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八重山教科書問題で桁違いに小さな地域紙・八重山日報に「不都合な真実」の暴露などで、完膚なきまで打ちのめされた沖縄タイムス。
今年は連載企画「本土復帰40年 沖縄の自画像」を看板に掲げてはいるもの教科書問題での失地回復に躍起になっているのは誰の眼にも明らか。
その「第一部 風は南から」シリーズは、現在⑥まで掲載されているが、⑤の「八重山の2紙」では建前上八重山毎日と八重山日報を紹介しているものの紙面の大部分を「仇敵」の八重山日報の取材記事に当てている。(笑)
同記事によると、教科書問題が表面化した昨年7月以降、八重山日報の新規購読部数は多いときで月100も増えたということだから、その分だけ「発狂3紙」のどちらかが減ったということだろう。 煮え湯を呑まされた仇敵の躍進振りを記事にする吉川記者の心中いかばかりか、ご同情を申し上げたいが、ウソを書く新聞と真実を書く新聞を比べられたら誰でも真実を伝える方を取る。
読者の選択は間違っていない。
「発狂3紙」は、「残虐非道の日本軍」の印象付けとして教科書に「集団自決」に加えて「戦争マラリア」の記述を次のターゲットに持ち出した。
軍の命令は「集団自決」のみならず「戦争マラリヤ」も、軍の強制連行の結果だというのだ。、
第一部 風は南から⑥ 戦争マラリア
「島に“亡霊” いれぬ」
≪八重山地域の中学校でこち氏4月から使われる公民教科書採択をめぐっては、竹富町教委だけが「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版の採用を拒み続けている。
戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。
慶田盛教育長は波照間島出身。 4歳のとき由布島に疎開し、故郷に戻ってマラリヤに罹患(りかん)した。
親族が犠牲になり、ムシロでくるまれた遺体を運ぶ光景や腐臭は今も記憶から消えない。
「スポンジのように吸収する子どもには、尖閣で国防や愛国心をあおるのではなく、八重山であった悲しい悲しい歴史を通し、平和を考える教育が必要だ」。 慶田盛教育長は「二度と子どもたちを犠牲にしない」という思いと戦争への怒りを何度も口にした。
波照間島で教科書問題について尋ねると、慶田盛教育長の姿勢を支持する人がほとんどだった。 元波照間公民館長の浦仲博さん(88)もその1人だ。
浦仲さんは、今回の教科書問題と、31年前の苦い記憶を重ねる。 1981年8月7日、太平洋戦争末期に島民を日本刀で脅し、マラリヤの汚染地域に強制的に疎開させた山下虎郎(本名・筒井清)軍曹が、ひっそり島を訪れていた。
「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼び戻すように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」。 島の代表として本人に付き付けたた抗議書。 両親と親戚9人を失った妻の苦しみを思うと、今も怒りに震える。
「島民の傷は一生消えない。 戦争につながるものは島に入れさせない」。 浦仲さんは八重山の今を思い、言葉に力をこめた。(復帰40年取材班・吉川毅)≫(沖縄タイムス 2012年1月11日)
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先ずこの記事に関する読者のメールトを紹介する。
狼魔人様のブログに過日紹介がありました
「ヒジャイ」さんの本日のブログ、沖縄タイムス1月11日号
「本土復帰40年、沖縄の自画像『島に゛亡霊"いれぬ』」について、
「罪を憎んで人を憎まず」は竹富町にはないのか、と題して
八重山教科書問題、竹富町のケダモノが如き
「ケダモリ」教育長の頑な思考論理等に関して、
自己思想に囚われた偏向思想の押付けである趣旨で論評し、
人の道、平和、国防問題を説く透徹した論考が掲載されています。
ブログ標題の内容に関する部分を読み、
不覚にも目頭が熱くなりました。
誠に失礼とは存じながらも、ブログ主狼魔人様へ、
勝手に別ブログ紹介のお願いとなりました。
引用等については「ヒジャイ」さんの許可が必要でしょうか、
http://plaza.rakuten.co.jp/hijai/diary/
狼魔人様の教科書問題の論考エントリーと併せ
読者の皆様へご紹介くださいますよう、
読者の勝手なご案内とお願いまで。
石垣島より、匿名
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「ヒジャイ」さんのブログは以前にも何度か「勝手に」紹介させてもいただいた。
「匿名」さんも仰るように本来ならご本人の了解を得て紹介すべきだが、一日過ぎると気が変わる気まぐれゆえ、思い付いたが吉日で、相変わらず変わらず「勝手に」に紹介させて頂く。 勿論ご本人に何かの不都合が有れば御連絡次第削除することに吝かではない。
以下引用 ☆
「スポンジのように何でも吸収する子どもには、尖閣や国防や愛国心をあおるのではなく、八重山であった悲しい歴史を通じ、平和を考える教育が必要」と感じ「二度と子どもたちを犠牲にしない」という思いと戦争への怒りを理由に、八重山採択地区協議会の採択した育鵬社の教科書を採択しないで東京書籍の教科書を採択したことは法律上なんの問題もない。
問題なのは八重山地区の無償給与教科書を八重山採択地区協議会で育鵬社の教科書と決めたのに、東京書籍の教科書も無償給与しろと国に要求したことである。
無償給与教科書以外の教科書を無償給与することは法律違反だから国はやるはずがない。竹富町は慶田盛教育長の政治思想を優先して東京書籍の教科書を採用するのなら、竹富町が教科書代金を負担するのは当然だ。
竹富町が育鵬社の教科書を拒否し、東京書籍の教科書を採択したのは明らかに政治思想が原因している。慶田盛教育長の戦争体験は戦争の一部である。戦争は国家の問題であり、戦争の原因、戦争の規模、戦争の過程、犠牲などを全体的に教えるのが教育の基本である。
「八重山であった悲しい歴史」を教えるのはいいが、一部の戦争被害を教えるのでは教育とはいえない。なぜ戦争が起こったか、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内乱など子どもの視野を世界に広げる教育が大事だ。
尖閣、中国、アジア問題はこれからの日本には重要な問題である。「尖閣で国防や愛国心をあおるのではなく」という理由で教えないのは間違っている。
慶田盛教育長は「二度と子どもたちを犠牲にしない」と述べているが、八重山の悲しい出来事を教えることが「二度と子どもたちを犠牲にしない」にはならない。日本が軍国主義に戻ることはない。
日本全体をそして世界を見れば分かる。
アフガン、イラクは民主主義国家になり、エジプト、リビア、チュニジアの市民革命は成功した。これから民主主義社会をつくっていく。ミャンマーも民主主義国家になった。シリアも市民運動が続いている。アジアでも韓国、台湾、フィリピン、カンボジアは民主主義国家になった。世界の流れは民主主義へと流れている。
日本が軍国主義国家に戻ることはあり得ない。それどころか日本の民主化はわずかながら進んでいる。
「八重山の悲しい出来事」にこだわりすぎると日本、世界の現実を知らない子どもを育てることになる。慶田盛教育長の自分の体験にこだわった教育は間違っている。八重山だけでなく、沖縄、日本、アジア、世界を知る教育をするべきだ。
太平洋末期に島民を日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた山下虎雄軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時に、「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と浦仲さんは抗議書を突きつけたという。
戦後66年が過ぎた今も怒りは消えず、「島民の傷は一生消えない。戦争につながるものは島にいれさせない」と浦仲さんは述べている。
浦仲さんは「恨みつらみ」を子や孫たちへ伝えるというのだろうか。それでは子や孫たちがかわいそうだ。
なぜ山下虎雄軍曹は島を訪れたのか、「恨みつらみ」の強い浦仲さんはその理由を聞かかった。ただひたすら「恨みつらみ」を山下虎雄氏にぶつけた。山下虎雄氏が好き好んで島民を日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させただろうか。山下虎雄氏も軍国主義の犠牲者ではなかったのか。
戦前はみんな軍国主義教育を受けた。戦後の日本を牽引した多くの政治家や知識人も戦前は天皇崇拝者であった。山下虎雄氏もそのひとりだ。
山下虎雄氏もどこか田舎に生まれ育った普通の人間であっただろう。赤紙で徴兵されて軍国主義を叩き込まれた若者のひとりだっただろう。戦争が終わり、戦争中の自分の行為を死ぬほど後悔したかもしれない。悔いても悔いても悔いきれない罪を背負った人間であると自分を責め続けたかもしれない。
彼が懺悔をしたいのなら、懺悔をさせるべきだった。そして、山下虎雄氏と腹を割って話し合い、二度と軍国主義や戦争のやってこない国にするのをお互いに誓うべきであった。
もし、彼が悔いていなければ唾を吐けばいい。
憎むべきは軍国主義であり戦争だ。人間ではない。66年を経ても直接手を下した人間を恨むのは間違っている。これでは軍国主義の本質を理解することができない。戦争の本質を理解することができない。
「罪を憎んで人を憎まず」という諺は竹富町にはないのか。
引用終了 ☆
何時もながらの優れた論評で、付け加えると蛇足にしかからないが、敢て蛇足を加えると、「戦争マラリア」という言葉そのものを詳しく知っている人は,
他県人は言うに及ばず、沖縄県民でさえ非常に少ないという事実である。
かく言う筆者も若いころ初めてこの言葉に接したとき、「残虐非道の日本軍」は沖縄人虐殺のため「死亡率の高い特殊なマラリア」を研究し、多くの八重山住民がその犠牲になったことを指す、と真剣に考えていた。
さて、シリーズの第6回だが、先ず目に付くのは記事の冒頭から相変わらずのデタラメを撒き散らしていることである。
>戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。
で「戦争マラリア」とは沖縄戦の問題であり記述するとしたら歴史教科書が適当であるが、八重山地区協議会は戦争マラリアの記述のある帝国書院版歴史教科書を選定しており、これには慶田盛竹富町教育長も、当然事ながら、何の反対も示していない。
「戦争マラリアに関する記述がない出版社の公民教科書は拒否する」とは、これこそヤクザの言いがかりではないのか。
では、そもそも戦争マラリアとは一体何なのか。
沖縄タイムス上記シリーズの悪意に満ちた「解説記事」によるとこうなっている。
▼[ことば]
戦争マラリア
太平洋戦争末期、八重山の住民が旧日本軍の命令でマラリアの有病地帯の西表島屋石垣島の山岳部などに強制疎開させられ、多くの人々が亡くなった。 八重山平和祈念館によると、犠牲者は3647人。 波照間島では、スパイ養成機関の陸軍仲の学校を卒業した人物が偽名で島に忍び込み、全党住民1600人を日本刀で脅し、マラリア汚染地域に疎開させた。 島民のほとんどが感染、477人が犠牲になった。
☆
事実誤認と「残虐非道な日本軍」の印象操作に必死の悪意に満ち溢れて「解説記事」だが、ここで明らかのなのは戦争マラリアと言っても、日本軍が特殊なマラリア菌を培養したわけではなく、戦前は八重山地区のみならず沖縄県全域、いや、日本全国で見られた一般的マラリアのことである。
八重山地区の離島の山岳地帯には特にマラリアを媒介する蚊の群生が見られ、戦時中米軍の攻撃から避難するため離島の山岳地帯への疎開を誘導した日本軍への恨みつらみを込めて「戦争マラリア」と特別に呼称している。
これを「軍の強制」と性格付けすることにより「集団自決」と同じように「援護法」の対象にしようというのが「ゆすりたかり」を生業(なりわい)とする極悪複合体の主張なのである。
従って、喧伝されるされるように、日本軍が八重山住民を「マラリア非発生地域」から「マラリア発生地域」に強制連行したわけではない。
それは波照間島出身の慶田盛氏が疎開地の由布島では罹患せずに、故郷の波照間島に帰郷してからマラリアに罹患した事実を見ても明らかである。
筆者の小学校時代は、夏の蚊のシーズンになると「蚊に刺されるとマラリアになる」とはごく普通の会話で語られていた。
戦前からマラリアに悩まされていた沖縄がマラリアに決別を告げるのは、結局は沖縄を占領した米軍の殺虫剤の大量散布などのマラリア撲滅活動の賜物である。
八重山のマラリア撲滅運動は大正時代から始まるが成功せず、戦後、米軍の圧倒的なマラリア撲滅活動により、最後の患者が出たのは1963年であるとのこと。
ドキュメンタリー作家上原正稔さんが検証した米軍側の資料によると、マラリアの罹患者は八重山地区より沖縄本島の方が多く、沖縄全体がマラリア撲滅に成功するのは祖国復帰後、沖縄県公衆衛生大会において沖縄から風土病としてのマラリアがなくなったことが宣言される1978年のことである。
さらに疎開という言葉さえ死語になりつつある現在「日本刀を突きつけてマラリア汚染地域に強制疎開させた」という「解説」は、まるで空気の清浄な地域の住民を放射能汚染地域に強制移住させた」といった極めて悪質な印象操作を感じる。
「集団自決」論争でよく喧伝される「軍官民の共生共死」という造語で、軍の自決命令の根拠にする人がいるが、第32軍は1944年夏の沖縄配備以前から一貫して県民の県外疎開を指導してきた。
だが何事にも行動の遅い県民気質も有って疎開は軍の思惑通りは実行されず、結局1944年の10・10空襲以来、那覇港には県外疎開を希望する県民が殺到し、船舶不足もあいまって子どもたちだけでもと、九州各地に疎開させている。 そして疎開に成功したした子どもたちはほとんどが無事で戦後帰郷を果たしている。
1945年4月の米軍上陸後も早い時期に軍の指導で北部に疎開した住民は比較的戦争被害は少なかったが、最期まで軍を追って南部に逃げた住民が最も戦争の被害が多かったことは周知のことである。
死語になりつつある疎開について過去エントリー
沖縄の県外疎開の実体
ででこう書いている。
■沖縄ではあまり知られていない「県外疎開」の実体■
第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった県民の県外疎開を閣議決定させるという素早い動きをしていた。
緊急閣議決定で法的根拠は得たが、県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。今の時代で安易に想像するように、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であり、当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
当時の沖縄の状況は新聞の扇動報道に乗せられた各民間団体の宣撫活動で巷は沸き立っていた。県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
民間人への命令権限の無い第32軍は、県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力が適任と考え担当部署を警察部と定めた。
平和な時代の後知恵で、軍の命令は絶対且つ不可避であった、と主張する勢力があるが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全確保のための県外疎開にしても、県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。
■県外疎開が進まなかった理由■
県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍の思うようにうまくは実施できなかった。
その第一は、沖縄の地理的要因であった。 当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは重大事件で、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていたため、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がましだという風潮も阻害要因であった。東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が九州各県に海路で疎開することは一大決心を要した。
次に疎開実施を阻害したのは泉県知事が軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示したことである。「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無いといった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
疎開は不要という空気は、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にもその風潮はあった。軍の指令がうまく行きわたらない地方の部隊では、軍が沖縄でがんばっているのにわざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言をするものもいた。
遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。 何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。
サイパンでは米軍の投降勧告で集められた日本人の老人や子供にガソリンがまかれ火を点けられたり、呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性が裸にされ、トラックで運び去られたという証言が記録されている。
当時の沖縄には南方帰りの県人が多く、大本営がサイパン陥落の直前に県外疎開を準備し始めた状況から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は想像できる。
沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の3分の1にあたる10万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州4県と台湾に決まった。
■沖縄戦の本質■
沖縄戦記には軍の側から見た戦略的な「戦史もの」、そして住民の側から見た「証言もの」と、多数の出版物があるが、軍と住民の間に立って「軍への協力と住民の安全確保」という二律背反の命題に挑んだ地方行政側の「戦記」は極めて少ない。
次の引用は本土復帰当時の公使・日本政府沖縄事務所長・岸昌氏が荒井紀雄著『戦さ世の県庁』の序文で沖縄戦の本質を語った文の抜粋である。
<戦争を遂行するために、「戦争」から国民ー非戦闘員を護るために、どのように準備をなし、どのような行動をとるべきか。 平時を前提として制定されている地方制度に何らかの特例を設けるべきか、非常の措置を行うためにどのような組織・権限ーそして特別規定が必要であるか。 すべてこのような問題に直面し、実際に回答を出さざるを得ないもの、それが沖縄県であり、沖縄県で遂行された「戦争」であった。>
沖縄戦当時、島田叡県知事と共に、県民の安全確保に努力した荒井退造警察部長(現在の県警本部長)の長男の紀雄氏が、父退造氏が軍と住民の間に立つ文官として沖縄戦を戦った様子を、多くの資料・証言を基に記録したのが『戦さ世の県庁』である。 戦火により多くの県政関係の資料が消失・散逸した中で同書は現在望みうる最高の記録と思われる。
■軍司令官vs県知事■
泉守紀氏が第22代官選沖縄県知事の辞令を受けたのは、昭和18年7月1日のことである。 丁度同じ日付で荒井退造氏も沖縄県警察部長の辞令を受けている。
まだ戦火を受けていない昭和18年の沖縄の夏は、のどかな町の風景とは裏腹に、県庁幹部が一新され、来るべき沖縄戦を予知してか県庁内外に何時にない緊張が走っていた。そんな空気の中、泉新知事は、沖縄防衛の第32軍が翌年3月に沖縄に着任すると、軍との対立を深め、修復不可能なものとなっていく。(野里洋著「汚名」)
そして政府は昭和19年7月7日の閣議決定で「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄県の県外疎開を沖縄県に通達したが、泉知事は公然とこれに反対したと言われている。
当時の沖縄県の状況を称して、戒厳令に近い「合囲地境」の状態であったので軍の命令は不可避であり、県や市町村の命令も軍の命令であるという意見は、泉知事の第32軍への反抗で、軍が県民疎開の実施に苦慮している状況をみれば、それが机上の空論であることが明らかである。
県民の疎開については、第32軍は法的には直接住民に命令を出せないので県の協力が必須であったが、泉県知事のかたくなな反抗に困り果てた結果、昭和19年1月31日に軍司令官統裁の参謀会議で「沖縄県に戒厳令を布告、行政権を軍司令官が掌握し、知事を指揮下に入れる」と検討したが、実行に移されることはなかった。
■県外疎開に水をかける「街の情報屋」■
その頃の沖縄県民の県外疎開に対する無関心振りを、当時の那覇警察署僚警部で戦後琉球政府立法院議長を務めた山川泰邦氏は自著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)で次のように述べている。
<だが県民は、襲いかかってくる戦波をひしひしと感じながらも、誰も必勝を疑わず、その上無責任な街の情報屋は、「まさか、沖縄に上陸するようなことはあるまい」と勝手な気炎を吐いたため、これが疎開の実施に水をぶっかけるような結果になった。それに、当時海上は潜水艦が出没して、既に2回にわたり集団疎開船が撃沈され、多数の犠牲者を出したために、「どうせ死ぬなら、海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」と疎開の声に耳をかたむけようとしないばかりか、はては疎開を命令で強制された場合のことを心配する始末だった。>
勇ましい情報を垂れ流し、県民疎開の実施に水をかけていた「街の情報屋」が誰であったかを山川氏は特定していないが、当時の新聞報道やその他の史料から推測すると、県民疎開を発案した軍や協力依頼されていた行政側ではないことは間違いない。 そして決起大会の壇上で抜刀して檄を飛ばしていた「軍人より軍人らしい民間人」と「街の情報屋」の姿がここで重なってくる。 戦後、琉球政府時代になって活躍した著名人の中にも、当時は民間団体の責任者として県民を扇動していた人物が多くいたという。そのような雰囲気では県外疎開などは県外逃亡と見なされ軍の思惑とは裏腹に県外疎開に水をかけていたのだろう。
■軍は住民を守ろうとした■
島田知事は泉知事とは対照的に軍と緊密に協力し県外や県内北部への疎開など県民の安全確保に全力をそそいだ。 後の沖縄県の調べでは県外疎開は昭和19年7月から翌年3月まで延べ187隻の疎開船が学童5,586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする資料もある)を疎開させ、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。
翌年3月の米軍上陸前という重要な時期に県内外の疎開が円滑に行かなかったのが、後の沖縄戦での「軍民混在」という住民巻き添えの悲劇に至った伏線になっている。
軍を悪と見なす現代の感覚で、軍と県の対立といえば聞こえはよいが、泉知事は、軍の方針の県民疎開に反対し、住民もその風潮に煽られて疎開に必要を感じていなかった。 現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定されたことと、それが軍の発議で行われたことは確認できる。(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)
「軍は住民を守らなかった」という左翼勢力のスローガンからは想像も出来ないが、昭和19年の夏に沖縄に着任した第32軍の司令官と参謀長は、沖縄が戦地になることを予見し、且つ「県外疎開」の法律の不備を危惧して、大本営の発議により着任前に「閣議決定」に持ち込むという早業を行った上で、後顧の憂いを極力小さくして沖縄に着任していたのである。
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死語になりつつあるが、疎開という言葉には、
住民を当面の危機から避難させたいという善意が含まれている。
極悪複合体は、八重山教科書問題で完敗し、
その一方では2007年の「11万人集会」で文科省に要請した「高校歴史教科書検定意見の撤回」も不首尾のまま、
今度は「八重山マラリア」という「ゆすりたかり」の材料を表舞台に引っ張り出して、
これを「軍の命令によるもの」と教科書に記述する運動を展開する魂胆である。
米軍の攻撃を避けるため軍が指導した疎開を、
「強制疎開」などと人の善意を踏みにじる文言で、
「ゆすりたかり」をしる反日左翼複合体を、許せないと思う方、
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上原正稔を支援する三善会にご協力をお願いします。
今日もすばらしいエントリーをありがとうございます。
沖縄県民でも「戦争マラリア」という言葉の意味を誤解しているひとがほとんどでしょう。「戦争マラリア」とは「従軍慰安婦」「強制連行」と同系列の「造語」であって「誤解を生じやすい造語」本来なら解説無しには使ってはいけない言葉なのではないかと思います。
マラリアは戦時中に八重山地方でしか流行らなかった病気と理解している方がほとんどではないかと思います。
慶田盛氏がマラリアに罹ったことは気の毒ではありますが、その事を「日本軍のせい」にするのであればやはり「沖縄のマラリア撲滅に尽力した(ヒトもカネも大量につぎ込んだ)アメリカにたいして多大な恩義を感じるのが当時を知る者としての定めではないかと思います。
昨日のFM21「わんぬうむい」よかったですね。
沖縄県民にとって狼魔人日記とわんぬうむいは大切な情報源だと思います。
ボギーさん、ありがとうございました。
昭和23年の患者数は873人です。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/kaichuu-1.htm
このように本州でさえ、当たり前のようにマラリア患者が発生していた昭和初期には、
沖縄一帯ではもっと流行していた、と考えるのが普通でしょう。
反日左翼(韓国人も)は、現代の基準で過去を叫ぶことが得意です。
もう議論することさえバカらしいぐらいです。
まるで、最近こちらで見かけない「愚かな父」の、アメション臭い娘が書いた八重山毎日への幼稚な言葉遊びの投稿の題名みたいですね。
ちなみに補足すると、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」は間違いなくありますね。
その伝説、「野底マーペー」については、下のブログ記事にゆずりましょう。
どうやら、「愚かな父」が『Dr.コトー診療所』の主役を気取る、人口よりも牛の頭数の多い島・黒島に伝わる伝説みたいです。
たるーの島唄まじめな研究 つんだら節
http://taru.ti-da.net/e1387126.html
ケダモノ・ヒトラー教育長、マラリアにかかったのを日本軍のせいにするのは勝手ですが、自分の地元・八重山の伝説も忘れてしまうとは、その恨みつらみの深さたるや、ダンテの『神曲』の地獄ごときですね。
よく、テレビなどで保険金詐欺師などが、わざわざ記者会見などを開いては、その言動の矛盾点を付かれ、結局最終的には逮捕されます。
沖縄の左翼団体も、国も大目に見て援護法を適用しているのだから、わざわざ墓穴を掘ることしないほうがいいと思うのです。
旧日本軍を非難しているつもりが、いつの間にか不都合の真実が暴かれる。
ある意味、沖縄の左翼団体も自虐的ですね。
それとも焦り、もがき苦しんでいるのでしょうか。
なるほど、その記事を読むと戦後の大量の戦地からの帰還兵が持っていた様々な寄生虫や病原菌をどうするのかというのが深刻な問題になっていたと読めますね、マラリアだけに限らず。
DDTを頭から降りかけられて真っ白になった子供とかの映像を見たことは誰にでもあると思いますが、確か私が小学生の頃の教科書にはDDTとかBHCは悪魔の農薬(例えですwそんなふうにしか思えないような説明を教師から受けた記憶がありますね、農薬は怖いなと思わされたものです、まぁ実際怖いのは事実ですが)みたいな説明しか受けたことがなく、光の部分(殺虫作用とか衛生強化とか)の説明を受けていない教育というのは私が子供の頃からされていたんですね。
マラリア感染が戦後日本の普遍的な問題だとすると(もちろん亜熱帯と温帯の違いはありますが、ツツガムシ病など寒い地域でも風土病と言われるものは昔からあったわけですし、エキノコックスは未だ北海道のキタキツネは持ってますよね)あとは軍の強制があったかなかったか(またどっかで聞いた話ですねw)ですが、狼魔人様のこのエントリーではまたもや調子に乗った民間人の仕業だったり、爆撃で今すぐ死ぬのとマラリアにかかるリスクとどちらが良かったのかという話ですよね。
私なら言うまでもなく後者を取りますし、残念ながらお亡くなりになられた方々も同様の判断をしたというだけでしょう。
だけと切り捨てるのは平和で衛生的な時代に生きる私達の傲慢なのかもしれませんが、だからと言って私怨や私欲で歴史を歪曲するのはおかしいと思います。
いろいろな意見はあるものです、がしかし法治国家ですのでルールに従い活動しましょう!
あっ恣意的ではなく、一般的な法の運用でお願いします。
それではブログ主様、これからも頑張って下さい。
小樽市 どさんこより。
「残虐非道の日本軍」には
1、同じ集落内で生きる人たちの贖罪意識。
2、援護法と言うお金。
が常に付いて廻ります。
中国の学生が、留学などで海外に出て初めて自国の歴史観が誤りだったと気づきショックを受けると言います。
それでも覚醒する人は未だしも、日本人に憎悪むき出しで犯罪を重ねる人たちもいます。
一生涯を沖縄で生きるのならそれでも良いと思いま
すが、就職、結婚などで沖縄から出るかもしれません。子供たちにとって何が大事なのでしょうか。沖縄の子供たちの職場定着率の悪さの一因もその辺にあるように思います。