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8月11日から始まった沖縄タイムスの連載特集「沖縄メディアの役割り」が14日で終わった。(四回シリーズ)
第一回は新崎盛暉沖縄大学名誉教授が登場して、「沖縄紙の報道はまだ偏向が足りない」と逆に叱られた。
沖縄の「識者」だけかと思ったら、ヤマトの「識者」も登場。
二回目は、西谷修東京外国語大学教授で、
「沖縄メディアが偏向報道するのは当然である。 理由は沖縄は日本で唯一、本土と違う歴史があるから」と、偏向報道は認めながらも、それは当然であると援護射撃。
三回目は、再び沖縄の「識者」の波平恒男琉球大学教授。
小林よしのりの『誇りある日本へ』を批判してお茶を濁しているが、最後は
「重要なのは民主主的な自己決定や人権といった理念であり、重層的で柔軟な共感と連帯の意識が育つことである」
と大上段に構えたご高説の次に、
「沖縄の新聞にはローカリズムに寄り添いつつ、グローバルな視野からそうした理念や課題の実現へ寄与することを期待したい」
と、結論付けているが、当たり前すぎてよくわから.ない。
「識者」の顔ぶれから見てはじめに結論ありきだと思い、斜め読みでスルーしようかと思ったのだが。
最終回14日の、「識者」は沖縄にはゆかりのある筑紫哲也氏が登場とあってはスルーは失礼というもの。
詳しくはタイムス記事を読んでいただくとして、さわりだけでもお付き合いしたい。
沖縄は、筑紫氏のジャーナリストとしての起点であり、それは抽象論ではなく米軍占領下の昭和43年から昭和45年の二年間、朝日新聞沖縄特派員として、沖縄タイムス、特に創業者の豊平良顕氏の薫陶を受けたという。
豊平氏といえば『鉄の暴風』の執筆者であり、監修者でもあるので、若き日の筑紫氏が新聞記者として、その薫陶を受けていたとなると、朝日の筑紫記者が沖縄タイムスに影響を与えたというより、その逆であったといえる。
筑紫氏によると沖縄紙の「偏向報道」米軍占領当時からあったという。
沖縄駐在当時、豊平氏に沖縄紙は「復帰運動の機関紙ではないか」という問いをぶっつけて見たという。
「一方には政治、経済、軍事に及ぶ全権力を手中にした異民族の統治者がいる。 その一方には民主制の下なら誰もが保障されるはずの基本的権利一切を奪われている被統治者がいる。この両極端な不均衡のなかで、両者の言い分を平等に取り上げることが果たして客観的、中立、公平を「いえるのか」という意味の答えを得たという。
なるほど、当時の沖縄でなら理解できなくもない意見だが、筑紫氏は豊平氏の言葉を借りて現在の沖縄紙の「偏向報道」を正当化しようとしているが、現在の沖縄はチベット自治区でもなければ、コソボ自治州でもなく、まぎれもなく日本国憲法の下の日本の一県であることを忘れている。
それどころか沖縄紙の偏向報道は日本復帰してからその度合いを激しくしており、今では偏向報道というより反日報道といった方がふさわしい。
沖縄紙が偏向しているかどうかの結論は、掲載紙と論者のリストを見れば、いちいち取り上げて論評するのも野暮というもので、勿論筑紫氏も例にたがわない。
仮に沖縄の置かれた特殊性から、沖縄紙の「偏向報道」を容認したとしても、これらの「識者」たちの論には次の視点が欠落している。
「沖縄県民は地元二紙以外に、新聞購読の選択の自由がない」ということである。
ほぼ独占状態の沖縄二紙の「偏向報道」が、どれだけ県民の判断力に悪影響を与えているかに、彼ら「識者」はあえて目をつぶっている。
自分たちと違う意見は、「知らしむべからず」、
沖縄県民なんて、
沖縄二紙のみに「由らしむべし」
という傲慢不遜な態度には、
孔子さまもビックリのことだろう。
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こんにちは。盆も終わり、そして全国戦没者追悼式典も終わりました。毎年この式典での総理大臣を始めとする各氏の追悼の辞には、怒りしか湧きませんが、今年はまた酷かったですね。
凡そ追悼の辞とは思えない説教調の愚辞を何故垂れるのかと理解に苦しみますが、その中にあって唯一、慰められるのが両陛下の姿ですね。
あのような心打たれるお辞儀をなされる人は、世界広し、といえども両陛下しかいないのではないかと思います。
その事に思いを致せば、今日本を亡国からかろうじて救っているのが両陛下であるということが一点の疑念の余地もなく言えるのではないでしょうか。
記事とは関係のない話となりましたが、年ごとに心配が募ってゆく全国戦没者追悼式典ゆえ、一言、言いたくありました。
狼魔人さま
また失礼します。沖縄タイムス・琉球新報が偏向していると言っても、あまりに当たり前過ぎて怒るのも疲れてしまい、反論する気にもならなくなってしまいます。が、それは非常に危険なことですね。
沖縄タイムス・筑紫哲也・琉球新報には何を言っても蛙の面にションベンですから無理もなからぬことですが、例えごまめの歯ぎしり、メダカの歯ぎしりでも言い続けたいとムチ打っています。
彼らの煽動の仕方は山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」にあるアントニーの詐術にそっくりですね。それは(1) 編集の詐術、(2) 問いかけの詐術、(3) 一体感の詐術の3つからなります。
たとえば編集の詐術については一人の人間を「事実」だけで構成して、神様にもできれば悪魔にもできるということです。それゆえに編集という仕事をしている人間にとって、常に直面しなければならないのが、「事実に基づくトリック」をどうやって克服するかという問題のはずだと述べているのですね。
私なりの解釈をすれば人間には長所もあれば短所もある。短所だけの事実をもってその人を評価すると短所だらけの人間になってしまうということですね。「人は相反する二つの事実でもって評価しなければならない」と極当たり前に考えるわけです。
タイムスや新報の報道の仕方というのはまさしく一方的な事実しか示していないということです。その事実さえも事実かどうか怪しい。ある目的のための誘導・煽動の意図が見えます。
煽動はまず集団にヒステリーを起こさせることが必要でその方法論がアントニーの詐術であると私は解釈していますが氏は煽動の原則について次のように述べています。
「まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人々を盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーがある対象に向かうように誘導するのである。これがいわば基本的な原則である」と。
去年の教科書検定における県民決議大会はまさにそれでしたね。県知事までが乗せられヒステリーを起こしたのではどうしようもない。私達は巨大権力の暴走を監視しなければなりませんね。
それではまた。長居にて失礼しました。
琉球新報では社説で靖国に参拝することを「戦争を美化する」と非難し、夕刊の人工衛星では参拝した閣僚を内向きでKYな人たちと書いていました…。人それぞれの考えがあって参拝しているのに、それを無視して非難するとは。