狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【みんな勘違い】平和の反対は戦争ではなく〇〇

2024-04-06 04:34:17 | 政治

 

 

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【みんな勘違い】平和の反対は戦争ではなく〇〇

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メディアの事を、第四の権力というが、秦の始皇帝、ヒトラーのように絶対権力を有する者がメディアを制すると独裁者になる。

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❼マッカーサーの置土産、「アヘン戦争」「名宰相」吉田茂

2024-04-06 04:30:10 | 政治

 

 

 

 

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沖縄タイムス出生の秘密!「新聞が嘘つくはずないさ~」はキケンです。【2】

 

【随想】

【※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。偶々登場人物や出来事が類似していてもそれは偶然に過ぎない】

 

■事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。~ニチェ
 

■ジェームス・マセソン - 創業者


ジャーディン・マセソン・ホールディングスは、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社のこと。

米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社のランキング「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。

周恩来首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れる。

香港が中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。

■幕末・明治期の日本における歴史

かねてより沖縄や台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は、江戸幕府が1853年の日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結し、長崎港と函館港を開港すると、1859年(安政6年)に、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。

ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を抱き、1860年初頭に、横浜居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した

長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。

に吉田茂の養父・吉田健三が、同社横浜支店長を務めていた。

鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。

長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバー商会は、江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入をめぐる取引に主要な地位を占めた。また薩摩藩の貿易計画や同藩士のイギリス留学の資金調達に重要な役割を果たした。

■グラバー邸との関係

長崎でhahanekono、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。

グラバー商会は、江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入をめぐる取引に主要な地位を占めた[2]。また薩摩藩の貿易計画や同藩士のイギリス留学の資金調達に重要な役割を果たした。

日本の教科書で幕末明治期にに登場するグラバー邸と沖縄の関係を述べておこう。

                     ★

 

私は現在「世界一危険な米軍基地」と言われる普天間飛行場の近くに住んでいるが、その前は浦添市の学園通り界隈に住んでいた。ちなみに5人の子供は、いずれも浦添市立小学校、浦添市立中学校のお世話になった。

思い出すのは長女(現在約40歳)の同期生で嘉陽(仮名)という双子の姉弟のことである。二卵性双生児なのかこの姉弟は、顔が似ているだけでなく学業も優秀で躾も、良く行き届いた言わば模範生であった。

ところが好事魔多しという。

事件は、中学生の修学旅行の時起きた。

いくら躾が良い模範生でも、教科書に出てくるグラバー邸を見学した時、双子の男の子が旅行の気軽さつい羽目を外し、グラバー邸内に展示してあったガラス製品を誤って割ってしまった。さあ、それから後が、双子の弟嘉陽の転落の始まりである。

弟嘉陽は、勿論担任の先生と同伴でグラバー邸の用務員に謝罪した。その時は「以後注意するように」というお小言だけで一件落着のはずだった。

ところがこれを嗅ぎつけた沖縄メディアが非難囂々たる記事で、嘉陽弟を叩きまくった。

曰く「だから沖縄人はダメだ」「沖縄人の恥だ」・・・嘘か誠か「沖縄の修学旅行生は二度と受け付けない」という噂も飛び出した。

結局模範生の双子を抱えた嘉陽家は、浦添市の学園通りには住み辛くなり、夜逃げするように何処へともなく引っ越した。

仲の良かった筆者の長女に訊いても転居先は杳として不明であった。

約30数年前のほろ苦い思い出である。

 

昭和20年8月。マッカーサー元帥は、コーンパイプの魔の煙をまき散らしながら厚木飛行場に降り立った。沖縄の中学生は、Ⅿ元帥の巻き散らすコーンパイプの魔の煙に酔い痴れて敵の総大将を「英雄」と仰ぎ見る。

ところがⅯ元帥の操り人形として、国民を騙す千両役者が不可欠となる。

そこで戦後日本の「英雄」として登場するのが「大宰相」吉田茂である。

吉田はこう言い残している。

「戦争に負けて、外交で勝った歴史がある」。

外交官出身でGHQと英語で意思の疎通ができるという触れ込みでマッカーサーに接近し、外相に就任したのは吉田茂であった。 𠮷田を見たマッカーサーは「これは使える」と考えた。

■「GHQと対等に渡り合った男」

さて、沖縄の中学生たちが、マッカーサー元帥のコーンパイプの魔の煙に酔いしれて、敵の大将マッカーサーを尊敬の眼差しで仰ぎ見ていたころ、新たな日本の英雄がマスコミを賑わすようになった。

親英米主義者でイギリス大使を務めた𠮷田は戦時中、反戦主義者として投獄された。 ところがこの経歴がプラスに作用した。吉田はプライドだけを武器に、誰もが恐れた最高実力者マッカーサーと対等に渡り合う。少なくとも次のように報じられた。

《吉田茂の功績、これを端的に表現するならば、やはりGHQによる占領時代をたくみな戦略で乗り切り、戦後日本の復興に大きく貢献した。》

■吉田茂の正体

吉田茂のことを米国追随の売国奴と罵倒する者がいるが、概ね「名宰相」と褒め称える者が多数派だ。

マッカーサー代わり、マスコミに登場した「名宰相」吉田茂の実像はどうだったか。

「GHQと対等に渡り合った男」と言われた吉田だが、本当の姿は逆であった。

外務大臣時代には内閣の人選について、いちいちマッカーサーGHQ最高司令官の意向を確かめていたことが分かっている。

そのおもねりぶりは首相に成ってからも変わらない。

もっとも吉田茂の英語はマッカーサーには通用せず、英国大使時代に知り合った遊学生白洲次郎を側近にしたのは通訳代わりにしたからだ。(ロンドンでは乞食でもキングスイングリッシュを使う)

𠮷田はマッカーサーの失脚後も、GHQ幹部へのおもねりは変わっていない。

マッカーサーの帰任後、実質№1の実力者となったGHQのG2部長(諜報部長)のウイロビーの元に足繁く通っていた。

但し、本人もそれが後ろ暗く思い、他の日本人には見せられない行動と十分に分かっていたようで、ウイロビーが暮らす帝国ホテル部屋を訪ねるときはホテルのエレベーターを使わず、非常階段を人知れず上がってウイロビーにお伺いを立ててていた。「名宰相」が、聞いてあきれる情けない話である。

さて、マッカーサーの帰任後、「マッカーサーの置土産」を受け継いだのは一体誰だったのか。

■吉田学校ー官僚派閥

マッカーサーの虎の威を借りて、官僚政治の派閥造りを目論んでいた人物こそが吉田茂である。その後池田勇人、佐藤栄作、福田武夫、宮澤喜一など、官僚出身の派閥を作り、世に「吉田学校」と呼ばれていた。

その前に、先ず戦後日本の政党の歴史を洗ってみよう。

日本の戦後保守政党は、官僚の吉田茂率いる日本自由党、と戦前からの党人派政治家鳩山一郎(宇宙人由紀夫元首相の祖父)率いる民主党が対立していた。

この2大保守党に加えて、マッカーサーの「公職追放」の「言論の自由」の波に便乗して国民の人気を得たのが日本社会党である。

日本社会党とは労働組合と共産党が合体した革命党であり、日本をソ連のような革命による共産化を目論んでいた。

そして1955年、これまで水と油のように対立していた吉田の自由党と鳩山の民主党が共闘を開始する。

■保守合同、55年体制

つまり共産主義の日本社会党に日本革命を許すくらいなら、保守合同がまだ益しと考えた。

さて、ここで吉田茂について驚天動地の物語を披露せねばならない。

 

               ★

東京で商社勤務の経験のある者なら、新入社員の社員教育の一環として、横浜にある英一番館というレンガ造りの古風な建物を見学に行った経験があるだろう。

この英一番館こそ、「大宰相吉田茂」の義父吉田健三が支店長をしていたジャーデンマテソン横浜支店である。

ジャーデンマテソンは中国(清朝)にアヘン戦争を仕掛け、清が反抗す強力な武力で、鎮圧し香港上海を自国の植民地に組み込んだ悪徳商社である。

 

1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。

 イギリスの手によって密輸入されるアヘン(阿片)の害が広がり、銀の流出も増大しているところから、1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命してとして広東に派遣した。赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び強硬手段に出た。
イギリス議会における戦争反対論

 19世紀、ウィーン体制下のイギリスでは、産業資本家の台頭によって自由貿易主義の時代に入っており、中国という巨大な市場を獲得し、あわせてイギリスのインド植民地支配を安定させたいという国家欲求があった。1837年に始まったヴィクトリア朝のもと、ホィッグ党メルバーン内閣のパーマーストン外相によって、自由貿易主義の拡大を目指す外交政策が推進された。その中で問題となってきたのが、中国とのアヘン貿易であった。
 アヘンはイギリス国内でも麻酔薬として利用されていたが、同時に中毒性のある有害なものであるという認識もあった。しかし、イギリス政府と東インド会社がインドのベンガル地方で大々的にアヘンを栽培し、それをを中国に輸出していることは公にされていなかったので、議員や市民はその実態を知らなかった。清朝がアヘンを没収して焼却したことに対し、それは非人道的な密輸品であったにもかかわらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害であるから、正当に賠償を請求することが出来ると主張した。
9票差で可決 しかし、政府が開戦に踏み切り海軍を派遣する段になって、軍隊派遣は議会の承認を必要とするので、初めて問題が表面化した。議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。ホィッグ党メルバーン政権のパーマーストン外相の開戦案に対して、議会ではグラッドストンなどの反対論も活発であったので紛糾したが、採決の結果、賛成271、反対262のわずか9票差で、軍隊派遣が可決されたのだった。

※2020年、香港の民主化運動が高揚したことに対して、中国習近平政権は香港国家安全維持法を制定、弾圧を強めていることが世界、日本でも関心を呼んでいる。忘れてはいけないのは、香港問題の出発点が、そのイギリス植民地化の契機となったアヘン戦争であることだ。<2020/7/31記>

 

歴代総理の胆力「吉田茂」(2)長寿の秘訣は「人を食っている」

 政界を引退した吉田は、かつての「ワンマン宰相」を引きずるように、生臭さは健在であった。

 敷地1万1千坪。その名も自ら“命名”した「海千山千楼」の神奈川県大磯の邸宅に昭和16年に雪子夫人を亡くして以来、吉田の身の回りの世話をし続けてきた東京の花柳界・新橋の元芸妓「小りん」と、改めて生活を共にした。吉田は子供の頃、いまの計算で30億円ほどの養父の遺産を受け継ぎ、そのほとんどを花柳界で使い切ってしまったというエピソードを残している。人に頼らず自分のカネで遊ぶ吉田はモテモテだったそうで、「小りん」とは、そうした中での仲だったのである。

 一方で、政界への影響力も保持、政変のたびに自民党の有力者が、陰に陽に次々と足を運んだものであった。これは「大磯詣で」と言われ、「吉田の政界リモート・コントロール」との声もあった。また、時の政権の要請があれば、欧米、東南アジアなどに「政府特使」として精力的に歴訪もした。時には「日台関係」改善のため個人の資格で訪台、蒋介石と会談しては、中国から批判の声が出たものの、ケロリだったのである。

 ちなみに、吉田は部下の中からその後の「保守本流」の人材を輩出させた。のちに総理の座に就くことになる池田勇人、佐藤栄作、田中角栄らは、吉田の敷いた戦後再建へのレールを走り、国づくりの中核的存在になったのは知られているところである。

 そうした一方で、私邸での吉田の日常は孤高にして貴族趣味の、悠々自適のそれであった。

「日本の新聞はウソを書く」とハナからバカにして読まず、定期購読として取り寄せていた英紙「ロンドン・タイムズ」を愛読、小説も英国のユーモア小説を原書で読んでいた。好物の葉巻は1日7、8本を欠かさず、食事も晩年まで1日1回のビーフ・ステーキとともに、ウイスキーをたのしんだのだった。

 政権を降りて13年目の昭和42(1967)年10月20日、心筋梗塞のため89歳で死去。死の直前、洗礼を受け、「ヨゼフ・トマス・モア・ヨシダシゲル」となった。10月31日の日本武道館における戦後初の国葬には、多くの一般国民を含めて3500人が献花をしたものだった。国民の人気の高さが知れた。亡くなる数年前、長寿の秘訣を聞かれた吉田いわく、「まぁ、人を食っているから」ということであった。

 これは、人の好き嫌い激しく、独断専行、頑固、時に傲岸不遜への批判は付いて回ったが、一方で陽気、稚気たっぷり、“ユーモリスト吉田”の面目躍如の言葉でもあった。陰気なリーダーに、人気が沸騰した試しがない。性格の明るさ、稚気、ユーモアは、しばしばリーダーの欠点を補う「3要因」となることを吉田は示している。

■吉田茂の略歴

明治11(1878)年9月22日、東京生まれ。貿易商・吉田健三の養子となる。外相を歴任後、昭和21(1946)年5月内閣組織、総理就任時67歳。対日講和条約調印をはさんで、第5次内閣まで。昭和42(1967)年10月20日、心筋梗塞のため死去。享年89。

総理大臣歴:第45代1946年5月22日~1947年5月24日、第48~51代1948年10月15日~1954年12月10日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

 

 

■東京で商社勤務を経験した者は、新入社員の社員教育の一環として、当時横浜に在った

一番館(えいいちばんかん)は、江戸時代後期に横浜に作られた商館であり、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)が初めて日本に開設した支社である。現在の神奈川県横浜市中区山下町1(旧山下町居留地1番館)に建てられていた。

沿革
1858年(安政5年)、日米修好通商条約締結後、開港を迫られた江戸幕府はそれまで小さな漁村だった横浜に貿易港をつくることになった。その後横浜は領事館や商館、洋館、住宅などが建ち並ぶ港町に成長していった。

1859年(安政6年)、ジャーディン・マセソン商会上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)は、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」を設立。これが日本に進出した外資系企業の第一号といわれている。

ジャーディン・マセソン商会は、商館の建設を鹿島建設の創業者である鹿島岩吉

1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。

 イギリスの手によって密輸入されるアヘン(阿片)の害が広がり、銀の流出も増大しているところから、1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命してとして広東に派遣した。赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び強硬手段に出た。
イギリス議会における戦争反対論

 19世紀、ウィーン体制下のイギリスでは、産業資本家の台頭によって自由貿易主義の時代に入っており、中国という巨大な市場を獲得し、あわせてイギリスのインド植民地支配を安定させたいという国家欲求があった。1837年に始まったヴィクトリア朝のもと、ホィッグ党メルバーン内閣のパーマーストン外相によって、自由貿易主義の拡大を目指す外交政策が推進された。その中で問題となってきたのが、中国とのアヘン貿易であった。
 アヘンはイギリス国内でも麻酔薬として利用されていたが、同時に中毒性のある有害なものであるという認識もあった。しかし、イギリス政府と東インド会社がインドのベンガル地方で大々的にアヘンを栽培し、それをを中国に輸出していることは公にされていなかったので、議員や市民はその実態を知らなかった。清朝がアヘンを没収して焼却したことに対し、それは非人道的な密輸品であったにもかかわらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害であるから、正当に賠償を請求することが出来ると主張した。
9票差で可決 しかし、政府が開戦に踏み切り海軍を派遣する段になって、軍隊派遣は議会の承認を必要とするので、初めて問題が表面化した。議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。ホィッグ党メルバーン政権のパーマーストン外相の開戦案に対して、議会ではグラッドストンなどの反対論も活発であったので紛糾したが、採決の結果、賛成271、反対262のわずか9票差で、軍隊派遣が可決されたのだった。
資料 グラッドストンの反対演説

(引用)その起源においてこれほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争をわたくしは知らないし、これまで聞いたこともないと、明言できる。反対意見の議員は、昨夜広東で栄光のうちに翻るイギリス国旗とその国旗が地球上のどこにおいても侮辱されることはないと知ることで鼓舞されるわれらが兵士たちの精神について雄弁に話された。幾多の危機的状況のなかでイギリス国旗が戦場に掲げられているときイギリス臣民の精神が鼓舞されてきたことをわれわれは誰でも知っている。だが、そもそもイギリス国旗がイギリス人の精神をいつも高めることになるのはどうしてであろうか。それはイギリス国旗が常に正義の大義、圧政への反対、国民の諸権利の尊重、名誉ある通商の事業に結びついていたからこそであった。ところがいまやその国旗は高貴な閣下の庇護の下で、悪名高い密貿易を保護するために掲げられているのである。(中略)
 …………わたくしは、女王陛下の政府が本動議に関して本院にこの正義に反した、邪悪な戦争を教唆するよう説得することなど決してないと確信する。わたくしはアヘン貿易をどれだけ激しく弾劾しようと何の躊躇も感じない。同様な憤激をもってアヘン戦争を弾劾するのに何の躊躇も感じることはない。<歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店 p.149>
 これは1840年4月8日、イギリス下院におけるグラッドストンの演説の一部である。グラッドストンはアヘンの密貿易を清朝に認めさせるための戦争は、イギリスが掲げてきた正義のための戦争という大義に反することだ、として反対した。
パーマーストン外相の論理 翌日外務大臣のパーマーストンは、清朝政府がアヘン密貿易を取り締まるのは国民を道徳的退化から守ろるためではなく、銀の流出を防ぎたいという利害の保護のためにすぎない、そのためにイギリスの通商業者が危機に瀕している以上、武力行使はやむを得ないと反論した。パーマーストンは演説の最後をこう結んでいる。
(引用)武力の示威が、さらなる流血を引き起こすことなしに、われわれの通商関係を再興するという願わしい結果をもたらすかもしれないと、すでに表明されている。このことにわたしも心から同意するものである。<『同上書』 p.150>
 若きグラッドストンの雄弁は正義感にあふれたものであったが、結局戦争反対の動議は9票差で否決された。パーマーストンの「武力の示威」は、心配されたように「さらなる流血」を引きおこすことになるが、此処で示された通商の利益を守る」ための武力行使という「砲艦外交」の論理は、この後の帝国主義諸国がくりかえすことになる。
アヘン戦争の意味

 イギリス(パーマーストン外相)は、焼却されたアヘンの賠償を要求、それを清朝(道光帝)が拒否すると、両者は1840年、戦争に突入した。このユーラシア大陸の西端からはずれた海上帝国イギリスと、大陸の東の広大な領土を持つ専制国家清帝国の戦いは、近代におけるヨーロッパを主導する国とアジアの大国が初めて戦火を交えた戦争であるが、アヘン問題が発端となったためアヘン戦争と言われている。なぜか英中戦争とか中英戦争とかかは言われない。というのも両国の軍事力は対等とはほど遠い格差があり、戦場は中国沿岸にかぎられ、イギリスが一方的に攻め立てることとなった、近代的な意味での戦争とは言えない出来事だった。しかし、アヘン戦争は中国近代史の不幸な出発点となったばかりでなく、ひいてはアジア全体のその後に余りにも大きな影響を与えた歴史的な転換点となる戦争、いや侵略事件ではあった。
※2020年、香港の民主化運動が高揚したことに対して、中国習近平政権は香港国家安全維持法を制定、弾圧を強めていることが世界、日本でも関心を呼んでいる。忘れてはいけないのは、香港問題の出発点が、そのイギリス植民地化の契機となったアヘン戦争であることだ。<2020/7/31記>

1866年(慶応2年)の大火(豚屋火事)で横浜居留地の4分の1が焼け、英一番館も焼け落ちた。1868年(慶応4年)5月に20m四方で1階に3室、2階に2寝室の白亜の建物を再建し、1869年(明治2年)2月に竣工した。浮世絵や写真で見る英一番館は、この二度目に建てられたもの。鹿島が建設しているかどうかは不明。

 吉田の功績を代表するものとしてのサンフランシスコ講和条約が締結されるまでには様々なドラマがあった。後に首相となる池田勇人蔵相を米国に派遣し、当時の統制的経済のベースとなっていたドッジラインの手直しを狙った。またその際に合わせて日米の講和の可能性を探らせることも行ったのである。その内容とは、日本は早期講和を希望し、また米軍駐留への対応も柔軟に考えるというものだ。

 その後、米国国務長官の外交政策顧問のジョン・フォースター・ダレスが対日講和条約問題担当として訪日し、吉田と具体的に講和への検討を始める。中でも問題となったのは再軍備の問題である。ここで吉田は真骨頂を発揮する。再軍備という言質をダレスに与えないままに自衛隊の前身となる保安隊の設置構想を掲げ、サンフランシスコ講和条約への締結へとこじつけたのであった。

 
石原慎太郎 日本よ

白洲次郎が明かした「吉田茂の最大の間違い」とは? あてがいぶちにすぎぬ憲法を考え直す季節が到来している

 
 
石原慎太郎氏
 

今ようやくその改正を問われている日本国憲法の生い立ちについて、大方の国民が忘れていると言うより迂闊に知らずにいる歴史的事実があることをこの今こそ思い起こすべきと思われる。それは共に同盟国として敗戦し連合国に降伏したドイツと日本の敗戦に際しての姿勢の決定的な違いについてだ。未曽有の新兵器原爆によって瞬時に二度も数十万の市民を殺戮されて腰を抜かした日本が無条件降伏をしたのに比べて、ドイツは降伏に際してあくまでも三つの条件をつけ、それが受け入れられぬ限り徹底して戦うと主張した。

その三つの条件とは第一に、敗戦の後の国家の基本法の憲法はあくまでドイツ人自身の手によって作る。第二は戦後の子弟の教育指針はドイツ人自身が決める。第三はたとえ数はごく少なくとも国軍は残すというものだった。

この国家民族の主体性を踏まえた主張は勝者の連合国側にも受け入れられ、ドイツは他国による完全支配を免れた。それに比べ日本は他国による奴隷的な支配の甘受を許容することになった。その国家民族の没個性的な状況を象徴するのが現憲法に他ならない。

混迷し、暗黒だった中世が終わった後の世界の歴史は白人による有色人種への一方的支配だったが、唯一の歴史的例外は日本という国家の存在だった。白人による他地域への支配を象徴する強大な帝国海軍を保有した有色人種の国家は唯一日本であり、世界一巨大で強力な戦艦『大和』や『武蔵』を保有するに至った日本は白人支配に対する歴史的『NO』を示す目障りな存在だった。アメリカによる戦後の日本支配はその復活を半永久的に封じるためのものに他ならなかった。それを象徴するものが彼等が即製し強引にあてがった現憲法に他ならない。

白洲次郎が明かした「吉田茂の最大の間違い」とは? あてがいぶちにすぎぬ憲法を考え直す季節が到来している

白洲氏「吉田茂の最大の間違い」

今は亡き江藤淳がアメリカの戦後日本における言論統制を痛烈に批判した論文『閉ざされた言語空間』にあったように日本人の正統な日本語による為政者への統制批判を封じるものの象徴的存在は、間違った日本語で綴られた前文に始まる憲法に他ならない。かつてシェイクスピアを全訳もした優れた英文学者でもあった福田恆存が指摘していたように憲法の前文には明らかに慣用の日本語としては間違いの助詞が数多くある。たかが助詞と言うなかれ、一つの助詞は言語の本質からしてそれ一字だけで文章全体の品格を左右しかねないものなのだ。

文章の芯たる助詞の誤訳

かつてドナルド・キーン氏であったろうか、昔の優れた叙景歌人だった永福門院の名歌『真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消え行く』を翻訳して見せられた時、なるほどと感心して読みなおした私に、「でもあそこの一字だけはとても難しくて、英語に訳すのはまず無理ですねえ」と慨嘆してみせ、私も「あれは難しいでしょうな」と相槌を打ったものだが、ここの禅問答みたいな会話の芯は夕日の影ぞの、「ぞ」という間投詞の味わいなのだ。この歌は夕日の影「も」でも成り立つが「ぞ」という助詞一字の味わいがなくしては帝の寵を失った女の悲しみは伝わってこない。それほど助詞というものは文章を支える芯の芯にも値するものなのだ。しかしアメリカ人が英語で即製して日本語に翻訳した憲法にはわれわれが日常使う日本語としてはなりたたないような助詞の誤訳が随所にある。

例えば多くの問題を含む九条を導き出すための前文『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』という文言の「公正と信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だがこれは日本語としての慣用からすればあくまで『を』でなくてはならず誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう。さらに後段の『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ』云々の『から』なる助詞は『から』ではなしに慣用としては恐怖『を』免れのはずだが英語の原文の前置詞がFROMとなっているために『から』とされたに違いない。

たかだか僅かな助詞の話ではないかと言う筋も多かろうが正統な国家の正統な基本法はあくまで正統な国語で綴られるべきであって、この日本語の体をなしていない前文なる文章は、悪さをなして先生にひどく叱られ恐縮してひたすらにお詫びする生徒の卑屈な姿勢を象徴しているといわざるを得ない。日本がひきおこした太平洋戦争についてナセルとスカルノは期せずして同じことを述懐していたものだった。曰くに『われわれが独立を果たすことができたのは、敗れはしたが日本が白人とあれだけ戦ったという事実のおかげだ』と。日本という有色人種による軍事国家の誕生が中世以来の白人支配という歴史の原理を変えたことは間違いない。それは歴史の本流を歩んできた白人たちにとって看過できぬことだったに違いない。そうした歴史観に立ったかつての為政者によって現憲法が一方的に作り与えられたことは間違いない。われわれが拝領させられた憲法の歴史的な背景を考えれば民族の主体性が及んだ痕跡などどこにもありはしない。

読み直し考え直す季節だ

私は幸いにしてごく若く世の中に出られたおかげで当時まだ存在していた文壇なるものにも顔が出せ、さまざまな行事を通じて多くの先人たちとまみえることができたが小林秀雄と親交のあった白洲次郎氏ともゴルフの会などで親しく話す機会も得た。そんな会話の中で印象的だったのはかつて吉田茂総理の側近中のだれにもまして側近だった白洲氏が、「吉田茂の犯した最大の間違いは自分も同行していったサンフランシスコの日本の独立がみとめられた講和条約の国際会議でアメリカ制の憲法の破棄を宣言しなかったことだ」と言ったのは極めて印象的た。この現世紀にいたって日本を囲む諸状況は緊張を増し新しい危機の到来が予感される今日だが、はたしてわれわれは今の憲法を墨守しそれを与えたかつての支配者にすべてを委ねることで国家民族の主体性を保持できるのだろうか。『天は自ら助くる者をのみ助く』という人の世の原理をわれわれは今ようやく憲法を見直すことで思い起こすべきではなかろうか。

現憲法にはその成立の過程を含めて日本という国家の主体性を疑われる節が多々あることは否めない。だけではなしに官僚支配という民主国家としての体質を損ないかねぬ条項がいくつかあるのだ。例えば予算を通じて官僚が国民を欺きかねぬ事態を保証している国の会計監査に関する第九十条は『国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し』とある。役人が役人たちの税金に関する所行を検査してその矛盾を厳しく指摘するなどということは考えられまい。そのせいで今もってこの日本だけは国家の会計制度は先進国の中でいまだに非発生主義の単式簿記という体たらくで、特別会計制度なる利権の巣窟が温存されつづけているし、まさに藪の中の体たらくで役人天国の温存にもなりかねまい。それらこれらも含めてわれわれはようやく本気であてがいぶちでしかなかった憲法を、われわれの子孫の繁栄のためにも、自分の目で読み直し考え直す季節が到来しているにちがいない。

 一方、アレクサンダー・グラバーは同じ1874(明治7)年に長崎を再び離れた。その後数年間の消息は不明だが、ジャーディン・マセソン商会の上海事務所に勤めていたと思われる。1882(明治15)、長崎へ戻って来た彼は、ジャーディン・マセソン商会代理人の肩書きを持っていた。同年7月28日、米国進出をもくろんでいたトーマスとアレクサンダーは、市場調査のためにアメリカ西海岸へ向かった。結局トーマスだけが日本へ戻り、アレクサンダーはワシントン州で土地を買い、余生をアメリカで過ごした。

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◎沖縄
■江崎孝…「集団自決」の大ウソ

 
 
 

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