主の確保も課題だ。日航は、株主でもある官民出資の企業再生支援機構とともに、上場で確実に資金を集めるため、取引先などに一定の株式を引き受けてもらうことを検討している。しかし、破綻前の株主だった取引先は大きな損失を出しており、順調に集まるか不透明な情勢だ。

片岡 千惠藏(かたおか ちえぞう)
 明治36年(1903年)3月30日 - 昭和58年(1983年)3月31日 享年80歳)は、大正・昭和期の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。戦前・戦後の長期にわたり、時代劇人気を支えた剣戟スターである。

 

       ★ 

 

産経抄 1月15日

 昭和30年代の正月、楽しみのひとつは「東映」の時代劇映画を見ることだった。それも正月やお盆限定で、主役級の俳優がずらり並ぶ「オールスター映画」である。「忠臣蔵」や「清水次郎長」ものが主だったと思うが、子供心にも胸をときめかせたものだ。

 ▼中でも「主役中の主役」を張っていたのが片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。ともに「御大」と言われていた大物だ。オールスター映画となると、ポスターの2人の名前の順番をどうするか、台詞(せりふ)やカットの数をどう割り振るか、スタッフの悩みだった。そんな話も伝わっている。
 ▼その片岡千恵蔵さんが亡くなって29年近くがたつ。だが昨日、サンケイスポーツなどで久しぶりにその名前を見て驚いた。経営再建中の日本航空の社長に就任が固まった植木義晴氏の父親だという。調べてみると、確かに千恵蔵さんの本名は「植木正義」である。
 ▼千恵蔵さんは4男1女の子宝に恵まれた。だがこの世界の風潮とは異なり、亡くなったときは誰も芸能人を継がず、銀行員や医師など「堅い」職業を選んでいた。義晴氏も航空大学校から日航に入り、腕こきのパイロットとして知られてきた。
 ▼もっともそのパイロットから経営トップへというのは日本の航空業界では初めてだという。むろん経営者としてはまだ「無名」に近い。父親の映画のように難問をバッタバッタと切り倒し、軌道に乗り始めた経営再建を進められるかまだ分からない。
 ▼とはいえその父親も東映の取締役をつとめる「重役スター」として知られた。若手俳優から慕われていた「御大」のDNAを買われての抜擢(ばってき)なのかもしれない。東映映画を見て育った世代としてはつい応援したくなる。
 

 【おまけ】

そういえば片岡千恵蔵が演じる金田一耕助は、七つの顔の男と同じく、黒いソフトにダークスーツで決めていた。

 

【おまけ】その2

■八重山日報 1月15日

見出し


1月14日尖閣諸島開拓の日
上陸要請を継続
中山市長 式典で決意


台湾総統に馬氏再選
中台改善継続へ


「諸島を守る行動を」
尖閣開拓の古賀氏称える


台湾総統選で馬氏再選
中・台安定を選択
格差や失業に課題


政治協議へ圧力
中国平和統一に力


記者の目
○…尖閣諸島開拓の日の14日に合わせるかのように、中国の漁業監
視船が尖閣諸島付近に姿を現した。昨年8月には、尖閣諸島が日本
領だと明記した育鵬社の公民教科書が選定された翌日、漁業監視船
が尖閣諸島に接近している。偶然の一致か。八重山住民への威嚇
か。市民からは「中国にも八重山ウォッチャーがいるのかな」との
声も。


自費購入で
竹富町教科書
平野文科相も
 平野博文文部科学相は13日、就任記者会見で、八重山地方の中学
公民教科書採択問題について「共同採択制度のもとで教科書の無償
給付をしており、理解してもらうしかない」と述べ、独自採択を決
めている竹富町に自費購入を求める姿勢を示した。
 文科省はこれまでに、同地方の採択地区協議会が選定した育鵬社
版と異なる東京書籍版を選んだ竹富町に無償給付しないことを決
定。平野文科相もこの方針に変わりがないことを強調した。
 平野文科相は「竹富町の意見を踏まえて、採択の在り方がこのま
までいいのか検討したい。事務方に指示する」とも語った。

■八重山毎日 1月15日

見出し

中山市長 「上陸許可」訴え
尖閣諸島開拓の日式典
国に学術調査、慰霊祭求める
尖閣利活用にも意欲


資料200点を展示
「尖閣開拓展」始まる


「岩礁管理を石垣市で」
「尖閣の日」シンポで提言
権利の明確化求める


「開拓の日」制定祝う
尖閣諸島を守る会
 

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コメント (2)

昭和天皇が沖縄を売った?馬鹿な!

2012-01-15 08:08:20 | 県知事選

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      ☆ 

2012.01.12

都教組沖縄視察交流団 八重山で交流と連帯を深める

八重山(石垣島・与那国島。竹富島)の方々と交流

今年度の都教組沖縄視察交流団は、「八重山を訪れ、日本最西端の与那国島を訪ねる旅」として行われ、40名を超える参加者で八重山(石垣島、与那国島)の人々と交流を行いました。

yaeyama1.JPG 初日は、石垣島で戦争マラリアの史跡や慰霊碑、八重山平和記念館などで戦争マラリアについて学びました。夜は、「日本人軍と戦争マラリア」と題した玉城功一さん(竹富町史編集委員、石垣市大川字誌編集委員、八重山古典音楽安室流保存会師範)の講演、石垣市の方々による戦争マラリアの紙芝居、八重山教科書問題の現状と運動などについて報告を受けました。その後、石垣市の元教育長、元校長や教育関係者など21名が参加しての歓迎のつどいが催されました。(略)

      ☆

沖縄タイムスの連載特集「第一部 風は南から」シリーズを読めば、極悪複合体(反日左翼)の今年の反日工作のテーマは「八重山マラリア」であることがわかる。

それを裏付けるように教員関係者による「日本軍人と戦争マラリア」を学習するツアーが石垣入りしている。

鬼畜と信じられていた米軍の攻撃から住民を避難させるため行った疎開が、結果的に多くのマラリアの被害を生んだが、それを逆恨みして「残虐非道な日本軍」の強制疎開のせいだとして、戦後70年近くも経っているというのに、いまだに「日本軍のせい」と叫ぶ心根が理解できない。

昨日のエントリーに続いて本日も「疎開」について書く予定であったが、「おまけ」に書いた「潜在主権」に絡む「天皇メッセージ」に読者の反響が多かったので、その中からコメントを二つ引用するする。

■宮古島よりさんのコメント

「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」として反米左翼複合体がデマの宣伝活動に利用している、悪名高き「沖縄メッセージ」とはいかなるものか。

「沖縄メッセージ」とは、昭和22年(1947年)宮内府御用係の寺崎英成がGHQ外交局長ウィリアム・シーボルトへ沖縄に関する天皇の意見として伝えたもの。

以下、ウィリアム・シーボルトの記録。

「天皇は米国が沖縄をはじめ、その他の琉球諸国に対する軍事占領を継続するよう希望している。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益になり、また、日本を防衛することにもなる、ということである。

 また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸国)に対する米軍の軍事占領は、主権を日本に残したまま、長期(※中略)25年ないし50年またはそれ以上の租借方式という擬制に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は、米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利要求を封ずるであろう。」

つまり、沖縄を日本に主権を残したまま(潜在主権)、租借方式という擬制は(あくまでレンタル)、米国占領統治によりソ連や中国の共産主義を跳ね除け(日本の国防の米国に担ってもらう)、いずれ長期租借が解かれたとき、琉球諸島は日本復帰するという昭和天皇の沖縄に対する確固とした意思が分かる。

「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というのは大いなる間違い。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果さぬ つとめありしを」

昭和63年8月には、天皇皇后両陛下の沖縄への来島は決定していた。病気になられても、なお、陛下は沖縄への思いはあった。

           ☆

■涼太さんのコメント

本日のエントリーで長年の疑問が解決しました。
例えば、「戦傷病者遺族等援護法」も「教科書無償法」も日本本土と、同時期に導入されています。米国の委任統治だからこそ、チャント日本国の行政サービスがあったのですね。
特に、援護法などは民間人にまで50年間に渡り、それこそサラリーマンの生涯賃金に匹敵する額が支給されています。
それでグダグダ言っていたら罰が当たります。
よく言われる基地負担も、今度の大震災で明らかにされた電力負担、それ以外にも京浜工業地帯も公害に苦しんでいます。これなどは産業負担なのでしょう。国には様々負担があります。
それを日本国で分かち合っているのだと思います。

常々思うことだが当日記の読者はレベルが高いのが自慢であり、筆者の説明では足らない部分を埋め合わせてくるので助かるのだが、宮古島よりさんが筆者が敢て触れなかった「天皇メッセージ」の文言を挙げてその概略を説明して下さっている。

一方の涼太さんが、主権は日本のまま米軍統治下になった沖縄で「援護法」や「無償措置法」が適用されたことに着目されたことはさすがです。

日本政府が「援護法」や「無償措置法」を適用したのは、戸籍を残したまま里子にやった子ども(沖縄)が、いつかは祖国に帰ってくるという昭和天皇の親心(「天皇メッセージ」)を政府当局が勘案したからに他ならない。

さらに沖縄の教育に関して、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国負担で受け入れている(国費留学制) ちなみに仲井真県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。

いわゆる「天皇メッセージ」とは、、宮中御用掛の寺崎英成が昭和天皇との会話の中から聞き取った天皇の気持ちを、昭和22年9月19日(金)に総司令部政治顧問シーボルトに伝え、それをシーボルトが英訳してワシントンに送ったとされことである。

これも沖縄に関する大きな誤解の一つだが、保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。

筆者の知人にも終戦時、既に米軍占領下にあった沖縄が米国統治になったのはやむ得ないとしても、「天皇自らが(命乞いのように)沖縄を売り渡す手紙を書いた」のは許せないと息巻く人もいるくらいだが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。

寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」はシーボルトの手紙では"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"と訳されている。

だが近代史研究家の秦郁彦氏も驚嘆するように、敗戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「主権は残した(潜在主権の)まま」いつかは祖国に帰る日のために委任統治という方法を思いついた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、いまでは死語になりつつある「昭和天皇の大御心(おおみごごろ)」と訳した方が的を射ているのではないか。

 秦郁彦氏はいわゆる「天皇メッセージ」についてその著書「昭和天皇五つの決断」(文藝春秋)で、次のように述べている。

「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかない・・・」

          ☆

「天皇メッセージ」(昭和天皇の大御心」について稿を改めて詳述すると書いたが、とりあえず凪論さんの孫引きで、小林よしのり氏の「昭和天皇論」を、全文引用させて頂いた。

小林よしのり著「ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論」を読む 2 ~サンフランシスコ講和条約と先帝陛下のかかわりの虚と実~

「昭和天皇論」は、先帝陛下が政治家として動かざるを得なかった時代に脚光をあてている。その中で非常に興味深いのがサンフランシスコ講和条約直前における先帝陛下と政治のかかわりである。昭和24年9月にソ連が原爆保有を表明し、同年10月に中華人民共和国が成立した。それはまさに「アジアの冷戦は朝鮮半島、台湾海峡、ベトナムでいつ熱戦に転じてもおかしい状況下」であり、日本国内で強硬に主張されていた「全面講和」は絵空事に過ぎなかった。

 当時占領軍のトップであったマッカーサーは

「日本としては永久中立が保たれればそれが理想であります。また米ソ双方にとっても利益である筈であります。」(昭和25年4月18日第10回会見)

「(日本は)将来いかなる戦争があろうとも中立を保たなければならない。ソ連も軍事上の利点から日米の中立を尊重するものと信じている。」(「リーダーズ・ダイジェスト」)

と現実離れした「非武装中立」を主張し、アメリカ政府はアジアの共産主義との対立のために日本の再軍備と米軍の基地保有が必要との見解に立っており、両者の間の溝は非常に大きいものであった。その中で吉田茂総理大臣はマッカーサーに対しては米軍駐留の主張を引っ込め、ダレス国務省顧問に対しては日本側からの米軍駐留申出を行う用意があることを示唆するなど日本の立場は混乱していた。そのような状況下でダレス国務省顧問が来日し、案の定日本側の姿勢に激怒した。その中で側近の松平康昌を通してダレス国務省顧問にメッセージを送ったのが先帝陛下であった。「吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できず、米軍駐留に関する交渉は吉田とマッカーサー以外の人物によって行うべきだ」という趣旨のメッセージを送り、マッカーサーの頭越しに日米の講和交渉が行われるきっかけとなった。

 先帝陛下のメッセージで大きな影響を受けたのが沖縄である。連合国側には米軍による沖縄の信託統治や日本の沖縄に対する主権放棄を主張する声が非常に強く残っており、沖縄が日本から切り離される危険性は非常に高いものであった。ダレス国務省顧問は、

「日本に主権を残しつつ米国の戦略的要請を確保していると解釈解釈できる条約を作るもので、以前の国際法には見られない表現」

である「潜在的主権」という表現を用いて意見を調整し、沖縄の本土復帰において法的根拠となったのはまさにこの「潜在主権」であった。小林氏は

「もし昭和天皇が米国政府に『沖縄メッセージ』を送らなかったら?

そしてやる気を失いかけていたダレスに絶妙のタイミングでメッセージを送って感激させていなかったら?

歴史は違う方向に動いていたかもしれない。

当時の日本には、ここまで現実的に日本を護るための手段を打てる政治家は他に誰もいなかったのである!」

と結ぶ。

 そのような講和交渉の現実を見ると、漫画原作者の雁屋哲氏が「美味しんぼ日記」で

http://kariyatetsu.com/nikki/1228.php <map id="map_mdbwehrw" name="map_mdbwehrw"> <area shape="rect" coords="187,46,302,58" href="http://kariyatetsu.com/category/nikki" /> </map>

鳩山由紀夫氏を攻撃するのは誰か | 雁屋哲の美味しんぼ日記 via kwout



「沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。

それは、昭和天皇である。

昭和天皇が『沖縄にずっとアメリカ軍に存在して貰いたい』といったのが始まりではないのか。

昭和天皇の沖縄についての発言は、いちいち、私はここで挙げないが,様々な文書で明らかにされている。

もし、私の言葉に疑いを抱く人がいたら、ちょうど良い機会だ、昭和天皇の言行録を、当たって欲しい。ちょっとした図書館に行って、昭和天皇についての書籍を調べれば、すぐに分かることだ。(その意図があるから、私はわざと、文書をここに引用しないのだ。読者諸姉諸兄が自分の目で、昭和天皇が何を言ったのか読んで欲しい。それで、驚かなかったら、おかしい)

昭和天皇が、沖縄をアメリカに渡すと言った言葉に従って、その後の政府は忠実にアメリカに沖縄を自由に使うことを許してきた。

歴代の自民党政府が六十年以上にわたって、アメリカに沖縄を自由に使うことを許してきたのだ。」

と述べているのは、雁屋氏の無知と傲慢をさらけ出すだけのものであると言える。

「また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸島)に対する米軍の軍事的占領は、主権を日本に残したまま、長期-25年ないし50年またはそれ以上の-租借方式という擬制(fiction)に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれにより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利の要求を封ずるであろう。

と述べる先帝陛下のメッセージは間違いなく沖縄の本土復帰の法的根拠となった「潜在的主権」に沿ったものであり、連合国による沖縄の主権放棄への要求を封ずるものであったと言える。おそらく雁屋氏は無知をこじらせたか、史実を明らかにされると自らのイデオロギーにとって都合が悪いのであろう。


引用終了   ☆

「疎開」のひと言を取り上げても、極悪複合体(反日左翼)のように悪意に満ちた色眼鏡で見れば、「残虐非道の日本軍」の象徴になる。

昭和天皇が、アメリカが沖縄を永久支配しないことの保障のために、主権は残したまま(潜在主権)、施政権のみ一時預かる(委任統治)と、当時(昭和23年)の状況でいえば最適の判断をしたことも、悪意に満ちた極悪複合体に言わせれば「天皇が沖縄をアメリカに売り渡した」となるのである。

           ☆

【お知らせ】

 

 
パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内 

 

 

 

 表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。

 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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コメント (10)

1月14日は尖閣の日です

2012-01-14 12:37:10 | 八重山教科書採択問題

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         ☆


毎年1月14日は「尖閣の日」(尖閣諸島開拓の日)です。

 

■八重山日報 2012年1月14日

「海洋計画」名称変更も
策定委初会合
漂着ゴミ対応を
 海洋を活用した地域振興などを探る「海洋基本計画」(仮称)の
策定に向け、石垣市海洋基本計画策定委員会(委員長・山田吉彦東
海大海洋学教授)の初会合が13日、市役所で開かれた。
……海洋政策研究財団の秋山昌廣会長は「他の離島にはない特異な
問題」として尖閣諸島を抱えていることを上げた。その上で、「
土を守るだけでなく、自治体としてどういうアクションを取るの
か」と提起した。山田委員長は「本島、本土も含めたつながりを前
提に、新しい計画を策定できれば」
と期待した。

        ☆

誘い
「尖閣諸島の歴史と今を考える青年の集い」
           大葉勢 清英
日時 
平成24年1月15日(日)午後1時~3時
場所 石垣市健康福祉センター
講師 徳松信男先生(元常葉学園大学外国語学部教授)
   「尖閣のこれからを考える」
主催 尖閣諸島の歴史と今を考える青年の会
問合せ 070-5410-1382(大葉勢)



尖閣諸島資料室を
三木さんが看板寄贈
 書籍などの尖閣諸島関連資料を昨年、石垣市に寄贈した八重山防
衛協会会長の三木巌氏(69)=登野城=が13日、市役所を訪れ、
資料の展示活用を要望するとともに「尖閣諸島資料室」の看板を寄
贈した。三木氏は「資料室を早く作ってほしいという願いを込めて
寄贈した。資料を体系的に活用し、情報を発信してほしい」と期
待。中山市長は「資料室は図書館で整理している。しっかりと市民
に見てもらうように展示したい」と応じた。

        ☆
以下は石垣市議の砥板さんよりの情報です。
本日の催し物ですが、石垣市在住の方でしたら間に合いますので、ご参加下さい。

        ☆

海洋政策を積極的に進めるべく2007年に施行された『海洋基本法』を活用する、『石垣市海洋基本計画』の第1回会合が昨日開催されました。

海洋資源の開発、珊瑚礁の保全、赤土流出対策などの計画や施策の可能性に期待できそうです。
昨夜は、外部メンバーの方々と意見交換しましたが...この計画策定の外部からのメンバーが凄い!

... フジテレビの「とくダネ!」や「知りたがり!」でお馴染みの東海大学山田教授の他...
・海洋政策研究財団会長 秋山昌廣氏(元防衛事務次官)
・内閣官房総合海洋政策本部事務局 内閣参事官 川村氏(水産庁から出向)
・独立行政法人海上技術安全研究所企画部主管 西田浩之氏
・東海大学海洋学部長水産学博士 加藤 登氏
・九州大学農学博士准教授 清野聡子氏(環境都市・環境流体力学)

以上のメンバーは、今日の『尖閣諸島開拓の日』シンポジウムでもパネリストとして登壇します。
『尖閣諸島開拓の日』シンポジウム
本日、1月14日(土) 午後4時から
場所は、市民会館中ホールです。
 
      ☆

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  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

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「疎開」と「軍命」

2012-01-14 07:30:09 | 八重山教科書採択問題

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              ★

極悪複合体は、新しい強請りネタである「八重山マラリア」なる新しい概念を教科書に載せろ、などと理不尽な要求をし始めた。

そして住民の危機を回避するための「疎開」を「強制疎開」や「日本刀を突きつけて」などと悪意の修飾語を塗して読者を誤誘導しよう企んでいると書いた。

現在では馴染みの薄い「疎開」や「軍命」について、再度検証してみたい。

わが国は戦前戦後を通じて憲法を戴く議会制民主主義国家であった。 戦前といえども左翼用語で言う「天皇制」などではなく、憲法を国政の基本とする立憲君主制であった。

従って天皇が直接軍や政府に命令することはなく、軍も又政府に直接命令することはなかった。

軍の命令とはあくまで軍組織の上部から下部組織への命令であり、地方の住民に対しては法的な命令権はなく、何事かを依頼する場合は各地方の県知事を通じて地方の行政府の協力を得なければならなかった。

最近の八重山教科書問題でも明らかなように文部行政の監督省庁である文科省といえども、竹富町の行政指導は県教委を通じて行わなければならないのと全く同じである。 

その意味では戦前の軍の政務官僚は現在の官僚と同じく偏差値エリートであり、帝大より難関といわれた士官学校の卒業の席次が軍官僚としての将来を決めた。 戦前の士官学校卒の軍官僚と現在の霞ヶ関官僚の違いは、軍服か背広の違いだと言うこともできる。

軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」

戦時中に、よく言えば「利用」、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉がある。

実際には命令は発せられていなくとも、また軍が命令する権限がない場合でも、当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。

昔から時間的観念の薄かった沖縄県では、特にこの傾向が著しかった。

例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。

県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した。

当初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した。

だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。

『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。

≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。

しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略) 

かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫

沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。

学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の○○に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。

>家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた

「軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。

むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、

米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。

どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。

学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた。

軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、

戦後は左翼勢力によって悪用されている。

以下は世界日報の引用です。

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部<13>

 

軍・行政が住民疎開に尽力

「南西諸島守備大綱」で詳細な指示

picture 今年6月23日の「慰霊の日」、沖縄県南部にある摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」に刻まれた戦没者の前で手を合わせる遺族(敷田耕造撮影)

 沖縄の地で米軍を迎え撃つ日本軍は、敵の圧倒的な攻撃力をいかに封じ込め、反撃するかに心を砕くとともに、沖縄県民の疎開にも配慮した。

 軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。

 一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する

 〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである

 戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した。

 着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。

 六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった

 ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。

 タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている

 「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない」

 また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。

 専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである。

 こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。

 実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。

(編集委員・鴨野 守)

(本紙掲載:6月29日)

                       ☆

【おまけ】             

明らかな誤解

保革を問わず、知識人と言われる人達の間でも沖縄に関して抱く大きな誤解がある。

 雑誌『正論』の2月号の巻頭文「折節の記」の文中に「戦後、米国は沖縄を自国領に入れた」というくだりが有る。

が、これは明らかな事実誤認である。

沖縄は歴史上一度も米国領になったことはない。

1972年5月15日、沖縄は祖国復帰を果たした。

だが、米国は沖縄の施政権を祖国日本に返還したが、領土の返還ではない。

確かに、米国ドルを使用し、車は左ハンドルの右側通行なので一見米国領土になったような錯覚を覚える国民は多いし、大学進学などで祖国日本に行くときも「パスポート」が必要であったため、当事者の沖縄県民にさえ、この事実誤認に気が付かぬ人も多い。

だが、沖縄は敗戦後米軍の占領下にはあったが、一部にあった英語による学校教育の主張を跳ね除け、一貫して文部省教科書によるによる教育を全うしてきた。当時の教員たちはやがて来る祖国復帰の日に備え、文部省教科書を手分けしてガリ版謄写畿で複製し、粗末なワラ半紙の教科書を徹夜で作製し、「日本国民」の教育に没頭したた。

米ドル使用や車の左ハンドルは米軍の統治のため、また同時に沖縄に対する日本の主権を守るための方便の一つであった。

従って米国は沖縄を領土にはしなかった。 沖縄の統治は、米国高等弁務官による委任統治という形にし、主権は米国ではなくあくまで日本にあった。(潜在主権)

仮に日本が米国に沖縄の領有を認めていたら、沖縄はグアムやサイパンのように現在も米国領土で返還されないままになっていた可能性が大である。

沖縄が米国領のままであれば、「米軍基地の県外撤去」など問題にもならなかったであろう。

米軍が安全保障のため自国領土の沖縄を使用するのに何の問題もないからである。

この「米国の委任統治」についても反米左翼複合体が「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というデマの宣伝材料に利用されているが、実際は昭和天皇は「潜在主権」という秘策を使って沖縄に対する主権は守り通したのである。

これについては別の機会に詳述したい。

最後に沖縄が米軍の統治下にはあったが、主権はあくまで日本が所有してという根拠を示しておく。

手元に、筆者が米軍統治時代進学のため祖国日本に渡った時の「パスポート」があるが、正式名称は一種の身分証明書であり「日本渡航証明書」とあり、発行者は米国政府ではなく、高等弁務官である。

また日本の税関の入国ゴムスタンプには、「日本国への入国」ではなく「日本国への帰国」を証する、と記され入国審査官の署名がある。

一方沖縄帰省するときの税関の出国ゴムスタンプには「日本国からの出国」を証する、とある。

わかりにくいが、当時の沖縄人は潜在的には日本国民でありながら、長期の海外旅行をしており、学業や仕事で本土に渡るときは一時帰国していた形になっていた。

ウソのような本当の話である。

「正論」が誤解するのも、むべなるかなである。

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          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

コメント (9)

新しい強請りネタ登場!八重山マラリア

2012-01-13 08:03:39 | 八重山教科書採択問題

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              ★

八重山教科書問題で桁違いに小さな地域紙・八重山日報に「不都合な真実」の暴露などで、完膚なきまで打ちのめされた沖縄タイムス。

今年は連載企画「本土復帰40年 沖縄の自画像」を看板に掲げてはいるもの教科書問題での失地回復に躍起になっているのは誰の眼にも明らか。

その「第一部 風は南から」シリーズは、現在⑥まで掲載されているが、⑤の「八重山の2紙」では建前上八重山毎日と八重山日報を紹介しているものの紙面の大部分を「仇敵」の八重山日報の取材記事に当てている。(笑)

同記事によると、教科書問題が表面化した昨年7月以降、八重山日報の新規購読部数は多いときで月100も増えたということだから、その分だけ「発狂3紙」のどちらかが減ったということだろう。 煮え湯を呑まされた仇敵の躍進振りを記事にする吉川記者の心中いかばかりか、ご同情を申し上げたいが、ウソを書く新聞と真実を書く新聞を比べられたら誰でも真実を伝える方を取る。

読者の選択は間違っていない。

「発狂3紙」は、「残虐非道の日本軍」の印象付けとして教科書に「集団自決」に加えて「戦争マラリア」の記述を次のターゲットに持ち出した。

軍の命令は「集団自決」のみならず「戦争マラリヤ」も、軍の強制連行の結果だというのだ。、

第一部 風は南から⑥ 戦争マラリア

「島に“亡霊” いれぬ」

≪八重山地域の中学校でこち氏4月から使われる公民教科書採択をめぐっては、竹富町教委だけが「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版の採用を拒み続けている。
戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。
慶田盛教育長は波照間島出身。 4歳のとき由布島に疎開し故郷に戻ってマラリヤに罹患(りかん)した
親族が犠牲になり、ムシロでくるまれた遺体を運ぶ光景や腐臭は今も記憶から消えない。
「スポンジのように吸収する子どもには、尖閣で国防や愛国心をあおるのではなく、八重山であった悲しい悲しい歴史を通し、平和を考える教育が必要だ」。 慶田盛教育長は「二度と子どもたちを犠牲にしない」という思いと戦争への怒りを何度も口にした。
波照間島で教科書問題について尋ねると、慶田盛教育長の姿勢を支持する人がほとんどだった。 元波照間公民館長の浦仲博さん(88)もその1人だ。
浦仲さんは、今回の教科書問題と、31年前の苦い記憶を重ねる。 1981年8月7日、太平洋戦争末期に島民を日本刀で脅し、マラリヤの汚染地域に強制的に疎開させた山下虎郎(本名・筒井清)軍曹が、ひっそり島を訪れていた。
・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼び戻すように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」。 島の代表として本人に付き付けたた抗議書。 両親と親戚9人を失った妻の苦しみを思うと、今も怒りに震える。
「島民の傷は一生消えない。 戦争につながるものは島に入れさせない」。 浦仲さんは八重山の今を思い、言葉に力をこめた。(復帰40年取材班・吉川毅)≫(沖縄タイムス 2012年1月11日)

               ☆

先ずこの記事に関する読者のメールトを紹介する。

 狼魔人様のブログに過日紹介がありました
「ヒジャイ」さんの本日のブログ、沖縄タイムス1月11日号
「本土復帰40年、沖縄の自画像『島に゛亡霊"いれぬ』」について、

「罪を憎んで人を憎まず」は竹富町にはないのか、と題して
八重山教科書問題、竹富町のケダモノが如き
「ケダモリ」教育長の頑な思考論理等に関して、
自己思想に囚われた偏向思想の押付けである趣旨で論評し、
人の道、平和、国防問題を説く透徹した論考が掲載されています。

ブログ標題の内容に関する部分を読み、
不覚にも目頭が熱くなりました。

誠に失礼とは存じながらも、ブログ主狼魔人様へ、
勝手に別ブログ紹介のお願いとなりました。

引用等については「ヒジャイ」さんの許可が必要でしょうか、
http://plaza.rakuten.co.jp/hijai/diary/
狼魔人様の教科書問題の論考エントリーと併せ
読者の皆様へご紹介くださいますよう、
読者の勝手なご案内とお願いまで。

石垣島より、匿名

                ☆

「ヒジャイ」さんのブログは以前にも何度か「勝手に」紹介させてもいただいた。

「匿名」さんも仰るように本来ならご本人の了解を得て紹介すべきだが、一日過ぎると気が変わる気まぐれゆえ、思い付いたが吉日で、相変わらず変わらず「勝手に」に紹介させて頂く。 勿論ご本人に何かの不都合が有れば御連絡次第削除することに吝かではない。

以下引用   ☆

「罪を憎んで人を憎まず」は竹富町にはないのか

  「スポンジのように何でも吸収する子どもには、尖閣や国防や愛国心をあおるのではなく、八重山であった悲しい歴史を通じ、平和を考える教育が必要」と感じ「二度と子どもたちを犠牲にしない」という思いと戦争への怒りを理由に、八重山採択地区協議会の採択した育鵬社の教科書を採択しないで東京書籍の教科書を採択したことは法律上なんの問題もない。
 問題なのは八重山地区の無償給与教科書を八重山採択地区協議会で育鵬社の教科書と決めたのに、東京書籍の教科書も無償給与しろと国に要求したことである。
 無償給与教科書以外の教科書を無償給与することは法律違反だから国はやるはずがない。竹富町は慶田盛教育長の政治思想を優先して東京書籍の教科書を採用するのなら、竹富町が教科書代金を負担するのは当然だ。

 竹富町が育鵬社の教科書を拒否し、東京書籍の教科書を採択したのは明らかに政治思想が原因している。慶田盛教育長の戦争体験は戦争の一部である。戦争は国家の問題であり、戦争の原因、戦争の規模、戦争の過程、犠牲などを全体的に教えるのが教育の基本である。
 「八重山であった悲しい歴史」を教えるのはいいが、一部の戦争被害を教えるのでは教育とはいえない。なぜ戦争が起こったか、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内乱など子どもの視野を世界に広げる教育が大事だ。
 尖閣、中国、アジア問題はこれからの日本には重要な問題である。「尖閣で国防や愛国心をあおるのではなく」という理由で教えないのは間違っている。

 慶田盛教育長は「二度と子どもたちを犠牲にしない」と述べているが、八重山の悲しい出来事を教えることが「二度と子どもたちを犠牲にしない」にはならない。日本が軍国主義に戻ることはない。
日本全体をそして世界を見れば分かる。

 アフガン、イラクは民主主義国家になり、エジプト、リビア、チュニジアの市民革命は成功した。これから民主主義社会をつくっていく。ミャンマーも民主主義国家になった。シリアも市民運動が続いている。アジアでも韓国、台湾、フィリピン、カンボジアは民主主義国家になった。世界の流れは民主主義へと流れている。

 日本が軍国主義国家に戻ることはあり得ない。それどころか日本の民主化はわずかながら進んでいる。
 「八重山の悲しい出来事」にこだわりすぎると日本、世界の現実を知らない子どもを育てることになる。慶田盛教育長の自分の体験にこだわった教育は間違っている。八重山だけでなく、沖縄、日本、アジア、世界を知る教育をするべきだ。


 太平洋末期に島民を日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた山下虎雄軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時に、「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と浦仲さんは抗議書を突きつけたという。
 戦後66年が過ぎた今も怒りは消えず、「島民の傷は一生消えない。戦争につながるものは島にいれさせない」と浦仲さんは述べている。

 浦仲さんは「恨みつらみ」を子や孫たちへ伝えるというのだろうか。それでは子や孫たちがかわいそうだ。
 なぜ山下虎雄軍曹は島を訪れたのか、「恨みつらみ」の強い浦仲さんはその理由を聞かかった。ただひたすら「恨みつらみ」を山下虎雄氏にぶつけた。山下虎雄氏が好き好んで島民を日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させただろうか。山下虎雄氏も軍国主義の犠牲者ではなかったのか。
 戦前はみんな軍国主義教育を受けた。戦後の日本を牽引した多くの政治家や知識人も戦前は天皇崇拝者であった。山下虎雄氏もそのひとりだ。

 山下虎雄氏もどこか田舎に生まれ育った普通の人間であっただろう。赤紙で徴兵されて軍国主義を叩き込まれた若者のひとりだっただろう。戦争が終わり、戦争中の自分の行為を死ぬほど後悔したかもしれない。悔いても悔いても悔いきれない罪を背負った人間であると自分を責め続けたかもしれない。
 彼が懺悔をしたいのなら、懺悔をさせるべきだった。そして、山下虎雄氏と腹を割って話し合い、二度と軍国主義や戦争のやってこない国にするのをお互いに誓うべきであった。
もし、彼が悔いていなければ唾を吐けばいい。

 憎むべきは軍国主義であり戦争だ。人間ではない。66年を経ても直接手を下した人間を恨むのは間違っている。これでは軍国主義の本質を理解することができない。戦争の本質を理解することができない。

「罪を憎んで人を憎まず」という諺は竹富町にはないのか。

  引用終了          ☆

何時もながらの優れた論評で、付け加えると蛇足にしかからないが、敢て蛇足を加えると、「戦争マラリア」という言葉そのものを詳しく知っている人は,

他県人は言うに及ばず、沖縄県民でさえ非常に少ないという事実である。

かく言う筆者も若いころ初めてこの言葉に接したとき、「残虐非道の日本軍」は沖縄人虐殺のため「死亡率の高い特殊なマラリア」を研究し、多くの八重山住民がその犠牲になったことを指す、と真剣に考えていた。

さて、シリーズの第6回だが、先ず目に付くのは記事の冒頭から相変わらずのデタラメを撒き散らしていることである。

>戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。

で「戦争マラリア」とは沖縄戦の問題であり記述するとしたら歴史教科書が適当であるが、八重山地区協議会は戦争マラリアの記述のある帝国書院版歴史教科書を選定しており、これには慶田盛竹富町教育長も、当然事ながら、何の反対も示していない。

「戦争マラリアに関する記述がない出版社の公民教科書は拒否する」とは、これこそヤクザの言いがかりではないのか。

では、そもそも戦争マラリアとは一体何なのか。

沖縄タイムス上記シリーズの悪意に満ちた「解説記事」によるとこうなっている。

 ▼[ことば]

戦争マラリア

太平洋戦争末期、八重山の住民が旧日本軍の命令でマラリアの有病地帯の西表島屋石垣島の山岳部などに強制疎開させられ、多くの人々が亡くなった。 八重山平和祈念館によると、犠牲者は3647人。 波照間島では、スパイ養成機関の陸軍仲の学校を卒業した人物が偽名で島に忍び込み、全党住民1600人を日本刀で脅し、マラリア汚染地域に疎開させた。 島民のほとんどが感染、477人が犠牲になった。

            ☆

事実誤認と「残虐非道な日本軍」の印象操作に必死の悪意に満ち溢れて「解説記事」だが、ここで明らかのなのは戦争マラリアと言っても、日本軍が特殊なマラリア菌を培養したわけではなく、戦前は八重山地区のみならず沖縄県全域、いや、日本全国で見られた一般的マラリアのことである。

八重山地区の離島の山岳地帯には特にマラリアを媒介する蚊の群生が見られ、戦時中米軍の攻撃から避難するため離島の山岳地帯への疎開を誘導した日本軍への恨みつらみを込めて「戦争マラリア」と特別に呼称している。

これを「軍の強制」と性格付けすることにより「集団自決」と同じように「援護法」の対象にしようというのが「ゆすりたかり」を生業(なりわい)とする極悪複合体の主張なのである。

従って、喧伝されるされるように、日本軍が八重山住民を「マラリア非発生地域」から「マラリア発生地域」に強制連行したわけではない。

それは波照間島出身の慶田盛氏が疎開地の由布島では罹患せずに、故郷の波照間島に帰郷してからマラリアに罹患した事実を見ても明らかである。

筆者の小学校時代は、夏の蚊のシーズンになると「蚊に刺されるとマラリアになる」とはごく普通の会話で語られていた。

戦前からマラリアに悩まされていた沖縄がマラリアに決別を告げるのは、結局は沖縄を占領した米軍の殺虫剤の大量散布などのマラリア撲滅活動の賜物である。

八重山のマラリア撲滅運動は大正時代から始まるが成功せず、戦後、米軍の圧倒的なマラリア撲滅活動により、最後の患者が出たのは1963年であるとのこと。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんが検証した米軍側の資料によると、マラリアの罹患者は八重山地区より沖縄本島の方が多く、沖縄全体がマラリア撲滅に成功するのは祖国復帰後、沖縄県公衆衛生大会において沖縄から風土病としてのマラリアがなくなったことが宣言される1978年のことである。

さらに疎開という言葉さえ死語になりつつある現在「日本刀を突きつけてマラリア汚染地域に強制疎開させた」という「解説」は、まるで空気の清浄な地域の住民を放射能汚染地域に強制移住させた」といった極めて悪質な印象操作を感じる。

「集団自決」論争でよく喧伝される「軍官民の共生共死」という造語で、軍の自決命令の根拠にする人がいるが、第32軍は1944年夏の沖縄配備以前から一貫して県民の県外疎開を指導してきた。

だが何事にも行動の遅い県民気質も有って疎開は軍の思惑通りは実行されず、結局1944年の10・10空襲以来、那覇港には県外疎開を希望する県民が殺到し、船舶不足もあいまって子どもたちだけでもと、九州各地に疎開させている。 そして疎開に成功したした子どもたちはほとんどが無事で戦後帰郷を果たしている。

1945年4月の米軍上陸後も早い時期に軍の指導で北部に疎開した住民は比較的戦争被害は少なかったが、最期まで軍を追って南部に逃げた住民が最も戦争の被害が多かったことは周知のことである。

死語になりつつある疎開について過去エントリー

沖縄の県外疎開の実体

ででこう書いている。

■沖縄ではあまり知られていない「県外疎開」の実体■

第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった県民の県外疎開を閣議決定させるという素早い動きをしていた。
  緊急閣議決定で法的根拠は得たが、県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。今の時代で安易に想像するように、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
 県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であり、当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
  当時の沖縄の状況は新聞の扇動報道に乗せられた各民間団体の宣撫活動で巷は沸き立っていた。県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
  民間人への命令権限の無い第32軍は、県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力が適任と考え担当部署を警察部と定めた。
  平和な時代の後知恵で、軍の命令は絶対且つ不可避であった、と主張する勢力があるが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全確保のための県外疎開にしても、県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

■県外疎開が進まなかった理由■
  県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍の思うようにうまくは実施できなかった。
  その第一は、沖縄の地理的要因であった。 当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは重大事件で、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていたため、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がましだという風潮も阻害要因であった。東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が九州各県に海路で疎開することは一大決心を要した。
  次に疎開実施を阻害したのは泉県知事が軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示したことである。「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無いといった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
  疎開は不要という空気は、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にもその風潮はあった。軍の指令がうまく行きわたらない地方の部隊では、軍が沖縄でがんばっているのにわざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言をするものもいた。
  遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。 何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。
  サイパンでは米軍の投降勧告で集められた日本人の老人や子供にガソリンがまかれ火を点けられたり、呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性が裸にされ、トラックで運び去られたという証言が記録されている。

  当時の沖縄には南方帰りの県人が多く、大本営がサイパン陥落の直前に県外疎開を準備し始めた状況から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は想像できる。
  沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の3分の1にあたる10万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州4県と台湾に決まった。
 
■沖縄戦の本質■
  沖縄戦記には軍の側から見た戦略的な「戦史もの」、そして住民の側から見た「証言もの」と、多数の出版物があるが、軍と住民の間に立って「軍への協力と住民の安全確保」という二律背反の命題に挑んだ地方行政側の「戦記」は極めて少ない。
次の引用は本土復帰当時の公使・日本政府沖縄事務所長・岸昌氏が荒井紀雄著『戦さ世の県庁』の序文で沖縄戦の本質を語った文の抜粋である。

戦争を遂行するために、「戦争」から国民ー非戦闘員を護るために、どのように準備をなし、どのような行動をとるべきか。 平時を前提として制定されている地方制度に何らかの特例を設けるべきか、非常の措置を行うためにどのような組織・権限ーそして特別規定が必要であるか。 すべてこのような問題に直面し、実際に回答を出さざるを得ないもの、それが沖縄県であり、沖縄県で遂行された「戦争」であった。
  
沖縄戦当時、島田叡県知事と共に、県民の安全確保に努力した荒井退造警察部長(現在の県警本部長)の長男の紀雄氏が、父退造氏が軍と住民の間に立つ文官として沖縄戦を戦った様子を、多くの資料・証言を基に記録したのが『戦さ世の県庁』である。 戦火により多くの県政関係の資料が消失・散逸した中で同書は現在望みうる最高の記録と思われる。


■軍司令官vs県知事■
 泉守紀氏が第22代官選沖縄県知事の辞令を受けたのは、昭和18年7月1日のことである。 丁度同じ日付で荒井退造氏も沖縄県警察部長の辞令を受けている。
  
  まだ戦火を受けていない昭和18年の沖縄の夏は、のどかな町の風景とは裏腹に、県庁幹部が一新され、来るべき沖縄戦を予知してか県庁内外に何時にない緊張が走っていた。そんな空気の中、泉新知事は、沖縄防衛の第32軍が翌年3月に沖縄に着任すると、軍との対立を深め、修復不可能なものとなっていく。(野里洋著「汚名」)
  
そして政府は昭和19年7月7日の閣議決定で「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄県の県外疎開を沖縄県に通達したが、泉知事は公然とこれに反対したと言われている。
   当時の沖縄県の状況を称して、戒厳令に近い「合囲地境」の状態であったので軍の命令は不可避であり、県や市町村の命令も軍の命令であるという意見は、泉知事の第32軍への反抗で、軍が県民疎開の実施に苦慮している状況をみれば、それが机上の空論であることが明らかである。
  県民の疎開については、第32軍は法的には直接住民に命令を出せないので県の協力が必須であったが、泉県知事のかたくなな反抗に困り果てた結果、昭和19年1月31日に軍司令官統裁の参謀会議で「沖縄県に戒厳令を布告、行政権を軍司令官が掌握し、知事を指揮下に入れる」と検討したが、実行に移されることはなかった。
■県外疎開に水をかける「街の情報屋」■
  その頃の沖縄県民の県外疎開に対する無関心振りを、当時の那覇警察署僚警部で戦後琉球政府立法院議長を務めた山川泰邦氏は自著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)で次のように述べている。

<だが県民は、襲いかかってくる戦波をひしひしと感じながらも、誰も必勝を疑わず、その上無責任な街の情報屋は、「まさか、沖縄に上陸するようなことはあるまい」と勝手な気炎を吐いたため、これが疎開の実施に水をぶっかけるような結果になった。それに、当時海上は潜水艦が出没して、既に2回にわたり集団疎開船が撃沈され、多数の犠牲者を出したために、「どうせ死ぬなら、海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」と疎開の声に耳をかたむけようとしないばかりか、はては疎開を命令で強制された場合のことを心配する始末だった。

  
勇ましい情報を垂れ流し、県民疎開の実施に水をかけていた「街の情報屋」が誰であったかを山川氏は特定していないが、当時の新聞報道やその他の史料から推測すると、県民疎開を発案した軍や協力依頼されていた行政側ではないことは間違いない。 そして決起大会の壇上で抜刀して檄を飛ばしていた「軍人より軍人らしい民間人」と「街の情報屋」の姿がここで重なってくる。 戦後、琉球政府時代になって活躍した著名人の中にも、当時は民間団体の責任者として県民を扇動していた人物が多くいたという。そのような雰囲気では県外疎開などは県外逃亡と見なされ軍の思惑とは裏腹に県外疎開に水をかけていたのだろう。   
  
  ■軍は住民を守ろうとした■
 島田知事は泉知事とは対照的に軍と緊密に協力し県外や県内北部への疎開など県民の安全確保に全力をそそいだ。 後の沖縄県の調べでは県外疎開は昭和19年7月から翌年3月まで延べ187隻の疎開船が学童5,586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする資料もある)を疎開させ、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。 
  翌年3月の米軍上陸前という重要な時期に県内外の疎開が円滑に行かなかったのが、後の沖縄戦での「軍民混在」という住民巻き添えの悲劇に至った伏線になっている。 
軍を悪と見なす現代の感覚で、軍と県の対立といえば聞こえはよいが、泉知事は、軍の方針の県民疎開に反対し、住民もその風潮に煽られて疎開に必要を感じていなかった。 現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定されたことと、それが軍の発議で行われたことは確認できる。(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)


  「軍は住民を守らなかった」という左翼勢力のスローガンからは想像も出来ないが、昭和19年の夏に沖縄に着任した第32軍の司令官と参謀長は、沖縄が戦地になることを予見し、且つ「県外疎開」の法律の不備を危惧して、大本営の発議により着任前に「閣議決定」に持ち込むという早業を行った上で、後顧の憂いを極力小さくして沖縄に着任していたのである。

            ★

死語になりつつあるが、疎開という言葉には、

住民を当面の危機から避難させたいという善意が含まれている。

極悪複合体は、八重山教科書問題で完敗し、

その一方では2007年の「11万人集会」で文科省に要請した「高校歴史教科書検定意見の撤回」も不首尾のまま、

今度は「八重山マラリア」という「ゆすりたかり」の材料を表舞台に引っ張り出して、

これを「軍の命令によるもの」と教科書に記述する運動を展開する魂胆である。

米軍の攻撃を避けるため軍が指導した疎開を、

「強制疎開」などと人の善意を踏みにじる文言で、

「ゆすりたかり」をしる反日左翼複合体を、許せないと思う方、

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コメント (10)

育鵬社の背後に蠢く狂信的軍国主義の影?

2012-01-12 08:23:28 | 八重山教科書採択問題

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 第一部 風は南から③ 尖閣と教科書 つくる会周到に布石

「尖閣事件と歴史公民教科書」と題した講演会が2011年1月30日、東京の文京シビックセンターで開かれていた。主催した「新しい歴史教科書をつくる会」の幹部らが次々と登壇し、尖閣諸島周辺で前年起きた中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突事件をめぐる菅政権(当時)の弱腰外交を痛烈に批判。現在の教科書については「防衛が国家の第一の役割であることが教えられていない」と指摘する声が相次ぎ、会場は300人以上の参加者であふれた。くしくも、この日から約半年後に八重山で教科書問題が表面化する。

            ■         ■

 講演会には、石垣市議の仲間均さん(62)が招かれていた。仲間さんは尖閣上陸計14回、船舶安全法違反の書類送検が13回の「経歴」を持つ。その数週間前にも上陸。この日は特別現地報告としてマイクを握り「国家主権とは何なのかを申し上げたい」と持論を訴えた。

 仲間さんの報告に続き、次々に幹部らが登壇。「日本人が尖閣問題に無知であり、関心がなったのは日教組教育の当然の帰結。これを打ち破るのがこれからの仕事だ」(藤岡信勝・拓殖大学客員教授)「公民教科書の歴史の中で、まったく防衛が国家の目的として捉えられたことがない」(小山常実・大月短期大学教授)など、尖閣問題を愛国心と国防につなげる言葉が会場に響いた。

 尖閣問題と教科書はどうつながるのか。昨年暮れ、石垣市内の事務所で取材に応じた仲間さんは「尖閣は日本領土で石垣の行政区だが、市民でさえ知らない。学校でも教えない。尖閣を国民全体で考えなければ」と強調。つくる会系の教科書には尖閣問題が詳しく掲載されているとした上で「八重山の子どもに一番適している」と主張した。

           ■           ■

 今年4月から中学校で使われる公民教科書の選定・採択に向けては、昨年6月から選定作業が本格化。八重山採択地区協議会(会長・玉津博克石垣市教育長)は規約を改正し、調査員(現場教師)による推薦図書の順位付けを廃止。委員は、玉津氏の思想に近い人と入れ替えられ、独特の歴史観を持つ「つくる会」系の育鵬社版を選んだ。

 地元の教育関係者から、「育鵬社ありき」のこの動きの裏に、講演で登壇したつくる会幹部の「入れ知恵がある」との指摘もある。

 一方、冒頭の後援会の約2週間前の1月14日、石垣市民会館であった「尖閣諸島開拓の日を定める条例」制定記念式典でも、つくる会と今回の教科書選定につながる動きが見て取れた。

 当時、つくる会会長の藤岡氏から、中山義隆市長と伊良皆孝信市議会議長宛てに送付された祝電にはこう書かれていた。「尖閣諸島を守り抜くため、ともにたたかいます。学校における領土教育を充実させ、主権を守ることのできる国民を育てるための教科書づくりに邁進することを誓います」 
(復帰40年取材班・吉川毅)

[ことば] 
尖閣事件
2010年9月、尖閣諸島周辺の日本の領海内で、海保の巡視船に中国漁船が衝突。海保は公務執行妨害容疑で、漁船の中国人船長を逮捕した。中国は、日本の対応次第で今後の両国関係に影響すると警告。那覇地検は「外交問題」という異例の理由を付け、処分保留で釈放。その後、那覇地検審査会が船長を起訴相当と議決した。今後、強制起訴されるが、公判が開かれるのは難しい見通し。(沖縄タイムス 2012年1月5日)

                ☆

年明け早々、石垣市の行政地区である尖閣諸島に上陸、調査をした市会議員の仲間さんは沖縄タイムスの取材にこう主張した。

「尖閣は日本領土で石垣の行政区だが、市民でさえ知らない。学校でも教えない。尖閣を国民全体で考えなければ」

正論である。

日本国民として、八重山住民として、尖閣問題が詳しく掲載されている育鵬社版教科書が「八重山の子どもに一番適している」のは当然である。

沖縄タイムスと仲間さんの意見は真っ向から対立する。

育鵬社版に反対キャンペーンを続けている沖縄タイムスは、仲間さんの主張に対しては反論どころか何のコメントもしていない。

反論はしてないが「つくる会周到に布石」の大見出しは、明らかな印象操作だ。

いかにも育鵬社採択の背後には得たいの知れない大きな力が動いて、八重山住民の知らない間に育鵬社採択の布石が打たれたという妄想である。

沖縄タイムスは11月20日の社説でも、次のような妄想を逞しくして読者を誤誘導をしている。

島を思う心受け止めよ

陸上自衛隊の与那国への配備計画をスムーズに進め、南西地域の防衛体制強化を図りたいー。 そう考える中央の意図が見え隠れするのである。 ・・・水面下でつながる二つの動きが、政治的に仕組まれ、ほぼ同一時に噴出した。 住民は唐突な動きに戸惑い、揺れている。≫

イってしまった記者の幻覚に見え隠れするのは「中央の意図」だとのこと。(爆)

育鵬社版採択の陰には、狂信的軍国主義者やそれを支援する「中央の意図」が策謀しているとでも言いたいのだろう。

理屈で言えば「極悪複合体」の理不尽な言いがかりに過ぎないが、そこを妄想逞しく印象操作するのが発狂新聞の得意技である。

住民が戸惑っているのは、常軌を逸した「発狂3紙」の発狂報道に対してであり、むしろこれまで何も知らされないままに教員が一方的に教科書採択されていた事実がわかっただけでも良かった言う住民も多数いる。

沖縄タイムスの妄想に対し、育鵬社の責任者である八木秀次高崎経済大学教授は、こう述べている。

妄想は勝手だが、育鵬社版の採択は地区の教育関係者の独自の判断でで、育鵬社の関係者は採択の働きかけを全く行っていない。 自衛隊配備も国境の島として毎日、中国の脅威にさらされている地元の人たちが、例えば安心して漁業ができるようにとの思いが誘致しようと動いたのが実態だ。「中央の意図」など存在しようがない。≫(『正論』2月号)

沖縄タイムスは、仲間議員が育鵬社版教科書を推薦する理由にまともに反論できないので、育鵬社版採択の背後に蠢く「中央の意図」を妄想しているが、育鵬版を決めたのは民主主義のルールに従った民意の結果であり、与那国町への自衛隊配備要請も与那国町の民意である。(外間与那国町長は誘致派、町議会も誘致派が多数)

ここで注目すべきは、昨年来問題になっているのは歴史教科書ではなく公民教科書という点だ。

採択前から発狂3紙が異常な反対キャンペーンを繰り広げていたのは「集団自決」の記述をめぐる歴史教科書だったはずだ。

ところがその歴史教科書は「8・23協議会」で多数決で帝国書院版が選定され、育鵬社版に投票した石垣市教委、与那国町教委も不本意ながらも同一教科書の無償給付を受けるため、「無償措置法」に従い答申とおりの帝国書院版を採択している。

これで教科書問題は一件落着かと思われたが、続く公民で育鵬社が選定されると、今度は矛先を公民教科書にスウィッチし、狂ったような報道を開始したのは周知の通りである。

では、「彼ら」が育鵬社版教科書に反対する理由は何か。

これまで八重山地区を、いや沖縄全体を支配してきた「彼ら」圧倒的教育界の支配にヒビが入るからだ。

たかが教科書という意見もあるが、巨大ダムの崩壊も蟻の一穴からというたとえもある。

それだけ「彼ら」にとって育鵬社版教科書採択の衝撃は大きかったのだ。

この騒動を通じて筆者は「彼ら」のことを「極悪複合体」の命名したが、最近(反日左翼複合体)と但し書きを付け始めた。

ところが最近「彼らがイデオロギーにとらわれた集団であることは間違いないが、反日であるかどうかは疑問だ」という主旨メールを複数いただいた。

彼らが「32年テーゼ」の呪縛を自覚しているかどうかはさて置いて、少なくとも日本解体を狙った「32年テーゼ」の狙い通りのイデオロギー活動を、ソ連解体後も連綿と続けているのは事実であり、その意味では「反日左翼複合体」という命名は決して間違っていないと自負するくらいである。

11月19日、与那国町で自衛隊に反対する「与那国町改革会議」が開かれた。 その実行委員会は、自治労、沖教組などの八重山支部からなる「極悪複合体(反日左翼複合体)」である。

彼ら「反日左翼複合体」が育鵬社版教科書に反対する理由は、この教科書で学んだ子どもが健全な領土意識や防衛意識を持ち、自衛隊の存在意義を理解して、与那国への自衛隊配備に理解を示すように育つのを恐れるからだ。

慶田盛竹富町教育長が「子どもたちに触れさせない」というのもこの理由からだ。

その一方で、彼らが賛成する東京書籍版には尖閣の領有権に関し中国の主張をそのまま無批判に掲載し、自衛隊は憲法違反であるという趣旨で書かれている。

こうしてみると、彼らは「反日」どころか「売国複合体」と命名した方が的を射ているかも知れぬ。

 

【おまけ】

本日(12日)午後10時より、読者の「わんぬうむい」さんがキャスター(パーソナリティ)を務めるFMラジオの「宜野湾市長選挙」にからむ米軍基地問題、教科書問題など保守革新大歓迎の生放送をするとの事です。

参加者は締め切ったとの事ですが、是非ご聴取ください。

ご承知の通り、沖縄のメディアは新聞からテレビラジオに至るまで左翼に乗っとられた感がありますが、今回の八重山教科書問題でわかったように中立報道を守る小さな新聞・八重山日報などのに県民は注目し始めました。

FM21も小さいながら中立報道を守って孤軍奮闘しています。

電波の入らない地域もパソコンで聴取できますので、必ず聞いてください。

メルアドなどは文末に記して有ります。

以下はキャスター(パーソナリティ)のわんぬうむいさんのコメントです。

         ★

先日、この場をお貸りしまして番組への参加者を募集させて頂いたところ、多数の方々のご参加を頂きました。
残念なことに、沖教祖のM女史や、いつも汚泥のようなコメントを寄せて頂ける基地外さんからのエントリーはありませんでした。

今月は、来る宜野湾市長選挙に向けて、様々な論点から情報を発信してまいります。
その中では、伊波洋一氏を押す方々の正体など、普段マスコミが報道しない事実なども公表していく所存です。

狼魔人様の日記には、沖縄マスコミが県民に伝えたくない事実が数多くあり、私も大変参考にさせて頂いております。
これからは、左系の連中から「ネトウヨ」とレッテル貼りをされていた沖縄の良識が、放送という手段を使い、堂々と表に出て行くことになるでしょう。

話は変わりますが、那覇に護衛艦「いせ」以下数隻の艦が入港し、それにハンタイするプロ市民団体200名が駆けつけたそうです。
県庁を封鎖し恥ずかしい姿を晒した連中も200名でしたが、同じ連中でしょうか?
それに糸数慶子氏も参加したとのことですが、中国の船が尖閣で大暴れしたときにはチン黙し、自国の自衛隊が来たら反対する???
更に沖縄のことは放り出し、韓国へ逝って日本大使館前の嘘っぱち人形に詣でたあと、韓国人を引きつれ、読谷の「恨之碑」に参拝したとか・・
いったいどこの国の人間なんでしょうね?
こんな連中が推す候補者ってどうなんでしょう?
良識溢れる皆さんと、とことん語り明かします。

周波数は76.8Mhz
ネット視聴は、
http://www.stickam.jp/profile/fm21 もしくは http://fm21.net/
メッセージは radio@fm21.net わんぬうむい宛
毎週木曜日午後10時から生放送です。

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クジラの予告!スマトラ沖で地震 M7.3

2012-01-11 07:40:56 | 県知事選

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              ☆

早いもので東日本大震災から今日で10ヶ月になる。

日頃、地味な政治ブログの中にあって、最近ではさらに地味な教科書問題を書き続けている当日記だが、今朝のブログを開いて驚くと同時に急遽予定していたエントリー・テーマを変更した。

先ず驚いたのは、当日記のアクセス・キーワードが「クジラ 地震」が上位にランクしており、大震災の翌日にエントリーした

クジラは知っていた!巨大地震の予兆(3月12日)が、閲覧記事の第2位に堂々のランク入りしていること。

そして急遽変更したテーマはこれ。

スマトラ沖で地震 M7.3
NHK 1月11日 6時5分 
インドネシアのスマトラ島沖で日本時間の11日午前3時半すぎ、マグニチュード7.3の地震がありました。インドネシア政府は津波に注意するよう呼びかけましたが、およそ2時間後に解除し、津波の被害や地震によるけが人などの情報も入っていません。

アメリカ地質調査所によりますと、インドネシアのスマトラ島沖で現地時間の11日午前1時37分(日本時間の午前3時37分)、マグニチュード7.3の地震が起きました。震源はスマトラ島北部のバンダアチェから420キロ南西のインド洋の沖合で、震源の深さは29キロでした。この地震について、インドネシアの気象庁はスマトラ島西部の沿岸の住民に津波が発生した場合に注意するよう呼びかけましたが、およそ2時間後に解除しました。また、これまでのところ、津波の被害や地震によるけが人などの情報は入っていません。地元のメディアによりますと、震源に比較的近いスマトラ島北部、アチェ州の西岸地域などでは強い揺れが感じられ、多くの人々が建物の外に避難するなど一時、混乱したということです。

                          ☆

昔からナマズが地震を予知するとはよく言われているが、ナマズは淡水魚で太平洋には住んでいない。

そこで音に敏感だといわれるクジラや深海魚が太平洋では鯰に取って代わって地震予知するのか。

⇒ 打ち上げられるクジラ、深海魚 大地震の予兆が続々

沖縄の琉球大学といえば反日左翼教授やセクハラ教授の根城かと思っていたら、与那国の「海底遺跡」の研究で有名な地震学の木村政昭名誉教授がいる。

その木村政昭氏(地震学)が言う。

 「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。ただ、それよりも注目されているのがリュウグウノツカイです。めったに姿を現さない深海魚ですが、地震の前に現れるといわれている。東日本大震災前にもいろんな海岸で打ち上げられたと聞きました」

そのリュウグウノツカイが昨年12月21日早朝、静岡県牧之原市の静波海岸で見つかった。

静岡県といえば東海・東南海・南海地震の3連動地震だ。

科学万能の現代において地震の予知を不可能だとされている。

3・11東日本大震災は科学万能で驕り高ぶる現代人への自然のの警告とも受取れる。

一年前のエントリーでも書いたが、実は、昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

今年は元日から地震と縁が切れないスタートとなった。

1日午後2時半ごろ、関東から東北にかけた広い地域を震度4の揺れが襲った。震源は鳥島近海で、マグニチュード7.0。  

この地震と前後するようにクジラが相次いで海岸に打ち上げられていることだ。

2日午前6時ごろ、小田原の海岸で体長約6メートル30センチのザトウクジラが死んだ状態で発見された。

ザトウクジラは先月も静岡県で2頭打ち上げられている。

クジラが関東大地震を予知しているのか。 

国立大学の地震学の権威がクジラや深海魚に地震の予知を頼む姿は、いかにも漫画チックだが、しばし科学万能の人間の驕りを反省しクジラの声に耳を傾けるのも決して無駄ではないと思う。

参考:クジラは知っていた!巨大地震の予兆(3月12日)

【おまけ】

「ジュゴンとクジラ」

同じ琉球大学の教授でも、木村教授が静岡の打ち上げられたクジラに関心を持ち、反日左翼教授の面々は、誰も見たこともないジュゴンを守るために国防を犠牲にせよと叫んでいる。

沖縄とは不思議な島である。

 

【小沢裁判】

「天下国家を考えるのに集中し、こまかいことは秘書に任せている」

「4億円は、たまたま金庫にあっただけ」(小沢氏)

 

「たまたまじゃ、仕方ない」「4億程度なら良くある話だ」(鳩山元首相)

「そうそう、ワシにもよくある」(ボケ老人)

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カメムシ先生発病す!

2012-01-10 13:01:03 | 八重山教科書採択問題

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【お詫び】12:47

パソコンの不具合で、文章が一部飛んだり、消えたりしてご迷惑をおかけしお詫び申し上げます。

30分以内に再編集して再度アップの予定です。 

【再エントリー】13:00

70年前に旧ソ連が発した「天皇制打倒」を指示する「32年テーゼ」の亡霊に取り付かれた日本の左翼勢力は、指令塔のソ連(コミュンテルン)が崩壊した後も、教祖を共産党一党独裁の中国に置き換えただけで相変わらずの反日活動を続けている。

八重山教科書問題でわが国とっては重要な尖閣諸島の領有権に関し、中国の主張を何のコメントもつけずそのまま掲載した東京書籍版教科書の採択に固執し日本中を騒がした「極悪複合体(反日複合体)」こそが「32年テーゼ」の亡霊に取り憑かれた集団の典型ということが出来る。

「32年テーゼ」の亡霊は本人の意識するしないに関わらず、「戦後民主主義」「進歩的文化人」という文脈で現在の知識人といわれる人々の間に深く浸透していることを、図らずも今回の八重山教科書問題が明らかにしてくれた。

「天皇制打倒」「反国家」も目指す人々が跋扈する沖縄タイムスには、今年になってから新川明氏、川満信一氏など御なじみの面々が新春特集記事で「国民国家解体の予兆」などとオドロオドロしい大見出しで、カビの生えたような国家解体論(反日論)をぶち上げているのには今更ながら言葉を失う。

一瞥しただけで詳細を一々取り上げる気はないが、80歳の沖縄文化人が書いた青臭い文章の一説を紹介する。

「つまり、アメリカと自衛隊が組んで進めている辺野古新基地などは、産軍複合の経済とそれを支える政権の、病気の末期症状であり、アメリカの病気をこれ以上重くしない、というのが国際的道義にかなった結論になる。 東アジア共同体が組織されたら、国対国の緊張は解けるわけだし、国家財政を圧迫する元凶の、軍事予算が縮小されるだけ民生は潤うことになる。(沖縄タイムス 2012年 1月10日)

アメリカの病気を気遣うのは結構だが、その対案として東アジア共同体を組織すれば中国が軍拡を止めると本気で考えているとしたら、もはや笑う以外になすすべを知らない。

アメリカの病気を気遣う前に、自分の「思考停止」というビョーキこそ気遣うべきではないのか。

これが20歳前の青年の書いた論文ならともかく、80歳の文化人の「年始評論」というのだから沖縄の論壇の貧弱さは推して知るべしである

 

川満氏の「年始評論」を読んでとっさに、誰が言ったか。こんな意味の言葉を想いだした。

「学生時代に社会主義にかぶれない者はバカだが、大人になっても社会主義にかぶれている者は本物のバカだ」。

川満信一氏は、大人どころか80歳になっても少年時代と同じ思考のままだとしたら、ある意味幸せな老後なのかもしれない。

反君が代教師「君が代を弾くと指が震え胸がつまり冷汗出る」 
2012.01.06 07:00
橋下徹・大阪に市長が推進する教育改革に対し、教員組合側は激しく反発している昨年12月上旬には、大阪職員組合(大教組)など8団体が主催した1400人を集めた反対集会が開かれた。

集会に参加した教師たちは、普段は子供たちに教育を施す「先生」である。そして、子供たちには暴力的な行為を否定することを教えている。だが、そうした“聖職者”が我慢の限界を超えると、時として自身が“暴力装置”に変貌することがある。その“導火線”となってきたのが「君が代」問題だ。

2008年に橋下氏が府知事に就任して以降、大阪では教職員への国歌斉唱時の不起立に対する戒告処分が続いてきた。2010年3月に府立高の卒業式で起立しなかった4人の教員が戒告処分を受け、昨年6月には府議会で「君が代起立条例」が成立し、府立校で君が代斉唱の際の起立が義務化された。現役の府立校教諭で、「『日の丸・君が代』強制反対ホットライン大阪」事務局の井前弘幸氏が語る。

「個人の思想・良心から国歌斉唱の際に不起立をする者の多くは、組合活動を熱心に行なってきた50代の教員です。今後も自身の信条に従って起立せず、条例に背いて処分を受け入れる可能性が高いでしょう。

橋下市長の狙いは、こうした教員を学校から追い出して若い教員の後ろ盾を奪ってから、評価システムで管理・支配をしていくことにある。そのために君が代を踏み絵にしたのでしょう」

それが教組の中核教員に絶大な影響を与えることは、過去の事例からわかる。東京の都立高校元教諭で「不起立のジャンヌ・ダルク」の異名を持つ女性教師は、自身のHPでこう心情を述べている。

「(式典で君が代を聞くと)心臓がバクバクし、中国大陸に侵攻した日本軍の若い兵隊が中国人捕虜を銃剣で突くように命じられた姿が浮かんだ。私は“お前は突くのか”といわれているようだった」

こうした「反君が代」教員の相談に乗ってきた精神科医の野田正彰・関西学院大学教授の調査では、こんな事例が報告されている。

音楽準備室に入り込んでくるカメムシが教育委員会の人間に見えて、見張りにきたと感じた
「クビを吊っているイメージが浮かぶ

「『君が代』を弾こうとすると指が震え、胸がつまり、冷や汗が出てくる」

極端なものになると、「ピアノ伴奏を強要され続けた音楽教師がストレスによる出血で緊急入院し、診断を受けたところ胃の動脈8か所から出血していた」という。このエピソードは昨年のW選挙期間中に『赤旗』による橋下批判記事で取り上げられ、教師たちの間で反響を呼んだ。

※週刊ポスト2012年1月13・20日号

            ☆

非常に簡単な理屈だ。

思想・信条の自由を憲法で保障されたわが国では、日の丸、君が代に反対するのも自由かもしれない。

ただ公務員たる公立の教員が法令で定められた「日の丸、君が代」に公然と反対するのなら、公務員を辞職してから反対すればよい。

日本国憲法は職業選択の自由は認めているからだ。

このカメムシ先生については過去に何度かエントリーしている。

 

 

戦後レジームの崩壊、国歌起立合憲から一部抜粋する。

≪昨日、5月30日は安倍元首相のいう「戦後レジーム」の象徴とも言える「日教組による国旗・国歌否定」が最高裁判断により粉砕された記念すべき日である。

これに対し今朝の沖縄タイムスは一面トップと社会面で怒りの大見出しが躍っている。

君が代起立命令 合憲

「制約に合理性」最高裁初判断

思想の自由制限される

君が代訴訟 学校現場に疑念

日の丸と君が代は法律が定める国旗と国歌であるにも関わらず、沖縄タイムスは敢て君が代、日の丸と記しているのは精一杯の抵抗のつもりだろうが、ことここに至っては引かれ者の小唄のようで大笑いである。

最高裁判断が下された同じの沖縄タイムスは次のような恥ずかしいコラムを書いていた。

[大弦小弦]サッカー日本代表イレブンが試合前…

沖縄タイムス2011年5月30日 

 サッカー日本代表イレブンが試合前、胸に手を当てて君が代を歌う。W杯などではおなじみの光景だが、中には歌わない選手もいる。歌う歌わないは本人の自由意思。決して強制されるものではない

▼しかし、大阪府の教職員は起立・斉唱を強いられることになりそうだ。橋下徹府知事を代表とする「大阪維新の会」の議員らが、起立・斉唱を義務付ける条例案を提出した

▼なぜ今なのかという疑問がつきまとう。同会は先月、府や市の議員選で大躍進したばかり。選挙前にはほとんど争点にもならず、市民を交えた議論がどれほど尽くされたのか。多数を盾に、力ずくの姿勢が見え見えだ

▼条例案は、国や郷土を愛する心を育てることが目的の一つ。しかし、郷土愛などは自然発生的な気持ちで敬意を表すことが本来の姿であり、強制するものではない

▼ましてや君が代の場合、戦争を想起させる、として拒否する人は少なくない。だからと言って、「歌わない=愛国心がない」とは言えまい。個人の思想信条を法律でゆがめることは許されない。むしろ、さまざまな意見があることを教育現場で教えることが大切だ

▼押し付けられれば、息苦しい。規律の厳格化だけでは学校の雰囲気は張り詰める。もの言わず縮こまる先生を、子どもたちはどう思うか。不安だけが募る。(平良哲)               

             ☆

最高裁判断が下される日はマスコミでも予見できないと聞くので、まさかその日の午後にはコラムを真っ向から否定する最高裁判断が出ようとは執筆者の平良記者は夢想だにしなかったのだろう。 それにしても最高裁判断と同じ日にこのようなコラムを書くとは、とんだ大恥を晒してくれたものだ。

無視するの可愛そうなので、すこしお付き合いをしてみよう。

先ずサッカー選手で国歌を歌わない例をあげているが、今問題になっているのは公務員である教員のことだ。 公務中は当然だ。

嫌なら職を辞すべきだろ。 問題を履き違えて御託を並べるのは記者として恥ずかしい。

>戦争を想起させる

何を想起しようと自由であるが、だからといって生徒や家族が祝賀する厳粛な式典を妨害するほど「思想の自由」を全うしたいなら、さっさと教員を辞めるべきであり、少なくとも式典当日は自己責任で欠席すべきである。

「式典での国歌斉唱時には起立しましょう」という職務規程を守る気がないなら、他の職に変わればいい。「思想・信条の自由」と言うが、転職する自由はあるのだから。

「公務員だったら国の規定に従えよ」という一言で全て済む。

 

 >「歌わない=愛国心がない」とは言えまい

当たり前のこと。 当たり前すぎてバカバカしくなる。 逆に歌ったからといって愛国心があるとは限らない。

ここで問われているのは愛国心の有無ではなく、自分のイデオロギーのために職務命令を踏みにじり職務の一環である式典を妨げてはいけないと言うことである。

勿論愛国心があるに越したことはないし、付言すれば愛国心がないと公言するなら、どこか知らないが愛する国の国民になればよい、と言う話である。

           ☆

 

  憲法守った」と自負=元教諭、政治介入を批判-再雇用拒否訴訟
 失意はあるが、志を曲げず、憲法を守ろうとする義務を果たしてきたと思う」-。君が代斉唱をめぐる再雇用拒否訴訟で敗訴が確定した都立高校元教諭の申谷雄二さん(64)は30日、東京都内で記者会見し、晴れ晴れとした表情を浮かべた。(2011/05/30)

 

 この元教員の次のコメントは「引かれ者の小唄」の例えがもっとも相応しい

 

 ♪♪「失意はあるが、志を曲げず、憲法を守ろうとする義務を果たしてきたと思う」♪♪

爆笑ものだね。

何が「憲法を守ろうとする義務」なのか。何もわかっちゃいないよ、この男。 

 

こんな教員が法廷にまでしゃしゃり出て「強制云々」で御託を並べなければ、「国旗及び国歌に関する法律」など制定する必要も無かった。

教員を辞めて一般人になって一人で「君が代斉唱は思想信条の自由を侵害する」とほざく分にな誰も文句を言うことは無い。

いや、文句どころか誰も相手にしないだろうが。

 【おまけ】

沖縄タイムスのコラムの「君が代の場合、戦争を想起させる」について。

戦争を連想するのはともかく、さらに妄想が昂じて「カメムシが見える」というビョーキの発症を来たした教員もいた。

このビョーキには何科の病院が適しているか。

◆耳鼻科系⇒「キナクサイ臭い」がしだす⇒「軍靴の響き」が聞こえ出す 。

眼科系⇒「いつか来た道」が見え始める。

精神科⇒「カメ虫」が見え始める。  

 カメムシ先生「君が代訴訟」で敗訴確定!    

 

 

 

               ☆

ところで、問題の最高裁はどのように判断したのか。

あまりにも真っ当すぎる判断なので当日記が敢て立ち入る余地はない。

 

 

国際常識を身につけるため、国旗、国歌に敬意を」 国歌斉唱時の起立命令は合憲 最高裁が初判断
2011.5.30
 上告が棄却され、支援者らとともに記者会見する申谷雄二さん=30日午後、東京・霞が関の司法記者クラブ
 卒業式の国歌斉唱で起立しなかったことを理由に、退職後に嘱託教員として雇用しなかったのは違法として、東京都立高の元教諭が都に損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(須藤正彦裁判長)は30日、起立を命じた校長の職務命令を合憲と判断し、元教諭側の上告を棄却した。都に賠償を命じた1審判決を取り消し、元教諭側の逆転敗訴となった2審判決が確定した。

 最高裁は平成19年2月、国歌伴奏を命じた職務命令を合憲と初判断したが、国歌斉唱の起立命令に対する合憲判断は初めて。

 1、2審判決などによると、元教諭は16年3月の都立高の卒業式で起立せず、東京都教育委員会から戒告処分を受けた。19年3月の退職前に再雇用を求めたが、不合格とされた。

 同小法廷は判決理由で、卒業式などでの国歌斉唱の起立は「慣例上の儀礼的な所作」と定義。起立を命じた職務命令について「個人の歴史観や世界観を否定しない。特定の思想の強制や禁止、告白の強要ともいえず、思想、良心を直ちに制約するものとは認められない」と指摘した。

その上で、「『日の丸』や『君が代』が戦前の軍国主義との関係で一定の役割を果たしたとする教育上の信念を持つ者にとっては、思想、良心の自由が間接的に制約される面はあるが、教育上の行事にふさわしい秩序を確保するためには合理的だ」との判断を示した。

 判決は4人の裁判官の全員一致の意見で、うち3人が補足意見を付けた。竹内行夫裁判官は「他国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要」とした。

 1審東京地裁判決は21年1月、職務命令の違憲性を否定したが、「起立しなかったのは1回だけで不採用は裁量権の乱用にあたる」として都に約210万円の賠償を命じた。2審東京高裁は同年10月、職務命令の合憲性を認め、命令がある以上、元教諭は従う職務上の義務があるとして、1審判決を取り消し、逆転判決を言い渡した。≫

           ☆

 

参考;幻聴を記事にする記者

 

橋下大阪市長の教育改革は、八重山教科書問題でルール無視で世間を騒がせている「極悪複合体」にとって逆風になる、と書いた。

当然のことだが八重山地区で起きた「玉津教育改革」にとっては追い風になる。

沖縄で橋下氏の教育改革に従うとしたら、沖縄タイムスの社屋はカメムシが飛び交うことになるだろうし、沖教組の巣窟である那覇市の教育福祉会館などは時ならぬカメムシの集団発生で隣近所から苦情が出るだろう。(爆)

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沖縄タイムスは32年テーゼの奴隷!

2012-01-09 06:55:44 | 八重山教科書採択問題

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八重山教科書問題で「極悪複合体(反日左翼複合体)」の存亡を賭けた戦いに完敗を悟った沖縄タイムスは、今年の1月3日号から「復帰40年」の連載特集に絡めて八重山教科書問題で失った左翼の「「聖地回復」の戦いを挑んできた。

そして1月4日付け記事のタイトルが「八重山は狙われた」であるが、一体誰が何のために八重山を狙ったというのだ。

それにしてもリベンジ戦にしてはずいぶんとお粗末な理論構成である。

第1部 風は南から②教育と政治 「八重山は狙われた」

 八重山の教科書問題は、解決の道筋さえ見えないまま年を越した。今回の中学校の公民教科書の採択協議では、当初から「つくる会」系計教科書の採択に向け主導してきたのが八重山地区採択協議会会長の玉津博克石垣市教育長だった。

 愛国心や自衛隊の存在を重視する「つくる会」系の育鵬社版公民教科書の採択を目指した玉津氏の意図は何か。昨年末に数回にわたって取材を申し込んだが、玉津氏は「(取材には)応じられない」と口を閉ざし続けた。

 このため、玉津氏が八重山高校の校長在籍中に教育委員に推薦した中山義隆石垣市長や関係者に話を聞いた。

「八重山の最高学府は八重山高校。そこで校長を務める人なら、学力向上を推進してくれると思った」
昨年暮れ、市役所で取材に応じた中山市長は、玉津氏の教育長起用をこう説明した。

 二人の出会いは中山市長の市議時代にさかのぼる。学力向上に向けた持論を熱く説く当時校長だった玉津氏と意気投合。自身の市長選での公約の筆頭に「学力向上のため県下最高水準の教育を目指す」ことを掲げ、当選直後に現役校長を任期途中に教育委員に推薦、教育長に選ばれた。

「行政区域の長が尖閣に上陸することに大きな意味がある」「八重山の安全を守る自衛隊に感謝し、地元としてはしっかり協力する」。尖閣や自衛隊に関する質問には歯切れよく質問に答えた中山市長だが、
天皇制や軍事色を強く打ち出した育鵬社版教科書の採択をめぐる自身の関与については「教育に政治が関与すべきではない」と言葉を濁した。

 一方で、玉津氏の起用には、中山市長の後援会長を務める元市長の半嶺富泰(82)の後押しがあったとの見方がある。玉津氏は半嶺氏と同じ宮良出身。半嶺市政時代に多用された、“宮良人事”との声もささやかれる。

 
半嶺氏の自宅を訪ねると、畳間には日の丸と皇族の写真が飾られていた。半嶺氏は「玉津君は歴史をずっと勉強してきた一徹な男。校長より教育長の方がいいと、本人や中山君にも勧めた」と明かす。

 玉津氏を支援するかのように昨年、「共産党=沖教組」と書かれた垂れ幕が市内で目につくようになった。また、八重山にはつくる会系関係者や保守系の政治家も相次いで来島。つくる会系の教科書を推し、今の憲法を米国の押し付けとして改正を求める保守系組織「日本会議」と中山市長との強いつながりを指摘する声もある。

 こうした動きを予期させるような出来事が実は、教科書問題が表面化する半年前に起きていた。教育関係者は「国境や尖閣を理由にして、知らぬ間に八重山が狙われていた」と唇をかむ。(復帰40年取材班・吉川毅) 

 [ことば] 
八重山地区教科書問題 
 2012年度から4年間使われる中学校教科書の選定作業で、県内6地区の採択協議会のうち、石垣、竹富、与那国でつくる教科用図書八重山採択地区協議会(会長・玉津博克石垣市教育長)だけが今回、調査員(現場教師)の順位づけを廃止し、無記名投票で「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版公民教科書を選定した。同社の歴史観に反発の声が上がる中、石垣、与那国の両教委は同社版を採択、竹富教委は不採択としたため、県教委などが合意形成を求めていた。また同様の選定手続きの改変は、「自由主義史観」を打ち出した「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書を選定した他県の例と類似しており、県内外から懸念の声が上がっている。(沖縄タイムス 2012年1月4日)
 

              ☆

いかにも何者かが八重山地区を軍国主義の島にすべく「独特の歴史観」を持つ玉津氏を八重山地区に派遣したような書き振りである。

沖縄タイムス年末に数回にわたって玉津氏に取材を申し込んだが断られたとのこと。

断って正解である。

何を話しても話の真意は報道せずに、歪曲どころか話してもいないことを言ったと捏造して報道するイカレタ記者のいる発狂新聞の取材等断るのが当然である。

そこで沖縄タイムスは玉津氏を任命した中山市長に取材を試みている。

■八重山を狙ったのは民意だった!

では中山市長は一体どのような軍国主義の権化によって市長にされたというのか。

何しろ「独特の思想」の持ち主の玉津氏を教育長に任命した人物のことだ。

「独特の思想」どころか狂信的軍国主義者が中山市長を任命したのかと思いきや、極左前市長を圧倒的大差で市長の座から引き摺り下ろして、中山市長を選任したのは紛れもなく石垣市民の民意だったのだ。

従って玉津氏が、沖教組独裁により採択されていた従来の違法な採択手法を是正すべく行った教育改革も民意ということが出来る。

沖縄タイムスは八重山を狙っているのは、八重山の民意であると白状したことになるのだから以って瞑すべきである。

>天皇制や軍事色を強く打ち出した育鵬社版教科書

吉川記者は育鵬社版教科書のどの部分をみてこのような断定的なことがいえるのだろうか。

それとも又世嘉例記者と同じように幻覚・幻聴で「軍靴の響き」悩まされているのだろか。

記事に「天皇制」と言う言葉が出て来るが、この言葉は明治憲法制定の時には言葉として存在していなかった。

そもそも戦前戦後を通じてわが国は憲法をいただく議会制民主主義による立憲君主制を採っており、「天皇制」なる政治形態を採ったことはない。

明治憲法も議会制民主主義による立憲君主制を基調にした憲法である。

■幻の「天皇制」

古代日本には言霊(ことだま)と言うことが信じられていた。

言霊とは言葉に宿っていると信じられる不思議な力のことであり、それが更に進んで言霊により、発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。

ある思想・信条を持つグループがその思想をある言葉に秘めて使い続けると、その言葉を聞いた瞬間一つのイメージの呪縛に取り憑かれる。

「天皇制」と言う言葉は本来共産党が、自分達の天皇に対する呪いの言霊を込めて使った造語であり、日本の歴史には左翼の登場以前には「天皇制」という言葉は存在しない。

1922年、日本共産党が秘密裏に結成された。(戦前は共産党は非合法だった。)

そして「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。

1932年のコミンテルンテーゼは、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記した。

コミュンテルンが日本共産党に指令した有名な「32年テーゼ」である。

そして天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。

第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の業界用語であり、一般には認知されていなかった。

だが、現代では共産党と関係なく一般にも使用されている。

戦後の新聞メディアは、戦前の反動で左翼に傾き、非合法時代の日本共産党の業界用語に過ぎない「天皇制」を唯々諾々と受け入れ一般にも無抵抗に使用され出したのだ。 その意味では共産党の作戦は一部成功した。

今でも共産党の「天皇制廃止論」に従う人はこの言葉に呪いの言霊を込めて「天皇制」、「皇民化政策」などと使用している。

言論・思想を2大紙が牛耳る沖縄では、「天皇制」という造語に対し、この傾向が著しい。

地元紙の影響で沖縄では、「天皇制」と言えば、「軍靴の響き」、「戦争」、「侵略」、「住民虐殺」等々と言霊が彷徨い出して来る。

最後にはコミュンテルンが指令した「32年テーゼ」つまり「天皇制打倒」と言うスターリンの亡霊にまでたどり着く。

繰り返すが「天皇制」は日本共産党内部の「業界用語」であり、その後には当然の如く「打倒」と言う言葉が対句が連なる。

そして「天皇制打倒」で「天皇制」という未完の熟語は完成する。

■「32年テーゼ」の奴隷 

さて、わが国の歴史には存在しない「32年テーゼ」の幻である「天皇制」を、育鵬社版教科書の中に幻視する吉川記者の思考は、戦いを始める前から既にイってしまっているのだろうか。

戦後の進歩的文化人と称する学者、新聞人などは本人の自覚、無自覚に関わらず「32年テーゼ」の奴隷になっているといわれる。

谷沢永一氏は著書『自虐史観もうやめたい!』(ワック 2005/06、p42 )の中で、今でも日本の歴史の中に「天皇制」の幻を見る反日左翼人のことを次のように、批判、というよからかっている。

≪それから数えて70年を超す今日に至るまで、わが国における左翼人であって、なおかつ「32年テーゼ」に多少とも批判の言辞(げんじ)を吐いた人はひとりもありません。たとえ一字一句でも、訂正の必要ありと申し立てた人はいないのです。それどころか、少しおかしいぞと、疑義(ぎぎ)を抱いた人もありません。

そもそも遠い外国で、日本の実情をよく知らない連中によって作成された文書に、誤りがあっても当然ではないかと、首をひねった人さえないのです。ひとり残らずの左翼が襟(えり)を正しておしいただきました。批判精神を発動した人なんか絶対に見あたりません。「32年テーゼ」は日本の左翼にとって神のお告げでありました。

そこではじまったのが、「32年テーゼ」に自分がいかに忠誠を誓っているかを誇る信仰競争です。左翼学者がこれこそ自分の使命であると痛感したのは、「32年テーゼ」を物差しに使って、日本近代史がいかに暗黒社会であるかと暴きたてる立論でした。近代日本は「32年テーゼ」が罵(ののし)っているとおりに悪虐無道であったと非難し、それによって「32年テーゼ」が完全無欠に正しいと喚(わめ)きたてる論証ごっこです。

「32年テーゼ」は、日本の左翼人にとって、絶対的な心の拠り所となりました。「32年テーゼ」と食いちがう議論をする者は、すべて邪教に迷う異端の輩(やから)です。「32年テーゼ」にぴったりの理論を組み立てる人こそ、真理に忠実な本当の学者と見なされます。

そのために費やされた精力(エネルギー)は莫大な量に達しました。正統を以ってみずから任じる学者たちが集まって共同執筆した『日本資本主義発達史講座』(昭和7年5月20日~8月26日・岩波書店)は、その集大成であり金字塔です。

すでに「32年テーゼ」が与えられていたのを土台とする“研究”を、「32年テーゼ」によって色揚げした苦心の作品なのですが、なんとまあその手廻しのいいこと、いや失礼、勤勉努力の真摯(しんし)な研究ぶりには、思わず帽子(シャッポ)を脱がざるをえませんね。この『講座』の柱となった論文の集録である山田盛太郎(もりたろう)の『日本資本主義分析』(9年2月21日・岩波書店)は、左翼人の間において最高至上の教科書となりました。

この60数年間、わが国の左翼人、戦後の進歩的文化人、そして現代の反日的日本人、彼らが書きちらした近代日本についての“批判”は、すべて「32年テーゼ」が指示した方向を忠実に守っています。いろいろ手のこんだ理屈を並べてはいても、「32年テーゼ」をはみだした例はありません。彼らはひとり残らず「32年テーゼ」の“奴隷”だったのです。≫

             ☆

■狂信的軍国主義者が八重山を狙う?

>半嶺氏の自宅を訪ねると、畳間には日の丸と皇族の写真が飾られていた

いかにも意味ありげな書きっぷりだが、まさか「中山市長を背後で操る『狂信的軍国主義者』は半嶺氏」というのではないだろう。

日本国の国旗と国の象徴である皇族の写真を飾っただけで「狂信的軍国主義者」と決め付けられたらたまったものではない。

意味ありげな吉川記者の印象操作は次のように「八重山は狙われた」の章を結んでいる。

>こうした動きを予期させるような出来事が実は、教科書問題が表面化する半年前に起きていた。教育関係者は「国境や尖閣を理由にして、知らぬ間に八重山が狙われていた」と唇をかむ。

何も唇をかむ必要はない、と教育関係者には言っておきたい。

これは民意だったのだ。

16年にも及ぶ極左前市長の反自衛隊、反米軍の「平和ボケ」政策に対し、石垣市民がノーを突きつけたのが事実であり、幻の「狂信的軍国主義者」が八重山を狙ったわけではない。

「平和ボケ」の長い眠りから目覚めた市民が、自国の領土で石垣市の行政管理地域でもある尖閣諸島を中国が自国の領土と主張するのは日本国民として看過できないのだ。

 

【おまけ】

「32年テーゼ」の奴隷であると同時に、中国の工作員である「発狂3紙」は中国様の逆鱗にふれるような「尖閣の日」の記事は気が引けるのだろう。

八重山日報が8日、堂々とこれを報じているのはさすがである。

■八重山日報 2012年1月8日

14日尖閣諸島開拓の日
市主催 初の式典
シンポも開催
 尖閣諸島が石垣市の行政区域であることを内外に示す「尖閣諸島
開拓の日」の14日、市主催の式典がこの日午後2時から、市民会館
中ホールで開かれる。
 市は各政党代表や地元の関係者など約300人を招待している。式
典に続き、八重山周辺海域を活用した地域振興を考えるシンポジウ
ムが開催される。市は参加者について「調整中」としている。
 また、尖閣諸島の貴重な写真や古文書、行政文書などの展示会が
14日から20日まで、市民会館展示ホールで開かれる。
 昨年は「尖閣諸島開拓の日を定める条例」制定記念式典が開かれ
ており、式典は今年で2回目。1月14日は1895年、日本政府が
尖閣諸島を自国領として編入することを閣議決定した日。


■八重山毎日
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